縄文01 歴史の穴をまっさかさま
雨の匂いがする六月だった。
中学校の廊下はじっとりしていて、制服のシャツが肌に張りつく。
「南条、赤点一歩手前なー」
歴史のテストを返しながら、先生が半笑いで言った。
教室のあちこちから笑い声。
「やば」 「縄文で殆ど点とれないやつ初めて見た」
うるさい。
南条アリスは答案をぐしゃっと折った。
六十八点。
別に悪くない。 ……まあ、赤点じゃないし。
「歴史とか意味わかんないし」
隣の席の友達が笑う。
「またそれ言ってる」
アリスは机に突っ伏した。
土器とか、竪穴式なんとかいう家とか。
昔の人間の話なんか、 覚えて何になるんだ。
放課後。
家へ帰ると、 リビングのテーブルに父のスマホが置きっぱなしになっていた。
「あー、また忘れてる」
ママの声がキッチンから飛んでくる。
「お父さん今日打ち合わせなのにねぇ、すぐにわすれちゃうんだから、うふふ」
ママののんびりした声にアリスは苦笑いしながら、スクールバッグを床へ置いた。
その瞬間、 テーブルの上でスマホが震える。
アリスは躊躇なくそれを手に取って画面を見る。
【レン】 父さん今日スマホ忘れてんだろ
「お兄ちゃん?」
兄からのメッセージだ。
なんで父さんが忘れたのわかるの???
アリスは勝手にロックを解除して、ライメッセを開く。
【アリス】 なんで知ってるの?
【レン】 家庭内情報網をなめるな
【アリス】 ママからか〜
【レン】 歴史テストどうだった
【アリス】 ……普通
【レン】 うそつけ。歴史ニガテのくせに。なんで歴史だけ苦手なの?
【アリス】 昔のことより、未来!
【レン】 歴史くらいやっとけ 人類のログだぞ
意味わからん。
お兄ちゃん、 南条レンは昔から私に厳しい。
めんどくさい。……でもお兄ちゃんだから、まぁいい。
今は東京の渋谷で働いていて、 滅多に家に帰ってこない。
家から出ていっちゃったときはマジで寂しかったけど、でも家族ライメッセにはやたら反応してくれるので嬉しい。
【レン】 父さんのスマホ勝手に使うなよ
【アリス】 いまさら。置いてくのが悪い
【レン】 ロック解除できるの怖いわ
【アリス】 誕生日だからね!ふんす!
【レン】 セキュリティ終わってる
アリスは笑った。
その時。
窓の外が、 一瞬だけ白く光った。
雷?
いや違う。
リビングのカーテン越しに、 妙な光が揺れている。
「……?」
アリスは父のスマホを持ったまま、 窓に近づいて外を見た。
湿った風。
遠くで雷の音。
アリスが空を見上げた、その時。
空の奥が、一瞬だけ白く光った。
雷?
でも、今日はそんな予報だったっけ?
「え……なに、あれ」
雲の向こう。
何かがいた。
黒くて、 丸い影。
次の瞬間。
ブツッ。
家の電気が全部消えた。
「えっ――」
視界が揺れる。
耳の奥で、 変な音が響いた。
ジジッ――
風が止まる。
世界が、 ぐにゃりと傾いた。
床。
壁。
天井。
「きゃ! な、なに!???」
全部が、 渦みたいに回り始める。
色が、 少しずつ抜け落ちていく。
リビング。
カーテン。
父のスマホ。
全部、 薄くなる。
景色が、 絵みたいになっていく。
輪郭だけが残る。
白い線。
「な、なに、 これ……っ」
心臓が早鐘を打っている。
落ち着こうとした瞬間。
アリスの視界が、真っ白になった。
白かった。
何もかも。
床も、 壁も、 天井も。
そして、静かすぎた。
機械音もない。
空調の音すらない。
「……ぅ……」
気づけば倒れていた。
南条アリスはゆっくり体を起こした。
冷たい床。
制服の袖が濡れている。
「……ここ、どこ……」
頭が痛い。
さっきまで家にいたはずだ。
雷みたいな光が見えて――
その瞬間。
ガラスの向こうに、 “自分”が立っていた。
「…………え?」
息が止まる。
同じ制服。
同じ顔。
同じ髪。
もう一人のアリス。
ガラス越しの“それ”は、 感情のない目でこちらを見ていた。
まるで鏡。
でも違う。
絶対に違う。
「あ……」
後ずさる。
すると頭の奥へ、 急に声が流れ込んできた。
声じゃない。
意味だけが直接入ってくる。
《交換準備完了》
《対象個体、適合》
《地球文明観測プロトコル継続》
「な、なに……っ」
《旧個体処理へ移行》
旧個体。
それって。
「……わ、わたし?」
ガラスの向こうのアリスが、 ゆっくり瞬きをした。
そして。
微笑んだ。
完璧な笑顔だった。
その瞬間。
アリスは本能で理解した。
こいつ、 わたしじゃない。
逃げなきゃ。
アリスは立ち上がった。
走る。
白い通路。
どこまでも続く廊下。
重力が変だった。
足がふわふわする。
後ろから、 足音はしない。
なのに。
“何か”が近づいてくる。
《逃走確認》
《危険性なし》
《時間層投棄を実行》
「いやっ……!」
角を曲がった瞬間。
空間が裂けた。
真っ黒な穴。
何もないはずの空間なのに、深い深い、暗い穴。
その向こうに、 無数の光景が見えた。
燃える城。
刀。
田んぼ。
着物。
見知らぬ人々。
《観測対象、 時間流へ廃棄》
冷たい意味が頭に落ちる。
アリスは泣きそうになりながら叫んだ。
「やだ!!」
次の瞬間。
背中を、 強い光が貫いた。
世界が壊れる。
落ちる。
落ちる。
落ちる。
視界が、 ぐるぐる回転する。
色が抜ける。
白。
黒。
赤。
全部が混ざって、 線みたいになっていく。
世界が、 剥がれていく。
そしてアリスは落ち続ける。
世界が白く染まる。
回転する視界。
ーーそして世界は異物をーー
―――――。




