鞍馬天狗草紙 ー残暑ー
鞍馬寺の本堂に足を踏み入れた陽炎は、ほっと胸をなで下ろすと同時に深く嘆息した。
(また、無防備な)
広い板の間のどまんなかで、少年の姿をした鞍馬山の主、鞍馬天狗が手足を投げ出していびきをかいていた。枕元では子猫の姿をした猫又が二本の尻尾を同じように投げ出して眠り、気持ちよさそうに丸まっている。
のびのびと昼寝をする天翔丸の姿に、陽炎は溜息をつかずにいられなかった。
今日もいつものように朝から根の谷で武術の修行をしていたが、連日の暑さが天翔丸の集中力を溶かしてまるで修行にならなかった。鞍馬山は周囲の山と比べて標高が低いため、暑さが籠る。特に今日は風がそよとも吹かず、大気が蒸している。
厳しい残暑だった。
はじめは叱りつけたり怒りをあおったりしながら強制的に修行をさせていたが、どうやっても気が入らない。やる気がないのに鍛えてもそれほどの効果も上達も見込めないので、陽炎は天翔丸の気分転換と休養もかねて午後の修行を休止とした。
休止を告げたとたん、天翔丸はしゃきっと立ち上がり、飼っている猫又の琥珀と鞍馬川へむかった。それまでのだらけぶりはどこへ行ったのか、琥珀と水をかけあったり魚や沢蟹を捕ったりして元気に遊び回った。
山の主とはいえ、中身は十四歳の少年である。まだまだ遊びたい盛りだ。
たまにはいいだろうと自分に言い聞かせて、陽炎は遊ぶ主を川に残し、ふだんなかなか手の回らない巣の掃除にとりかかった。山奥にある影立杉という古木の樹洞が鞍馬天狗の棲処、巣である。通常、主の巣の清掃は眷属がやるものだが、新たな鞍馬天狗にはまだ眷属がいない。琥珀は天翔丸の食事の用意などはしているが、掃除までは気が回らないようだ。陽炎は散らかっている物を片付け、埃をはらい、巣の中を一通りととのえて川に戻った。戻ったら、そこに天翔丸の姿はなかった。
姿をさがしてあたりを見回し、陽炎は瞠目した。川辺に鞍馬山の宝剣・七星が落ちていた。あわてて七星を拾いあげて持ち主の名を呼んだが、答える声はない。何かに襲われたのだろうか、川に流されたのかもしれないーー不安が胸に充満しかけて、ふと眉をひそめた。
一つ、心当たりがあった。
もしやと思い鞍馬寺に駆けつけてみれば、案の定、ここにいた。
少し目を離したらすぐこれだ。何度注意しても天翔丸は鞍馬寺の住職八雲に近づくのをやめない。こちらの目を盗んでは鞍馬寺へと足を運び、住職と酒を飲んだり、碁を打ったりして遊んでいる。幸い住職は外出しているようで気配は感じられなかった。遊び相手が不在だったため、そのまま寝転んで昼寝に突入したというところであろう。
陽炎は足音を消して歩み寄り、七星を天翔丸の手元に置いた。
ーー何があっても、絶対に七星を離さないように。
事あるごとに口を酸っぱくして言っているのだが。
七星は最強の神器と名高い鞍馬山の宝剣である。欲しがって山まで奪いに来る不遜な輩も少なくない。代々の鞍馬天狗に受け継がれる至宝をあのように置き去りにするとは。
陽炎は天翔丸のかたわらに端座して、また小さく溜息をこぼした。
(七星も音羽のように扱ってくれるといいのだが)
音羽とは、天翔丸が愛用している笛である。楽師になるという夢はもうかなわないとわかっているはずだが、天翔丸は笛を吹くことをやめない。どんなに疲れていても毎日欠かさず笛を手にして熱心に練習に励み、怨霊から譲り受けた笛を宝物のように大事にしている。笛を吹くことが本当に好きなようだった。その情熱の半分でも武術の修行と七星にそそいでくれたらと思わずにいられない。
鞍馬天狗にとって、七星は絶対になくてはならない神器である。失くせば命にかかわる。これは大げさではなく、まぎれもない事実。
(しっかり肝に銘じさせなければ)
寝顔を見つめながら、陽炎はどう言い聞かせたらいいものか思案した。
こちらの悩みなど露知らず、天翔丸はなんとも気持ちよさそうに眠りながら寝返りをうつ。元気の良さは寝ているときも同様で、いつもごろごろと寝返りをうち、起きたときには衣の半分が脱げてしまって帯だけが腰に残っている状態だ。寝相はすこぶる悪い。
陽炎は天翔丸のはだけた襟元をととのえ、黒衣の上衣を脱いで布団代わりにその身体にかけた。天翔丸はふつうの天狗のように羽毛に包まれていないので、冷えは身体に障る恐れがある。夏といえども油断は禁物だ。
「……うぅ〜……あっつ〜い……」
天翔丸が不快げに顔をしかめながら寝言をこぼした。
陽炎は寺の本堂を見回し、文机の上に置かれた扇子に目をとめた。金箔がふんだんに使われた扇子には、持ち主である住職の贅沢な生活がうかがい知れる。あの男の持ち物などさわるのも穢らわしいが、これは最適の道具である。陽炎は扇子に妖しい気配や術がかけられていないことを確認すると、天翔丸のもとへ戻り風を送った。
しばらく扇子であおいでいると、風が心地よかったのか、天翔丸はさらに深く眠りに入った。
その静かな寝息とは対照的に、寺のまわりでは蝉たちがうるさいほどに鳴きたてている。暑さを増幅させるような蝉時雨に降られているうちに、陽炎はこれほどの蝉の声を聴くのは久しぶりだということに気がついた。
主のいない山は生気が衰える。長く守護天狗が不在だった鞍馬山は、生物のよりつかない山だった。天翔丸が降山する前は蝉もいなかったことを思い出すと、蒼い瞳が現実を離れて過去を見つめだした。
(そういえば……去年の夏はどうだったのか)
今年のように暑かったのか。それとも冷夏だったのか。その前は? その前の夏は?
何年も鞍馬山で夏を過ごしてきたはずなのに、よくわからなかった。思い出そうとしても判然としない。
わかるのは、ずっとーーずっと、鞍馬天狗がいなかったということだけ。
その間にも季節はめぐり、暑い夏もうららかな春も彩る秋もあったはず。だが自分には季節を感じる余裕などなかった。世界に色はなく、ひたすらに暗闇がつづいていたように思う。感覚も、感情も、すべてが麻痺しているようで、だが苦痛だけははっきりと感じる。いつも暗澹としてどう生きていたのかわからない。いや、自分が生きているのか死んでいるのかさえもぼやけていた。
主のいない山は生気が衰える。そんな山に棲みつづけていた陽炎の生気も確実に衰えていた。
とてつもなく長く不毛な、終わりのない戦いに消耗しつづけた。それはまるで出口のない闇……闇の底。もう墮ちるところまで墮ちたと思っていたが、重い罪にまみれた身体はどこまでも沈みこんでいく。もがけばもがくほど深く。まともに息ができない、声も出ない、だから心で何度も叫んだ。苦しい……苦しい……誰か……早く……早く、鞍馬天狗ーー!
「んにゃあっ!」
どんっ。
声と衝撃に、陽炎ははっと我に返った。猫のような声をあげて天翔丸が寝返りをうち、黒衣をはねのけると同時にその足で膝を蹴ってきた。つられてか、その枕元で猫又も「んにゃ〜」と鳴く。
陽炎は扇子を落とし、震える両手で自分の身体を絞めつけるようにしてうずくまった。
「……は……ーー」
じっとしていても汗が噴きだすこの暑さの中にいるのに、心身は凍てつく真冬のように凍えていた。全身から血の気が引き、冷えきった手が小刻みに震える。過去を思い返すとこうなる。主のいない山での過酷な日々は、陽炎の心身を深く蝕んでいた。
現実に引き戻してくれた主は口をあけてよだれをたらしながら眠りこけ、また腹を出している。陽炎は呼吸をととのえながら、震えの止まらない手で蹴りとばされた黒衣をとってかけ直した。
そのときーー
ふいに天翔丸の手が動き、黒衣をかける陽炎の手をにぎった。
予想外の出来事に陽炎は息をのみ、その寝顔をみてさらに驚いた。
「……ふっ……ふふ……ははっ……」
天翔丸は眠りながら笑っていた。無邪気に、なんとも楽しそうに。
その笑顔を見つめているうちに身体から震えやこわばりがゆるゆるとぬけていき、陽炎は心の中で問いかけた。
(何の……夢を見ているのですか?)
琥珀と駆け回って遊んでいるのか、それとも笛に興じているのか、大好きな酒を飲んでいるのかもしれない。想像はいくらでもできた。
この鞍馬山で、天翔丸はよく笑っているから。
笑みのあふれる寝顔を見つめているうちに、陽炎の蒼い瞳から苦痛が消え失せた。
厳しい修行や鞍馬山での過酷な日々も、天翔丸から笑みを奪うことはできない。その強い心をくじけさせることも。新たな鞍馬の主は困難をはねのける強靭な精神力をもっているーーだから、笑う。
陽炎はにぎられている手にもう片方の手を重ね、天翔丸の手を包みこんだ。すっぽりと包みこめてしまう小さな手。けれどその手から伝わってくるぬくみは陽炎の冷えた手をすぐに温め、震えをぴたりと止めた。
守護天狗の降山をひたすら願いつづけ、その実現を何度も夢見た。このぬくみは夢でも幻でもない。
(鞍馬天狗はいる……今、ここに、いる……)
深い安堵が手から全身にひろがった。
陽炎は天翔丸の手をそっと床に置くと、扇子をとってまた静かに風を送りはじめた。
目覚めれば戦わなければならない。
それが鞍馬天狗の宿命。
だからせめて今は、楽しい夢をゆっくり見ていられるように。
厳しい残暑を少しでも和らげられるよう、陽炎は眠りこける鞍馬天狗に涼風を送りつづけた。
(終)
【作者コメント】
脚本でも小説でもそうですが、書き始める前にまずキャラクター設定を考え、テーマを設定し、プロットと呼ばれるあらすじを書いてから物語を文章におこしていきます。しかし実際に書いていくと、キャラが予定外のセリフをしゃべったり思わぬ行動をとったりして、展開が変わってしまうことがあります。
そういった想定外の事が、私はすごく重要だと考えています。プロットの流れや予定にはめるのではなく、キャラの行動を尊重する。そうすることで架空のキャラに血が通うと思うのです。
鞍天はほとんど天翔丸目線で進んでいくので陽炎の心情にふれることが少なく、設定的には考えてあるけど実際のところ陽炎は日常で何を考え何を感じどう行動しているのか? ちょっと小話でも書いて陽炎というキャラを探ってみよう……と書いたのがこの話です。
そんな感じで、あくまで作者のキャラ確認作業のために書いた話なので、実は……時系列は成立していません。3巻までの季節は秋〜冬のふた月。本編で夏になる頃には天翔丸と陽炎の関係はかなり変化していると思うので、この話はおそらくどこにも入りません。
いいかげんで申し訳ありません(汗)。
そしてこの原稿の脱稿日は2004年8月25日、まさに残暑まっただ中、あ〜〜暑い!という当時の自分の感情が見えるようです。
ちなみに夏の鞍馬山も暑いです。真夏に取材に行ったとき、盆地の京都市内とほぼ同じ蒸し暑さでした。木々に日差しが遮られる分はいくらかましでしたが、無風状態での蒸し暑さがはんぱなかったです。そんな鞍馬山の暑い夏のひととき、季節は架空の一コマ……という感じで楽しんでいただければ幸いです。