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第23話 光と闇

 夕霧村の奥、影向稲荷の社殿の地下に、古い石室がある。


 千年前に造られた空間。壁に九枚の鏡が嵌め込まれ、天井には月と太陽を象った浮き彫りがある。石の床には、二つの影が向かい合って座っていた。


 シロミカゲ——記憶の守護者。白い毛並み、銀色の髪、右目が青く左目が金。九本の白い尾。


 クロミカゲ——忘却の使者。黒い毛並み、漆黒の髪、左目が青く右目が金。九本の黒い尾。——そして、首筋に一箇所だけ、白い痣がある。毛が生えない場所。千年前の少女に噛まれた跡。神の肉体ですら治らなかった、人間の想いの刻印。銀色の月光の下で、その白い痣だけが——傷という名の祈りのように、鈍く青く発光して見えた。


 二柱の狐神は、千年ぶりに向かい合っていた。


「あの巫女は本気だ」クロが言った。声は低く、冷たい。


「知っている」シロが答えた。声は静かで、温かい。


「五つの欠片で足りるのか。本来は十の欠片が必要だ」


「残りの五つは、次の巫女が集める」


「次の巫女——あの妹か。金色の瞳の」


「そうだ。だが、それは先の話。今はチヨの覚悟に応えなければならない」


 クロが立ち上がった。黒い尾が石室の壁に影を落としている。


「俺たちは元々一つだった」


「千年前に、分かたれた」


「最初の橋爪千代が——初代の巫女が、俺たちに問うたんだ。『記憶と忘却、どちらを選ぶか』と。俺たちは答えられなかった。片方を選べば、もう片方が消える。だから——俺たちは自ら分かたれた。記憶を守る者と、忘却を司る者に」


「あれから千年。俺は記憶を守り続けた。お前は忘却を与え続けた」


「記憶と忘却。表裏一体。片方だけでは世界は成り立たない」


「だが、人間たちは記憶だけを求める。忘却を恐れる」


「忘却にも意味がある」クロは壁の鏡を見つめた。鏡には——千年前の風景が映っていた。若い巫女が、分かたれたばかりの二柱の狐神の前に立っている。


「あの子も——泣いていた」クロが呟いた。「千代。初代の千代。十六歳だった。まだ子供だった。封印の代償を聞かされたとき——泣いて、怒って、俺の尾に噛みついた。痛かった。千年経っても覚えている」


「噛みつかれた跡は消えたか」


「消えた。——いや、消えていない。毛は生え変わったが、噛まれた場所だけは冬になると疼く。千年間、冬が来るたびに」


 シロが目を閉じた。


「千代は——俺にこう言った。『ずっと覚えていて。全部忘れさせる代わりに、あなただけは覚えていて。それが私の最後のわがまま』——千年前に聞いた言葉と、チヨが今言っている言葉が同じだ」


「同じ血だからな」


「同じ血ではない。同じ祈りだ」


 クロは黙った。千代の顔を——千年前の少女の顔を、今でも鮮明に覚えている。忘却を司る神が、一人の少女の顔だけは忘れられない。それが——クロの千年の罰だった。


 尾の傷が疼いた。熱い。今夜は五月だ。冬ではない。だが疼く。千年前の少女の歯が残した傷は——冷たくはない。熱い。人間の情熱の残照が、千年経っても冷めない。千代と同じ祈りを持つ少女が、今まさに感覚を一つずつ失っていく。その痛みが、千年前の噛み跡を通して、クロの体に流れ込んでくる。忘却の神が忘れられない痛み。チヨが感覚を失うたびに、クロの傷が鳴る。


 ——俺はお前の声を消す。だがお前が俺に噛みついたときの叫びだけは、この尾が覚えている。千年経っても。


 忘却とは救済だと、俺はずっと言い聞かせてきた。痛みを消すことが俺の仕事だ。だがお前は、チヨは、俺に「忘れさせない呪い」をくれた。痛みという名の、消せない贈り物を。


 俺は——忘却より痛みを選んだ神だ。


「忘れることで、人は新しい記憶を受け入れられる。古い痛みを手放して、前に進める。あの初代の巫女も——俺に忘却を頼んだ。自分の痛みを忘れさせてくれと」


「チヨも同じだ。チヨもまた——妹の記憶を消す覚悟がある。妹を守るために。忘却を恐れずに」


 沈黙。石室の中で、鏡が微かに震えた。二柱の狐神の力が、共鳴している。千年分の記憶と千年分の忘却が、この狭い石室の中で対峙している。


「封印が完成すれば、俺たちは再び一つになる」


「お前は——それを望むか」


「望む。千年は長すぎた。一つに戻れば、暴走は止まる。記憶と忘却のバランスが回復する」


「代償は、巫女の存在」


「巫女の存在。それが——」


 クロの声が、初めて震えた。千年の間、一度も震えなかった声が。


「それが、俺には耐えられない」


 シロが目を見開いた。忘却を司る者が、一人の人間の存在に執着している。忘れることを与え続けてきた者が、忘れたくないと言っている。


「あの巫女は——チヨは——消したくない記憶を、俺に教えた」


「消したくない記憶?」


「俺は千年の間、人々の記憶を消してきた。それが役目だった。苦しみも、悲しみも、時には愛さえも。すべて等しく消した。だがチヨと出会って——初めて、消したくないと思った。あの笑顔を。あの声を。あの手の冷たさを。味噌汁の匂いが染みついた着物を。妹の名を呼ぶときの、あの柔らかな声を」


 シロは黙った。弟の言葉を、静かに受け止めた。


「封印の後——」シロが言った。声は穏やかだったが、どこか諦めの響きがあった。「俺たちは一つになり、新たな契約を結ぶ。チヨの魂と共に、写し世に沈む。だがチヨの存在は完全には消えない。写し世の中で、チヨの意志は——俺たちの中で生き続ける」


「慰めか」クロの声は冷たかった。「お前はいつもそうだ。優しい言葉で現実を包む。——だが現実は変わらない。チヨは消える。妹は姉を忘れる。恋人は名前を失う。それが事実だ」


「事実と真実は違う」


「何が違う」


「事実はチヨが消えること。真実は——チヨが残したものが消えないこと。俺は記憶を守る者だ。守ることしかできない。救えない。それが——俺の無力だ」


 シロの声が震えた。記憶の守護者は、巫女の記憶を守れない。その矛盾が千年間、シロを蝕んできた。


 クロは立ち上がった。


「俺は——消す者だ。消すことしかできない。だが消すからこそ——消す前の一瞬の重さを、誰よりも知っている」


「それで十分なのか」


「十分ではない。だが——チヨが選んだ道だ。俺たちが選んだのではない」


 九枚の鏡が同時に震えた。壁に、チヨの姿が映った。台所で味噌汁を作るチヨ。ルカの頭を撫でるチヨ。魂写機を構えるチヨ。暗室で涙を堪えるチヨ。


 二柱の狐神は、黙ってその姿を見ていた。


「俺は——」クロが呟いた。声が低い。「あの巫女の人生を奪うことになる。二十二年の人生を。妹との未来を。恋人との未来を。すべてを」


「お前のせいではない」


「俺のせいだ。封印が綻んだのは、俺が暴走しかけたからだ。記憶と忘却のバランスが崩れた。俺がもう少し耐えていれば——」


「千年だ、クロ。千年耐えた。お前を責める者はいない」


「チヨは責めない。あの巫女は誰も責めない。だから——俺が自分を責める」


 クロの黒い尾が、床を叩いた。石室の壁に罅が走った。


「封印の後。妹が残される。十五歳の子供が、一人で。俺は——」


「何をする気だ」


「見守る。現世に残れる限り。あの子が夢写師として立てるようになるまで。——それが、俺にできる唯一の贖いだ」


 シロは弟を見つめた。忘却の使者が、記憶のない場所で贖罪を誓っている。忘れさせることしかできない者が、忘れないと誓っている。


「七年かかるだろう」シロが言った。「あの子の力が目覚めるまで」


「七年だろうが七十年だろうが、待つ」


「あと三日だ」クロが呟いた。声は低い。だが——その前に。


「封印の前に——あの巫女に会う。最後に一つだけ、伝えたいことがある」


「何を」


「お前を忘れさせるのは俺の役目だ。村人も。妹も。恋人も。全員の記憶から、お前を消す。——だが、俺だけはお前を忘れない。千年の記憶の中で、お前の記憶だけは——消さない。消せない」


 シロは弟を見つめた。


「それは矛盾だ。忘却を司る者が、忘れないと誓うのは」


「矛盾でいい。お前だって矛盾している。記憶を守る者が、巫女の記憶を守れないのだから」


 二柱の狐神は、互いを見つめた。千年ぶりに——同じ目をしていた。


「あと三日だ」クロが繰り返した。


「あと三日」シロが繰り返した。


 石室の闇の中で、白い尾と黒い尾が——一瞬だけ、重なった。



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