第十四話:南の大陸へ
旅は、想像していたより長かった。
アステリアを出港した船は、まず海沿いを南へ下った。しばらくは、行く先々の港で見慣れない言葉や見慣れない顔つきの人々とすれ違い、他の船とも頻繁にすれ違った。
「父さまのデータだと、このあたりの海域は――昔、いくつもの国の船が行き交う、大きな交易の要所だったらしい」
アリスが端末に投影した地図を指でなぞりながら言った。細い海峡が、幾つもの島の間を縫うように続いている。
「今は、行き交う船もずいぶん減ってるみたいだけど」
「無理もありませんわ」とヴィオラが言った。「海にもカオスゾーンはありますもの。陸より広く、逃げ場がない分、性質が悪いと聞きますわ」
「だから誰も、遠くまでは船を出さない」とチェロが補足した。「この海峡から先は、交易船でもほとんど踏み込みません。安全が確認されている範囲だけを、みな行き来しているんです」
途中、幾つかの島の港に立ち寄った。市場には見慣れない果物が並び、ゼノンはその一つを恐る恐る齧って、あまりの酸っぱさに顔をしかめた。
「――不味いな、これ」
「そう? わたしは好きですよ」
セフィラが涼しい顔で二個目に手を伸ばすのを見て、アリスが小さく笑った。
「意外と庶民派だよね、セフィラって」
「褒め言葉として受け取っておきます」
港の人々は、旅装のシスターズや、どこか浮世離れした一行を珍しそうに見たが、それ以上詮索してくる者はいなかった。この時代、素性を尋ねずに商売をするのが、この手の港町の作法らしかった。
「補給はこれで充分ですわね」とヴィオラが荷を確認しながら言った。「ここから先は、しばらく港もありませんわよ」
海峡を抜けると、船は南へ針路を取った。行き交う船の姿は目に見えて減っていき、護衛のセフィラとヴィオラが交代で周囲の警戒に当たるようになった。夜も交代で見張りを立てるようになり、それまでの気軽な空気が、少しずつ張り詰めたものに変わっていった。
「この先の海域、記録がほとんどありません」とチェロが海図を睨みながら言った。「わたくしたちの世界視察でも、ここまで踏み込んだ記録は数えるほどです」
「未知の海、ってことだね」
アリスの声にも、緊張が滲んでいた。
やがて他の船影は完全に絶え、視界に入るのは水平線だけになった。
「地図の上では、今はもう誰の国でもない海域です」
チェロが淡々と報告した。ヴィオラは日除けの下から水平線に目を細めていた。
「わたくしたちの世界視察でも、この海域の先までは踏み込めませんでしたのよ。姉様たちの記録も、ここから先は空白ですわ」
「じゃあ、ここから先は誰も知らない場所ってこと?」
アリスの問いに、ヴィオラは扇子を優雅に閉じて答えた。
「ええ。正真正銘の、未知ですわ」
ゼノンは船の縁に立ち、目を閉じていた。風の感覚を広げ、遠くの気配を探る。
「……妙だな」
「何かあった?」
「風が、変な流れ方をしてる。まっすぐ吹かない。何かを避けるみたいに、大きく曲がってる」
「マナの影響ですか!?」とセフィラが聞いた。
「たぶんな。ここまで来ると、俺の感覚でも分かる。この先に、何か大きなものがある」
出発前のリュウガの言葉が、全員の頭をよぎった。何か大きなものが、あの土地に眠っているらしい――。
◇◆◇◆◇
数日後、水平線の向こうに、陸影が見えた。
「――見えました。陸地です!!」
チェロの声に、全員が甲板に集まった。
赤茶けた大地が、海の向こうに横たわっていた。緑は少なく、乾いた色の台地が延々と続いている。誰も住んでいないのか、港も、船も、人工物の影ひとつ見えなかった。
「これが、南の大陸……」
アリスが呟いた。
上陸した浜辺は、静かだった。波の音の他には、風が砂を撫でる音しかしない。
ゼノンは砂浜に降り立つと、すぐに膝をつき、両手を地面に当てた。グラウンドに教わった、土の感覚でマナを読む構えだった。
「……なんだ、これ?」
「どうしたの?」
「マナが……薄い。それに、流れがほとんどない」
ゼノンの声には、明らかな戸惑いがあった。
「薄いって、どういうこと?」
「北の異常地帯は、マナが濃すぎて渦を巻いてた。竜の国は、ちょうどいい濃さの川がゆっくり流れてるようだった。でも、ここは――流れが極端に遅い。濃度も薄い。淀んだ水たまりの底みたいだ」
試しに、ゼノンは指先に闇を纏わせようとした。いつもなら一瞬で形になるはずの属性が、滲むように揺らぎ、安定しない。
「……魔法が、鈍い」
「マナが薄すぎるんですね」とセフィラが言った。「濃すぎても薄すぎても、魔法は不安定になります。適切な濃度の範囲がありますから」
「ここは、その範囲の下限を割ってる。俺たち竜には、かなり不利な土地だ」
ゼノンは立ち上がり、内陸の方角を見た。赤い大地が、夕日を受けて燃えるような色に染まっていた。
「ただ――奥は違う。この大陸の内側に、マナが集まってる場所がある。周りが薄いのは、そこに吸われてるからかもしれない」
「『大いなる器が眠る』――刻文の通りですわね」とヴィオラが呟いた。
アリスが、懐から端末を取り出した。淡い光の上に、大陸の輪郭が浮かび上がる。
「父さまのデータだと、この大陸は――ずっと昔、『オーストラリア』と呼ばれていた場所らしい」
「おーすとらりあ?」
セフィラが不思議そうに繰り返した。
「古い時代の呼び名。今は誰もそう呼ばないけど、父さまの知識の中には残ってる。私たちが上陸したのは、大陸の北の端。マナが集まってるらしい場所は――ここから、内陸に向かってかなり南に下ったあたり」
端末の地図に、アリスが指で線を引いた。ただ、投影された古い海岸線と、目の前の実際の地形は、ところどころ食い違っていた。
「地図と、形が違う部分がある。長い年月で、海岸線も変わったのかも。参考程度に考えた方がよさそう」
「では、実地の探査はわたくしの領分ですわね」とヴィオラが扇子を鳴らした。
◇◆◇◆◇
その夜、浜辺に張った野営地で、5人は火を囲んでいた。
「明日から内陸に入ります」とチェロが地図を広げた。ヴィオラの探査で得た地形の概略が、すでに書き込まれ始めている。
「水源の位置は、わたくしが上空から確認済みですわ。ルートはこの通りに」
「ヴィオラお姉様、仕事が早いです」
「当然ですわ、私を誰だと思ってらして!?」
アリスは火を見つめながら、少し黙っていた。
「……いよいよ、なんだね」
誰にともなく、そう言った。
「母さまの研究と、グラウンドさんの300年と、初代のお祖母様の足跡と――全部が、この大陸のどこかに繋がってる。そう思うと、少し緊張する」
「緊張は正常な反応です」とチェロが言った。
「そういうことじゃないんだけどな」
アリスは苦笑して、隣のゼノンを見た。
「ゼノンは? 緊張してる?」
「……少しな」
「素直でよろしい!」
「うるさい」
火の粉が、夜空に舞い上がっていく。見上げた空には、アステリアで見たものとも、船の上で見たものとも違う配置の星が広がっていた。
「星の位置が、違う」
ゼノンが呟くと、アリスが空を見上げた。
「本当だ。……ここまで来たんだね、私たち」
誰も知らない大陸の、誰も見たことのない星空の下で、5人の最初の夜が更けていった。
この大地の奥深くで眠り続けているものの正体を、まだ誰も知らない。ただ、大地は静かに、彼らの到着を待っていたかのようだった。




