第16話 たとえあなたが私を忘れていたとしても
上下左右から無茶苦茶に引っ張られ、かき回される。
まるで洗濯機内で回る五日間ほどためこんだ洗濯物のよう。
そんな酔い止め薬を通常の百倍飲んでいても効果がないであろう状況。
どうしてか零の脳内で、過去のことが映しだされる。
(……あの日の前の夜……小さな喧嘩で機嫌を損ねた母さんは……朝仕事に行く父さんの見送りに出てこなかった……)
それは彼女の母親が一生の後悔とする場面。
(……職場や保険会社からお金が入ったのに……父さんの親戚に騙されて全部持ってかれた……でも無理もないよね……あの時の母さんは冷静な判断ができる状態じゃなかった……それに……今の私と同じくらいの年だったもの……)
そして彼女の母が古びた携帯電話を両手で握りしめ、小さな液晶画面を見つめるシーン。
(こんな仕事をしてるから……万が一のことがあったら自分の写真は全部捨てて……別の人と幸せになってくれなんて言い残したせいで……母さんはその言葉の前半は実行しちゃったけど……それでも……あの昔の携帯電話の中にある写真だけは消せなかった……)
その中の写真を彼女の母は誰にも見せなかった。
零にすら。
だから零は父の顔が今でもはっきり思い出せない。
場面はまた移る。
(……これは……酉井さんが初めて店に来た時…… ? )
信じられないものを、例えば日本で一番有名な若手政治家が急に理路整然と論理的に、つまりは意味がわかるように話し出した姿でも目撃してしまったかのように固まる彼女の母。
それを訝しげに見る零。
「……なんだ ? ひょっとしてこの店は一見さんお断りか ? 」
「…………そんな高級店に見える ? 」
「いや、全然、まるで、完全に、少しもそうは見えないが悪い意味の地域密着型で、よそ者が来店した時は地域の有力者の私兵がそのよそ者を排除しにくるような店かと思ってな」
「今は令和よ。昭和じゃないんだから」
「……昭和でもそんなことあるわけないでしょ ! 何その少年じゃない方の金田一が事件解決しそうなほどの閉鎖的な村社会は !? 」
零が怒鳴り、彼女の母は、そうね、と苦笑い。
その間に酉井は無表情でカウンター席に座る。
それからほぼ毎日、彼は零の母の店に通う。
(あの日から……母さんは少し変わった……ううん……そうじゃない……きっとあれは……私が知らないころの母さん……)
ブンッ ! と身体全体が震えて、彼女は投げ出される。
なんとか足の裏が硬い床に触れた感覚を頼りに踏ん張って、よろめきながらも倒れることはなかった。
そして顔をあげた彼女の瞳に映ったのは、大きな石造りの部屋。
石の色がそのままに部屋を殺風景に仕上げている。
その部屋で唯一美々しいものがあった。
煌めく金色。
それは冷たい床に倒れ伏す女の髪だ。
その上には汚物塗れのブーツが載せられていても、その輝きをくすませることはできなかった。
床には彼女の他に何人かが倒れている。
立っているのは、どう見ても日本人には見えない男達。
帰化していれば別だが。
出で立ちは中世ヨーロッパの兵士が鎧を脱いで、帯剣しているような雰囲気。
突然現れた零に茫然としているようだ。
「……てめえら ! 何弱いものイジメしてんだよ ! その足をどけろ ! 」
こんな状況なのに、すぐさま零は激昂した。
周囲に酉井も「不審者」の姿もないのに。
数舜の沈黙、そして嗤い。
「マルガリータ姫が『弱いもの』か ! 本人が聞いたら怒り過ぎて憤死するだろうぜ ! 」
「いや確かに弱いぜ ! 頭がな ! だからこんな罠に引っかかって死ぬんだ ! 」
ブラウンの髪の目の細い男が足で軽くマルガリータを小突く。
「やめろって言ってんだろが !! 」
きっとこの場での最適解は時間稼ぎ。
こんな男達を簡単に倒してしまえる者との合流までの。
だが零は突撃する。
何の作戦もなく。
何の武器もなく。
床に伏した女の尊厳を守るために動かないことが、どうしてか彼女自身の尊厳を失うような気がしたのかもしれない。
ブラウン髪の男は、ロドリゴは細い目をさらに細めて、すらりと剣を抜く。
その時、男達のさらに向こうの壁。
そこに設けられた石造りの部屋に相応しい重厚な扉。
それが開いた。
「と……なんだあんたかよ !! 」
「……なんだとはご挨拶ですねぇ。これでも必死に駆け付けたんですよぉ !! 」
汗まみれの「不審者」だ。
「なんだ貴様 !! オークか !? 」
「人語を喋っているぞ !? 」
男達は異様な風貌の「不審者」を訝しげに見やる。
「ひひひ、このご時世に少しの躊躇いもなく容姿いじりをかましてくるとは、さすが未開な世界ですねぇ ! いいでしょう ! 私が文明的にあなた方を倒してさしあげましょう ! 」
何がそうさせたのかはわからないが、「不審者」は急にテンションがマックスとなる。
そしてとる。
ファイティングポーズを。
「ひひ、野蛮なあなた方は知らないかもしれませんがね。地球にはボクシングというスポーツがあるんですよぉ。それは体重によって厳密に階級が分けられています。それはねぇ、体重の重い者こそが強者だからです。そこには絶対の壁があるんですねぇ ! それを今から実演してみせましょう ! 」
体重だけはヘビー級ボクサーに伍するであろう男は、ニヤリと笑んだ。
「いやそれ体重差によるパンチ力や耐久力の違いを考慮した階級でしょ ? 素手同士が前提の ! 相手はどんなに体重の重い奴に使っても一突きで殺せる剣を持ってんだけど !? 」
零の声が虚しく響いた。




