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追放令嬢は、化学調味料で異世界の食文化を革命する!~100%人工のうま味で背徳の日本食を広めます!~  作者: 速水静香
第二章: うま味への旅

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第九話:メイド無双

 時間という概念が、ねばつく飴のように引き伸ばされる。そんな非科学的な感覚に、私の思考は囚われていた。


 眼前に迫る、巨大な牙。

 あれに貫かれれば、私の身体などひとたまりもないだろう。骨は砕け、肉は弾け飛び、アシュフォード公爵令嬢としての尊厳も、日本の食品開発研究員としての知識も、全てが意味をなさなくなる。ただの肉塊と化してしまう。


 ずうん、と空気が重たく振動する。

 ボアビーストが地面を蹴るたびに伝わる衝撃が、私の足元を揺さぶる。


 死。

 その、あまりにも絶対的で、抗うことのできない現実が、黒い壁となって私に迫っていた。


 私の立てた計画、私の科学魔法、私の知識。それら全てが、この圧倒的な質量と運動エネルギーの前では、子供の砂遊びのように無力で、滑稽でさえあった。


 ああ、これが、本当の『暴力』というものなのね。

 私が求めていた『味の暴力』とは、似ても似つかない、ただ純粋な破壊の衝動。


 私の人生も、ここまでか。

 豚骨の匂いすら知らずに、この異世界で二度目の生を終えるなんて、あまりにも、あんまりじゃないか。


「――お下がりください、お嬢様」


 その声は、地響きと、私自身の恐怖で鳴り響く耳の中で、妙にはっきりと私の意識に届いた。


 いつの間に。

 先ほどまで崖の上にいたはずのマリアが、私の前に立ちはだかっていた。

 黒いメイド服と、その上から身に着けた革の鎧。

 小さな、華奢な背中。

 けれど、その背中は、私と『死』との間に引かれた、一本の越えられない一線のようだった。


 ドガアァァァン!


 轟音。

 ボアビーストの突進は、もはや止まらない。山のような巨体が、マリアという小さな存在に襲いかかる。


 駄目だ、マリア! 逃げて!

 そう叫ぼうとした私の声は、しかし、喉の奥で凍りついて音にならなかった。


 全てが、終わる。


 そう、思った、瞬間だった。


 ふわり、と。

 まるで風に舞う一枚の木の葉のように、マリアの身体が、ほんのわずかに横へと動いた。

 それは、跳んだのでも、避けたのでもない。

 流れた、としか表現のしようがない、あまりにも自然で最小限の動きだった。


 ボアビーストの巨大な牙が、今までマリアがいた空間を、空しく通過していく。その牙の先端が、マリアのメイド服の裾を、ほんの数センチの差でかすめていったのが、私の目にもはっきりと見えた。


「え……?」


 何が、起きたの?

 私の脳が、目の前の現象を理解するよりも早く、事態は次の段階へと進んでいた。


 全力の突進を空振りさせられたボアビーストは、その巨大な質量を制御しきれず、前のめりによろめいた。

 その、ほんの一瞬。

 コンマ数秒にも満たない、致命的な隙。

 マリアは、その瞬間を、まるで何百年も前から知っていたかのように、逃さなかった。


 流れるように動いた彼女の身体は、よろめくボアビーストの巨体の、その側面へと回り込んでいた。

 そして、彼女が手にしていたナイフが、きらりと月明かりを反射した。


 ずしゃ、と。

 肉を断つ、鈍く湿った音が、私の耳に届いた。

 マリアのナイフが、ボアビーストの右前足の、ちょうど膝の裏あたり。太い腱が走っているであろう場所に、深く、正確に突き立てられていた。


 グギャアアアアアアアアッ!


 森全体を震わせるような、凄まじい絶叫。

 それは、怒りではなく、純粋な苦痛に満ちた叫びだった。

 ボアビーストの巨体が、がくり、と大きくバランスを崩す。右前足の力が抜けたことで、その巨体は、もはや自重を支えきれなくなっていた。


 ずしん、という地響きを立てて、ボアビーストは、私の目の前で、無様に横倒しになった。

 土煙が、もうもうと舞い上がる。

 あれほどの威容を誇っていた魔物が、今はただ、地面の上でのたうち回り、苦痛の声を上げているだけだった。


 私は、その光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。


 マリアは、そんな巨獣の断末魔にも、一切動じる様子はない。

 彼女は、倒れたボアビーストの頭の方へと、静かに歩み寄っていく。

 その足取りには、何の感情も見て取れない。喜びも、恐怖も、達成感すらもない。

 まるで、毎朝の日課である掃除をこなすかのように、淡々と、次の作業へと移っているだけだった。


 のたうち回るボアビーストが、最後の力を振り絞って、その巨大な頭を振り回し、マリアに襲いかかろうとする。

 しかし、その動きすらも、マリアにとっては、全て予測の範囲内であるかのようだった。

 彼女は、振り下ろされる牙をひらりとかわすと、逆にその牙を踏み台にするようにして、軽々と宙に舞った。


 そして。

 空中でくるりと体勢を反転させた彼女の身体が、ボアビーストの頭上、ちょうど眉間の少し上あたりに、正確に着地する。

 逆手に持ったナイフを、両手で、その場所へと突き立てた。


 ごす、と。


 硬い骨を砕く、嫌な音。

 あれほどけたたましかったボアビーストの絶叫が、ぴたり、と止んだ。

 巨体が、びくん、と一度大きく痙攣し、そして、動かなくなった。


 森に、静寂が戻る。

 残されたのは、血の匂いと、土煙と、そして、巨大な魔物の亡骸の上で、返り血一つ浴びていない姿で、静かにナイフを構えたままの、一人のメイド。


 マリアは、ナイフに付着した血を、懐から取り出した布で丁寧に拭うと、それをすっと鞘へと納めた。

 そして、くるりと私の方を振り返ると、いつもと何ら変わらない、抑揚のない声で言った。


「お怪我はございませんか、お嬢様」


 その言葉に、私は、すぐには反応できなかった。

 目の前で起きた出来事が、あまりにも現実離れしすぎていて、私の脳の情報処理能力を、完全に超えてしまっていたのだ。


 メイド。

 彼女は、メイドのはずだ。

 貴族の令嬢に仕え、身の回りのお世話をするのが、彼女たちの仕事のはず。

 戦闘訓練を受けることもあるとは聞く。しかし、それはあくまで、護身術のレベルだ。

 今、私が見たものは、そんな生易しいものではなかった。

 あれは、術理だ。

 人体の構造、生物の弱点、質量の運動。その全てを完全に理解し、最小限の力で、最大限の結果を出すためだけに、極限まで最適化された、技術の体系。

 あれは、生命を刈り取るためだけの、あまりにも純粋で洗練された、『殺傷術』とでも呼ぶべきものではなかったか。


「……お嬢様?」


 私の返事がないのを不審に思ったのか、マリアが、こてんとわずかに首をかしげた。

 その様子は、いつも通り可愛げすら感じさせるものなのに、今の私には、得体の知れない何かが、人間の皮を被って、メイドのふりをしているようにしか見えなかった。


「……あ……ええ……大丈夫よ……」


 ようやく、私は、か細い声を絞り出した。


「マリア、あなた……今のは、一体……」

「ボアビーストの討伐が、完了いたしました」

「い、いや、そうじゃなくて! あなたの、その……動きは……」


 私の問いに、マリアは、少しだけ考えるようなそぶりを見せた後、静かに答えた。


「メイドの嗜みの一つでございます」

「……嗜み」


 出た。

 彼女の、伝家の宝刀。

 全ての疑問を、有無を言わさず斬り捨てる、魔法の言葉。

 どこの世界に、体重一トンはあろうかという魔物を、ナイフ一本で、かすり傷一つ負わずに仕留めることを、『嗜み』で済ませるメイドがいるというのだろうか。


 私の頭の中に、たくさんの『?』が、明滅する。

 彼女は、一体何者なの?

 どこで、あんな技術を?

 なぜ、私の専属メイドなんかを?


 しかし、そんな私の疑念など、全く意に介していないかのように、マリアは、次の行動へと移っていた。


「では、お嬢様。これより、素材の確保作業に入ります。少々、血生臭くなりますので、お嬢様は、あちらの木陰でお待ちください」

「え……? 素材の確保って……」

「はい。このボアビーストの骨は、お嬢様が渇望なさっていた、濃厚な『だし』の原料となりうると、先日のご講義で伺っております。最高の状態で持ち帰るため、速やかに、血抜きと解体、そして保存処理を行う必要がございます」


 そう言って、マリアは、再びボアビーストの亡骸へと向き直った。

 そして、腰につけていた小さなポーチから、手際よく、いくつかの道具を取り出していく。

 先ほど使った戦闘用のナイフとは別の、刃渡りの短い、解体用のナイフ。それから、骨を断つための、小さな手斧。血を抜くための、金属製の筒のようなもの。

 その手際の良さは、まるで、この作業を、何百回、何千回と繰り返してきたかのようだった。


「……て、手伝うわ、私も」


 私は、まだおののく足を叱咤して、マリアの元へと歩み寄った。

 彼女の正体は、気になる。気になるけれど、それ以上に、研究者としての好奇心が、私の背中を押していた。

 最高のイノシン酸素材が、今、目の前にあるのだ。

 この解体作業を、間近で観察しない手はない。


「いえ、お嬢様のお手を煩わせるわけには」

「いいから! これは、私の研究の一環なの! それに、見てるだけなんて、性に合わないわ!」


 私の剣幕に、マリアは、一瞬だけ、その黒い瞳を丸くした。

 しかし、やがて、小さくため息をつくと、静かに頷いた。


「……かしこまりました。では、お嬢様には、こちらの補助をお願いいたします。くれぐれも、お召し物を汚さぬよう、ご注意ください」


 マリアから、いくつかの指示を受け、私は、おそるおそる、解体作業を手伝い始めた。

 まずは、血抜きだ。

 マリアは、ボアビーストの首の付け根、太い動脈が走っているであろう場所に、ナイフで正確な切り込みを入れる。


 どく、と。

 そこから、夥しい量の血が、勢いよく噴き出した。

 うっ、と、思わず鼻をつまむ。鉄錆のような、生臭い匂いが、あたりに立ち込めた。


「心臓が動きを止めてから、時間が経つほどに、血は肉に回り、臭みの原因となります。可能な限り、迅速に行うことが肝要です」


 マリアは、そんな惨状を前にしても、表情一つ変えず、淡々と解説しながら、作業を進めていく。

 彼女の指示通り、私は、ボアビーストの後ろ足を持ち上げ、血が流れやすいように、体勢を維持する。ずしりと重い。私の非力な腕では、これだけでも、なかなかの重労働だ。


 ある程度、血が抜けたのを確認すると、マリアは、次に、皮剥ぎの作業へと移った。

 ナイフの先端を、巧みに使い、皮と肉の間に、するすると刃を入れていく。その動きには、一切の迷いがない。まるで、そこに、目には見えない線でも引かれているかのように、正確な軌跡を、ナイフがなぞっていく。

 分厚く、硬いボアビーストの皮が、まるで、果物の皮を剥くかのように、綺麗に剥がされていく光景は、もはや、芸術的ですらあった。


「すごい……」


 思わず、私の口から、感嘆の声が漏れた。

 私の声が聞こえたのか、マリアは、手を動かしながら、こちらに視線を向けずに言った。


「この皮は、なめせば、最高級の防具の素材となります。腱は、弓の弦や、丈夫な糸として。内臓の一部は、薬の原料としても重宝されます。牙や爪は、装飾品や、武器への加工も可能でしょう。魔物とは、危険な存在であると同時に、我々にとって、貴重な資源でもあるのです」

「……詳しいのね、マリア」

「メイドの嗜みでございます」


 また、それだ。

 いったい、この世界のメイドとはなんなのだろうか?


 ……まあ、いいや。


 今はその言葉を、素直に受け入れるのが得策だ。

 そう、少なくとも私の知らない知識を、マリアは、たくさん持っている。

 それは紛れもない事実だった。


 皮を剥ぎ終えると、いよいよ、本格的な解体作業が始まった。

 マリアのナイフは、巨大な肉の塊を、筋繊維の流れに沿って、見事なまでに切り分けていく。

 赤身、脂身、筋。それぞれの部位ごとに、的確に、そして、驚くべき速さで、肉が解体されていく。

 その手つきは、もはや、熟練の猟師や、肉屋の職人というレベルを超えている。

 まるで、人体の構造を知り尽くした、外科医の手術を見ているかのようだった。


「お嬢様。こちらが、ロースの部分です。きめが細かく、赤身と脂身のバランスが、非常に良い部位かと」

「こっちが、バラ肉ね……! 見て、この美しい層を! 煮込めば、とろとろになること、間違いないわ!」


 最初は、そのグロテスクな光景に、少しだけ気後れしていた私も、いつの間にか、すっかり、研究者の目線に戻っていた。

 そうだ。これは、ただの肉塊ではない。

 うま味成分の塊。

 イノシン酸と、コラーゲンの宝庫なのだ!


「マリア! 骨よ、骨! 一番重要なのは、骨よ! 特に、背骨と、足の骨! そこから、最高のスープが取れるはずなんだから!」

「はい、理解しております。骨に傷をつけぬよう、慎重に関節を外しておりますので、ご安心ください」


 ごり、ごり、と。

 マリアは、手斧を巧みに使い、関節部分を的確に叩き、巨大な骨を、次々と肉から切り離していく。


 その作業は、数時間にも及んだ。

 巨大だったボアビーストは、最終的に、部位ごとに分けられた精肉の山と、綺麗に肉が削ぎ落とされた骨の山、そして、なめすためにまとめられた皮、その他の部位、という形に、見事に分類された。


 マリアは、それぞれの部位を、持参していた麻袋に手際よく詰めると、鮮度が落ちないように、近くで採取した、殺菌作用のある薬草の葉で包んでいく。

 その、どこまでも隙がなく、どこまでも手際のいい仕事ぶりに、私は、もはや、疑念を抱くことすら、忘れてしまっていた。

 ただ、感心と、畏怖と、そして、これから手に入るであろう、最高のスープへの期待だけが、私の心を占めていた。


 全ての作業を終えたマリアは、額に浮かんだ、ほんのわずかな汗を、手の甲で拭うと、満足げに、その成果を見下ろした。


「……これで、よし、と」


 ぽつり、と。

 彼女の口から、そんな小さな呟きが漏れたのを、私は、確かに聞いた。

 その声には、いつもの抑揚のない響きとは違う、どこか、仕事をやり遂げた職人のような、かすかな満足感がにじんでいるように感じられた。

 彼女も、もしかしたら、この作業そのものを、楽しんでいるのだろうか。

 そんなことを考えていると、マリアは、はっとしたように、私の方を振り返った。


「……申し訳ございません、お嬢様。長らくお待たせいたしました。全ての作業が、完了いたしました」


 いつもの、無表情なメイドの顔に戻っている。

 私は、首を横に振った。


「ううん、とんでもないわ。素晴らしいものを見せてもらったわ、マリア。あなたのその技術……本当に、すごいわね」

「もったいないお言葉でございます」


 マリアは、静かに一礼した。

 ずしりと重くなった、いくつもの麻袋。

 これを、どうやって、あの洋館まで、運び帰るというのだろうか。

 そんな、新たな疑問が、私の頭に浮かんだ、その時だった。


「では、お嬢様。帰りましょう。夕食には、このお肉を使い、簡単なスープでも作りましょうか」

「え、ええ……。でも、この荷物……」


 私が言い終わる前に、マリアは、こともなげに、その巨大な麻袋のいくつかを、ひょい、と片手で担ぎ上げた。

 一つだけでも、私の体重よりも、はるかに重いはずなのに。

 そして、残りの荷物を、私の方に、一つ、差し出してきた。


「お嬢様には、こちらを。一番軽いものを選んでおきましたので」

「……え、あ、ありがとう……」


 私が、両手で、ようやく、よろよろと持ち上げたその荷物を、マリアは、鼻歌でも歌い出しそうなほど、軽々と、いくつも担いでいる。

 もはや、突っ込む気力も、残っていなかった。


「さあ、参りましょう。日が暮れてしまいます」


 そう言って、森の中を、ずんずんと進んでいくマリアの小さな背中を、私は、たくさんの疑問符を頭の上に浮かべたまま、追いかけるしかなかった。


 私の立てた、緻密なはずだった狩猟計画は、あっけなく粉砕された。

 私の科学魔法は、何の役にも立たなかった。

 そして、私のメイドは、およそ人間とは思えない戦闘能力と、解体技術と、そして怪力の持ち主だった。


 何もかもが、私の想定を超えていた。

 正直、彼女の謎は多い。


 けれど、まあ、それはマリアのことだし、そんなものかと思い至った。


 それに過程はどうあれ、結果が全てだ。

 今、私のこの手の中には、最高の豚骨ラーメンへと至る、第一の素材が、確かにあるのだから。


「ふふ、ふふふ……! 待ってなさいよ、愛しのラーメン! 最高のスープを、この手で作り上げてあげるから!」


 私の、気味の悪い笑い声が、静かになった『嘆きの森』に、虚しくこだましていた。



 洋館に帰還した私たちは、まるで戦果を携えた凱旋将軍のような気分だった。まあ、実際に戦果を上げたのは九割九分九厘マリアで、私は彼女の邪魔にならないよう逃げ惑っていただけなのだけれど。


「ふぅ……。やっぱり我が家が一番ね」


 玄関の扉を開け、埃っぽくもどこか懐かしい我が家の匂いを吸い込むと、どっと疲労感が押し寄せてくる。ずしりと重い骨袋を床に降ろし、私はその場にへたり込んだ。


「お疲れ様でございました、お嬢様。すぐにお風呂の準備をいたします。夕食は、先ほどのお肉を使いましょう」


 マリアは涼しい顔でそう言うと、私一人では到底運びきれないほどの量の麻袋を、まるで買い物袋でも下ろすかのように軽々と床に置いていく。その息一つ乱れていない様子に、もはや突っ込む気力も湧いてこなかった。


「お風呂は後でいいわ、マリア! それよりも、始めるわよ!」


「始めると、申しますと?」


「決まってるじゃない! 記念すべき第一回! イノシン酸抽出実験よ!」


 私の瞳に再び研究者の炎が灯ったのを見て、マリアはかすかに、本当にごくわずかに、諦観の表情を浮かべたような気がした。


「……お身体に障ります。まずは休息を取られるべきかと」


「最高の素材を前にして、休んでいられる科学者がどこにいるというの! それに、鮮度が命なのよ! さあ、地下工房へ行くわよ!」


 私はマリアの制止を振り切り、最も重要な骨の入った袋を引きずりながら、意気揚々と地下へと向かった。

 そして、地下工房の扉を開けた瞬間、私は自分の目を疑った。


「な……なんですって……!?」


 そこに広がっていたのは、私が先日、華々しい爆発と共に廃墟へと変えてしまった、あの薄暗い錬金術工房ではなかった。

 壁の煤は綺麗に落とされ、砕け散ったガラス器具は片付けられている。それだけではない。中央にはレンガで組まれた新しい炉が鎮座し、その横には巨大な寸胴鍋が、まるで主役の登場を待つかのようにどっしりと構えていた。さらに壁際には、整理整頓された実験器具が並ぶ棚、そして天井には、見たこともない筒状の装置が設置されている。


「こ、これは……! 炉の構造が、熱効率を最大化するように改良されているわ! それにこの天井の筒……まさか、換気装置!? 煙を効率的に外部へ排出するための排気ダクトじゃない!」


 前世の知識をもってしても、驚くほど機能的に作り変えられた工房。それはもはや錬金術工房ではなく、本格的な化学実験室、いや、プロの厨房と呼ぶにふさわしいものだった。


「マリア……あなた、これを一体いつの間に……」


 私が呆然と振り返ると、マリアはこともなげに答えた。


「お嬢様が森で奮闘なさっている間に、村の職人の方々に少々『お願い』をいたしました。お嬢様がまた爆発を起こされても、被害が最小限に済むように、と」


「……その気遣い、素直に喜んでいいのかしらね?」


 若干棘のある言葉だったが、今は感謝の気持ちの方が大きい。これだけの設備があれば、私の研究は飛躍的に進むだろう。


「さあ、始めるわよ! マリア、その一番大きな寸胴鍋に、ボアビーストの骨をありったけ叩き込んでちょうだい!」


「かしこまりました」


 マリアが巨大な大腿骨や背骨を鍋に放り込むたびに、ごつん、ごつんと重たい音が工房に響く。私はその音をBGMに、白衣代わりのエプロンをきりりと締め、指揮者のように両手を広げた。


「いいこと、マリア? これから行うのは、ただのスープ作りではないわ。骨髄に眠るイノシン酸を、一滴残らずこの世に召喚するための、神聖な儀式なのよ!」


「はあ、儀式でございますか」


「まずは下処理! 骨が浸るくらいの水を入れ、一度沸騰させてアクと余分な血を抜くの! ここで手を抜くと、スープに雑味と臭みが残ってしまうわ! 丁寧こそが、科学の第一歩なのよ!」


 私の指示通り、マリアは手際よく作業を進めていく。やがて鍋の水が沸騰し始めると、灰色の泡がぶくぶくと浮かんできた。


「それよ! それこそが諸悪の根源、雑味の集合体! 全て取り除いてちょうだい!」


 マリアが黙々とアクをすくい、湯を捨てる。そして新たに水を満たし、いよいよ本格的な抽出作業が始まった。


「ここからが本番よ! 火加減は、沸騰するかしないかの瀬戸際を維持! 摂氏95度から98度が理想的ね! この高温を維持することで、骨に含まれるコラーゲンがゼラチン質へと変化し、スープにとろみが生まれるの!」


 ぐつぐつと、鍋が静かに煮立ち始める。最初は澄んでいた水が、徐々に白く濁り始めた。それと同時に、むわりとした濃厚な獣の匂いが、工房に立ち込め始める。

 換気装置がごうごうと音を立てていなければ、数分で呼吸困難に陥っていたかもしれない。


「うっ……! お嬢様、この匂いは……」


 さすがのマリアも、眉間にわずかな皺を寄せた。


「ふふふ、何を言っているの、マリア。これは悪臭なんかじゃないわ。これから生まれる至高のうま味の、いわば序曲! 食欲を暴力的に刺激する、背徳の香りなのよ!」


 私は恍惚の表情でその匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。前世で何度も通ったラーメン屋の、あのむせ返るような豚骨の匂いそのものだ。ああ、懐かしい。この匂いを嗅ぐだけで、白米が三杯は食べられそうよ!


 数時間が経過した。

 工房の中は、もはや豚骨地獄と化していた。湯気で視界は白く煙り、壁や天井は獣脂でぬるぬると輝いている。


「見て、マリア!この白濁こそが乳化の証! 脂質と水分が、コラーゲンという名の仲介人を通じて手を取り合った、美しき調和の状態なのよ!」


 私は巨大な木べらで鍋の底からスープをかき混ぜながら、マッドサイエンティストのような笑みを浮かべていた。髪は湯気でしっとりと濡れ、エプロンは脂でべとべとだ。もはや公爵令嬢としての面影はどこにもない。


「はあ……。それで、この儀式は、あとどれくらい続くのでございますか」


「まだまだよ! 最低でもあと半日は煮込むわ! 骨の髄の髄まで、うま味を絞り尽くすのよ!」


 私の狂気じみた宣言に、マリアはとうとう言葉を失ったようだった。


 そして、長い長い煮込み作業の末、ついにその瞬間は訪れた。

 鍋の中には、黄金色の脂が輝く、とろりとした乳白色の液体が、なみなみと湛えられている。骨は原型を留めず、ほろほろと崩れていた。

 工房に満ちる匂いは、もはや暴力的なまでの濃厚さで、私の理性を麻痺させる。


「か、完成よ……!」


 私は震える手で、お玉にスープを一杯すくうと、小さな器に注いだ。

 ふう、ふう、と息を吹きかけて冷まし、おそるおそる、その液体を一口、口に含んだ。


 その瞬間。


 私の脳髄を、雷が直撃したかのような衝撃が貫いた。


 濃厚。

 あまりにも、濃厚な、うま味の洪水。

 舌に絡みつく、とろりとしたコラーゲンの甘み。鼻腔を突き抜ける、野性味あふれる獣の香り。そして、それら全てを支配する、イノシン酸の圧倒的な存在感。

 ただの塩さえ加えていないのに、完成された一つの料理として、私の味覚中枢を激しく揺さぶってくる。


 脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックする。

 カウンターだけの小さなラーメン屋。湯気の向こうでラーメンをすする人々のざわめき。頑固そうな店主の背中。深夜、仕事帰りに食べた、あの一杯の、あの味……!


「ああ……あ……!」


 言葉にならない声が漏れる。

 目から、涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。

 追放された悔しさでも、未来への不安からでもない。

 

 感動の涙。


 私は、この世界に来て、本当に美味しいものに、初めて出会えたのだ。

 我を忘れた私は、器に残ったスープをぐいと一気に飲み干すと、天を仰いだ。

 そして、ありったけの声量で、叫んだ。


「あああああっ!我がイノシン酸に、栄光あれぇぇぇぇっ!」


 私の歓喜の雄叫びが、工房中に、いや、おそらくは洋館全体にこだました、その時だった。


「少々お静かになさってください、お嬢様」


 背後から、冷静なマリアの声がした。


 あっ、我を忘れていた。

 危ない、危ない。

 つい魂の雄叫びを上げていた私は、自分を取り戻す。


「こほん」


 私は、一度、マリアの前で咳ばらいをした。


「次は、グルタミン酸よ、マリア! 最高の昆布だし……ううん、『グルンブだし』。つまり、第二のうま味成分、『グルタミン酸』を入手しにいきます!」


 私は高らかに宣言した。


 この辺境の地の南端に位置する険しい海岸線。

 そこに記された地名は『セイレーンの涙』。

 なんともファンタジーな名前だけれど、マリアの調査報告によれば、その実態は翼を持つ海竜種の魔物『ワイバーン』が巣食う、極めて危険な場所だという。


「はい、ですが、今日はもう夜遅くなので、明日の朝としましょう。すでに、お風呂が沸いております」


 マリアからは、とても淡々とした、冷静な声が聞こえた。

 日常。そんな感じの。


「あっ、はい」


 とてもとても、興が削がれた私は、とりあえず、マリアに指示に従うことにした。


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【お菓子作り/もふもふ/スローライフ】
お菓子作りのための追放スローライフ~婚約破棄された公爵令嬢は、規格外の土魔法でもふもふ聖獣やゴーレムと理想のパティスリーを開店します~


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