第六話:大作戦会議
私の晴れやかな勝利宣言は、もうもうと立ち込める黒煙の中に、あまりにも虚しく吸い込まれていった。
マリアが天を仰いだまま動かない。その彫像のような横顔からは、感情というものがきれいさっぱり抜け落ちて、ただただ純粋な『無』だけが満ちているように見えた。無理もない。三日三晩看病した主人が、ようやく目覚めたかと思えば意味不明な料理を渇望し、挙句の果てにはお留守番中に任された館を派手に爆破した挙句、すすまみれの笑顔で「成功よ!」などと叫んでいるのだから。普通の人間なら卒倒しているところだろう。
「……マリア?」
さすがに少し心配になって声をかけると、彼女はゆっくりと、まるで錆びついた人形が首を動かすかのように、その黒い瞳を私に向けた。
「お嬢様」
「は、はい」
「とりあえず、火を消します。それと、換気も必要かと」
その声は、驚くほど平坦だった。怒りも呆れも通り越して、もはや無の境地に達してしまったのかもしれない。
マリアはそう言うなり、私が掲げていた成功の証であるフラスコをそっと、しかし有無を言わさぬ力強さで私の手から取り上げると、近くにあった木箱の上に置いた。そして、何のためらいもなく爆心地へと歩を進めていく。炉の中でまだぱちぱちと音を立てていた木炭の燃えさしを、近くに転がっていた鉄の棒で器用にかき出すと、どこから汲んできたのか、水差しに入った水でじゅわっと手際よく消火してしまった。
続いて、地下工房の小さな窓という窓を全て開け放ち、外の空気を中へと導く。あっという間に黒煙は外へと流れ出し、工房の惨状がより一層鮮明に照らし出された。
「あ……ああ……」
改めて見ると、ひどい有様だ。私の錬金術、いや、化学の夢の城は、一夜にして廃墟と化してしまった。割れたガラスの破片がそこら中に散らばり、壁は真っ黒に焦げ付いている。
「申し訳ございません、お嬢様」
私ががっくりと肩を落としていると、背後からマリアの声がした。
「え?」
「私がもう少し早く戻っていれば、このような事態は防げたかと。全ては私の不徳の致すところでございます」
「い、いや! 違うわマリア! これは全部、私の責任よ! 私が火力の調整をミスしたから……」
慌てて否定すると、マリアは静かに首を横に振った。
「いいえ。そもそも、お身体が本調子でないお嬢様を一人残して、長時間この館を空けた私の判断ミスです。深くお詫び申し上げます」
そう言って、彼女は深く、深く頭を下げた。そのあまりにも真摯な謝罪に、私はかえって申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
「ま、まあ、いいじゃない! 怪我もなかったし!それに、ほら、見て!グルタミン酸抽出が、これで証明されたんだから!これは失敗ではなくて、未来への大きな一歩なのよ!」
私は空元気を出して、先ほどのフラスコを指さした。マリアはちらりとその黒い塊に目をやったが、特に何のコメントもなかった。どうやらこの偉大な発見の価値は、まだ彼女には理解できないらしい。
「それよりも、マリア!あなたこそ、お疲れ様。その荷物、すごいじゃない!早速、有望なサンプルを見つけてきてくれたのね!」
私は話題を変えるように、彼女が提げていた籠に注目した。中には、ごつい猪のような獣の足が一本、ぬめりとした巨大な海藻の束、そして大小さまざまなきのこが数種類、ぎっしりと詰め込まれている。
「はい。帰り際に、いくつか。ですがこれらはあくまで、お嬢様がお腹を空かせてはいけないと思い、確保してきた食料でございます。調査報告は、また別に」
「え、そうなの!?」
てっきり、これが調査の結果、持ち帰ってきたサンプルだと思っていた。だとしたら、彼女の報告とは、一体どれほどのものだというのだろう。
私の期待は、ぐんぐんと高まっていった。
「まずは、この工房の片付けを。お怪我をなさいませんよう、お嬢様はそちらの隅でお待ちください」
「え、でも、私も手伝うわ」
「お嬢様のお手を煩わせるわけにはまいりません。これは、私の仕事ですので」
マリアはそう言って、有無を言わさぬオーラを放った。こうなった時の彼女を止めることは、誰にもできない。私は大人しく、工房の隅にある比較的無事だった椅子に腰を下ろした。
そこからのマリアの働きは、もはや神業としか言いようがなかった。
まず、大きなガラスの破片を素手で、しかし傷一つ負うことなく拾い集め、木箱にまとめていく。次に、どこから持ってきたのか、箒とちりとりで床に散らばった細かい破片や炭の燃えかすを掃き清めていく。その動きには一切の無駄がなく、まるで精密機械のように、淡々と、しかし恐ろしいほどの速さで作業が進んでいく。
一時間も経たないうちに、あれほど瓦礫の山だった工房は、驚くほどきれいさっぱりと片付いてしまった。爆発の痕跡である焦げ跡は残っているものの、少なくとも人が歩ける安全な状態にはなっている。
「……お待たせいたしました、お嬢様」
マリアは汗一つかかず、メイド服の乱れ一つない姿で、私の前に立った。
「あ、ありがとう、マリア……」
私は、もはや感心を通り越して、一種の畏怖すら覚えていた。
彼女は一体、どんな教育を受ければ、こんな超人メイドになれるのだろうか。
「では、場所を移しましょう。リビングでお話を伺います」
「かしこまりました」
私は、まだ少しだけ焦げ臭い匂いの残る地下工房を後にして、マリアと共に一階のリビングへと向かった。
◇
リビングのテーブルは、マリアが事前に拭き清めていたのだろう、埃一つなく、窓から差し込む光を受けて静かにたたずんでいた。私はソファに腰を下ろし、マリアが淹れてくれた薬草茶で喉を潤す。すうっとする爽やかな香りが、爆発でささくれ立った神経を優しくなだめてくれるようだった。
「さて、と」
私はカップを置くと、テーブルの向かいに直立不動の姿勢で立つマリアに向き直った。
「それじゃあ、改めてお願いするわ。あなたの調査結果を聞かせてちょうだい」
「はい、お嬢様」
マリアはこくりと頷くと、メイド服の懐から、何かを取り出した。
てっきり、彼女がいつも使っている小さなメモ帳が出てくるものだと思っていた。
しかし、彼女が取り出したのは、それとは似ても似つかぬ代物だった。
それは、何枚もの羊皮紙を丁寧に重ねて革紐で綴じた、分厚い書類の束。
マリアはその束を、ばさりとテーブルの上に広げた。
「……これは?」
私は思わず、前のめりになってそれに見入った。
羊皮紙の上には、インクでびっしりと、几帳面な文字が書き連ねられている。それだけではない。精緻なペン画で描かれた地図、植物や動物のスケッチ、さらには鉱物の断面図のようなものまで添えられている。
これは、ただの聞き込み調査のメモなどではない。
地形、気候、植生、生態系、鉱物資源の分布、近隣の村の人口と主要産業、流通経路に至るまで、この辺境の地に関するありとあらゆる情報が、系統立てて網羅されている。
まるで、どこかの国の諜報機関が作成した、軍事報告書そのものだった。
「……マリア、あなた、これを一体どうやって……?」
「近隣の村の村長、猟師の長、薬師、鍛冶職人、行商人の方々から、それぞれお話を伺い、情報を整理、統合いたしました」
「い、いや、そういうことを聞きたいんじゃなくて……! 半日足らずで、どうしてこれだけの情報が集められるのよ……!」
私の驚愕をよそに、マリアは淡々と説明を続ける。
「まず、村長には公爵家からのささやかな『寄付』を。猟師の長には猪の魔物の『効率的な解体方法』に関する情報提供を。薬師には珍しい薬草の『サンプル』を。鍛冶職人には新しい『合金の配合理論』を。行商人には王都の『最新の流行』についてのアドバイスを。それぞれ、対価をお支払いし、信頼関係を構築した上で、情報を引き出しております」
「……」
私は、もはや言葉を失っていた。
寄付金はどこから? 解体方法や合金理論なんて、どこで学んだの? というか、王都の流行って、あなた、ずっと私と一緒にこの辺境にいたはずじゃ……。
聞きたいことは山ほどあったが、今それを問い詰めたところで、彼女はきっと「メイドの嗜みでございます」とでも言って、平然と流すのだろう。
私は、深い、ふかーいため息をついた。
彼女の正体を探るのは、もう諦めた方が精神衛生上、良いのかもしれない。
「……分かったわ。もう何も聞かない。続けてちょうだい」
「かしこまりました。では、お嬢様よりご下命のありました、三種のうま味成分の原料候補について、ご報告いたします」
マリアは、報告書の一枚を指で示した。そこには、巨大な海藻の、極めて写実的なスケッチが描かれている。
「第一。グルタミン酸源の候補。近隣では『グルンブ』と呼ばれる大型の海藻が、最も有望かと」
「グルンブ……!」
その名前に、私の研究者としての勘が、ぴん、と反応した。グルタミン酸の『グル』。安直な気もするが、こういう直感は、往々にして当たるものだ。
「このグルンブは、ここから南へ半日ほど馬を走らせた先にある、『セイレーンの涙』と呼ばれる断崖絶壁にのみ群生しております。ご覧ください」
マリアが示したのは、その断崖絶壁の断面図だった。荒れ狂う波、切り立った崖、そして、その中腹、波しぶきがかかる岩肌に、びっしりと張り付くように生えているグルンブの様子が、克明に描かれている。
「潮流が極めて速く、満潮時には崖の大部分が海中に没するため、採取は困難を極めます。また、この一帯は、翼を持つ海竜種の魔物『ワイバーン』が縄張りとしており、近づく者には容赦なく襲いかかるとのこと。村の者も、漁の際には決して近づかない、呪われた場所として恐れておりました」
「……なるほど。それで、誰も手を出さないから、手付かずのまま残っている、と。最高のグルタミン酸が、採り放題というわけね!」
危険な場所であればあるほど、そこに眠るお宝の価値は高い。これは、研究においても冒険においても、共通の真理だ。私の目は、すでにきらきらと輝いていた。
「次に参ります」
マリアは、私の興奮を意に介さず、次のページをめくった。そこに描かれていたのは、巨大な牙を持つ、見るからに獰猛な猪の魔物の姿だった。
「第二。イノシン酸源の候補。私が最も有望と判断いたしましたのは、『嘆きの森』に生息する猪の魔物、『ボアビースト』です」
「ボアビースト……!」
なんと力強い響きだろう! その名前を聞いただけで、濃厚でパンチの効いた豚骨スープの幻が、鼻先をかすめたような気がした。
「この個体は、通常の猪をはるかに凌駕する巨体と、岩をも砕く突進力を誇ります。性質は極めて獰猛かつ執念深く、一度狙った獲物は森の果てまで追いかけると言われております。村の腕利きの猟師でさえ、複数人で罠を仕掛け、ようやく一頭仕留められるかどうか、という難敵。その肉は硬いものの、骨からは非常に濃厚な出汁が取れると、一部の食通の間では珍重されているようです」
「骨から、濃厚な出汁……!」
間違いない! これこそ、私が追い求めていた『ラーメンの魂』となりうる、最高の素材だ! イノシン酸と、コラーゲンがたっぷり溶け出した、あの白濁したスープ……! 考えただけで、よだれがじゅるりと口の中に広がる。
「そして、最後でございます」
マリアは、最後の羊皮紙をテーブルの中央に置いた。描かれていたのは、洞窟の奥で、ぼんやりと青白い光を放つ、そんな、きのこのスケッチだった。
「第三。グアニル酸源の候補。こちらは、村の古老から伝聞として伺った情報になりますが、『賢者の迷宮』と呼ばれる洞窟の最深部にのみ自生するという、幻のきのこ……通称『グアニ茸』です」
「グアニ茸……!」
またしても、直球なネーミング! だが、それがいい! 分かりやすさは、正義だ!
「この『賢者の迷宮』は、古代の誰かが作ったものとも、自然にできたものとも言われており、内部は複雑な迷路になっているそうです。壁が動いたり、床が抜けたりと、数々の罠や仕掛けが侵入者を阻むため、生きて帰ってきた者はいない、と。グアニ茸は、その迷宮の最も深い場所で、月の光を浴びることなく、自ら発光しながらひっそりと育つ……古老は、そう語っておりました」
「罠や仕掛けのあるダンジョンの、最深部に生える幻のきのこ……。ロマンしかないじゃない!」
私は、ばんとテーブルを叩いて立ち上がった。
もはや、興奮を抑えることなど、できそうもなかった。
「素晴らしい……! マリア、あなたの報告は、私の期待をはるかに超えるものだったわ! 非の打ち所がない! 実に、実に素晴らしい!」
私の手放しの称賛に、マリアは表情一つ変えることなく、ただ静かに一礼した。
「もったいないお言葉でございます」
「いいえ、謙遜する必要なんてないわ! あなたのその情報収集能力は、もはや一つの才能よ! ううん、才能なんて言葉では生ぬるい。これはもう、天賦の異能だわ!」
そうだ。
私の前世の化学知識という、理論のデータベース。
そして、マリアがもたらした、この世界のありのままの情報を記した、実践のデータベース。
この二つが、今、私の頭の中で、一つの壮大な研究計画へと統合されようとしていた。
「決めたわ、マリア!」
私は、テーブルに広げられた報告書と地図を、まるで世界を征服する将軍のように見下ろしながら、高らかに宣言した。
「私たちの、うま味探求の冒険計画よ!」
「……冒険、でございますか」
「ええ! まずは、手始めに『嘆きの森』へ向かい、ボアビーストを狩るわ! あの骨から、至高のイノシン酸スープを抽出するの!」
「……了解いたしました。ボアビーストの狩猟、ですね」
マリアの返事は、いつも通り平坦だった。まるで、「夕食の買い出しに行ってきます」とでも言うかのような、ごく自然な口調だ。相手は、村の猟師が束になっても敵わない、獰猛な魔物だというのに。
「次に、『セイレーンの涙』へ向かい、グルンブを採取するわ! あのワイバーンとかいう海竜、ちょっと面倒そうだけど、なんとかなるでしょう! 最高のグルタミン酸が、私たちを待っているんだから!」
「はい。ワイバーンの撃退と、グルンブの採取」
「そして、最後に『賢者の迷宮』を攻略し、グアニ茸を手に入れる! 罠も仕掛けも、私の科学知識と、あなたのその超人的な身体能力があれば、きっと突破できるはずよ!」
「……賢者の迷宮の、攻略」
私の壮大な計画を、マリアは一つ一つ、淡々と復唱していく。その黒い瞳には、不安や恐怖といった色は、微塵も浮かんでいなかった。
あるのはただ、主人の命令を忠実に遂行しようとする、静かで、しかし鋼のように強固な意志だけだ。
「そうよ! イノシン酸、グルタミン酸、グアニル酸! この三種の神器が揃った時、私たちの『神への反逆』は、完成を見るのよ!」
「……かみへの、はんぎゃく」
「そう! それが、私がこれから生み出す、究極の化学調味料の名前よ!」
ふふ、ふふふ、と。
私の口から、抑えきれない笑い声が漏れた。
婚約破棄? 追放? そんなもの、もはやどうでもいい。
令嬢としての私の人生は、あの夜会で、一度終わったのだ。
そして今、ここにいる私は、アシュフォード公爵令嬢ではない。
愛すべきジャンクフードをその手で再現するため、魔物が闊歩する森や崖、そしてダンジョンへと挑む、一人の食料探求家なのだ!
壮大な冒険の計画を前に、私の心は、フラスコの中で沸騰する液体のように、ぐつぐつと煮えたぎっていた。




