第三話:新たなる野望
「……やはり、少しお休みになられた方がよろしいかと存じます」
マリアのかすかな呟きは、すでに壮大な研究計画で満たされた私の脳内には届かなかった。なにせこれは、人類の食文化を次のステージへと導くための、第一歩なのだから。
「もう、マリアったら。私は本気なのに」
私は彼女の心配を意に介さず、明るく言った。身体はまだ本調子ではないが、脳はかつてないほど明晰だ。三十年分の科学知識と食への飽くなき探求心。それが今、私の全身を動かす新しいエンジンとなっている。
「いい、マリア? さっき私が解説した『追放劇』の一件。あんなものは私の人生においては、単なる計算ミスか実験の失敗のようなものなの。もちろん腹立たしいし不愉快極まりないけど、それはそれ。終わったことなの」
「……お嬢様」
「終わった実験の結果をいつまでも眺めていても新しい発見はないわ。重要なのはその失敗から得られたデータをもとに、次の、より壮大でより有意義な研究テーマへと進むこと。そうでしょ?」
私が問いかけると、マリアは返事に窮したようにわずかに視線を動かした。ふむ、やはり彼女の思考回路に『実験』や『データ』といった概念をインストールするには、まず実物をもって示す他ないらしい。
「お嬢様が過去の出来事にとらわれていない、ということは理解いたしました。ですがその……新しい研究テーマというのが、なぜその『らぁめん』というお料理に?」
「ああ、いいところに気づいてくれたわね、マリア!」
私は、ぱんと手を打った。待っていましたとばかりの質問だ。彼女のその素朴な疑問こそが、私の新たな野望の核心に触れる最も重要な問いかけなのだから。
「確かに婚約破棄も追放も、一個人の人生にとっては大きな出来事でしょう。でももっと大きな視点、そう、人類史っていうスケールで見た時に本当に憂うべき事態とは何だと思う?」
「……人類史でございますか」
マリアが、完全に未知との遭遇といった顔で聞き返した。その純粋な瞳が、逆に私の使命感を燃え上がらせる。
「そうよ! この世界における最大の文化的損失! それは食の根幹をなす『うま味』という概念が存在しないこと! これに尽きるのよ!」
私はベッドから勢いよく立ち上がると、狭い部屋の中を歩き回りながら熱弁を始めた。まるで学会の壇上に立ったかのように、身振り手振りを交えて。
「考えてもみて、マリア。この世界の食事はあまりにも単調で平坦だわ。塩味、甘味、酸味、苦味。基本となる味覚はあっても、それらが織りなすハーモニーに奥行きというものがない。素材の味を活かすと言えば聞こえはいいけど、それは単に味付けの技術が未発達であることの裏返しに過ぎないのよ!」
王宮で出された最高級とされる料理の数々が脳裏をよぎる。希少な鳥のローストも新鮮な魚の蒸し料理も、どれもこれもどこか物足りなかった。その理由が今ならはっきりと分かる。
「私が前世で知っていた世界には食の喜びが満ち溢れていたわ。それはひとえに『うま味』の発見と、その活用技術の発展があったからなの。グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸。これら三つのうま味成分はそれぞれ単体でも力強い味を持っています。でも特定の比率で組み合わせることで、その効果は何十倍にも増幅されるの。これを『うま味の相乗効果』と呼ぶの!」
「……うまみのそうじょう、こうか」
「ええ! 例えば獣の肉から取れるイノシン酸と、海藻から取れるグルタミン酸。この二つが出会った時、そこに味覚のビッグバンが起こるのよ! 口の中に広がる圧倒的な風味の洪水! 脳髄を直接揺さぶるような抗いがたい多幸感! それこそが人類が到達した、食文化の頂の一つよ!」
語っているだけで口の中に唾液があふれ出してくる。公爵令嬢としてはしたないことだが、この渇望はもはや理屈では抑えきれなかった。
「その頂を知らずに生きるなんて、なんて不幸なことか! この世界の人々は人生における最大の喜びの、その入り口にすら立っていないのよ。これはもはや個人的な問題じゃない。全人類に対する文化的冒涜と言っても過言じゃないでしょう!」
私はぴしりとマリアを指さして断言した。マリアは、その指先をただ瞬きもせずにじっと見つめている。
「だから私は立ち上がったの。この由々しき事態を看過することはできない、と。失われた食の喜びを取り戻し、この世界の人々に真の『美味しい』を届ける。それが新しい知識と使命を与えられた、私の責務なのよ!」
「……お嬢様の、責務」
「そうよ! そしてその第一歩が『ラーメン』なの。あれはうま味の科学の粋を集めた、いわば『食べる総合芸術』。濃厚なスープ、絡みつく麺、そして多彩な具材。一杯の丼の中にうま味の相乗効果、メイラード反応、乳化作用といった、ありとあらゆる調理科学の奇跡が凝縮されているんだから!」
マリアは完全に沈黙した。おそらく彼女の頭の中では、未知の単語が嵐のように吹き荒れていることだろう。だが、この情熱を止めることはできそうになかった。
「でもねマリア、私の野望はラーメンだけでは終わらないのよ」
私は窓辺に立つと、外に広がる荒涼とした景色を見つめながらうっとりとした声で呟いた。
「ああ……食べたい……。塩分と脂質が狂おしいまでに協演する、あの背徳の味……」
「……はい?」
「カリカリに揚げた鶏肉! 黄金色の衣をまとったあの罪深き塊! 一口かじればざくりという小気味よい音と共に、肉汁がじゅわっとあふれ出す! ニンニクと生姜の香りが鼻腔をくすぐり、脳に直接『もっと食べろ』と命令する! ああ『からあげ』……なんて蠱惑的な響き……」
「から……あげ……」
「それから薄切りにした芋を高温の油で揚げた、あの禁断の菓子! ぱりりとした軽快な食感! 指についた塩を舐めとるあの背徳感! 一度食べ始めたらもう誰にも止められない! 『ぽてとちっぷす』! なんて怠惰で素晴らしい発明なんでしょう!」
マリアは、異国の呪文でも覚えるかのように、小さな声で単語を繰り返している。その必死な様子が、私のプレゼンテーションにさらなる熱を加えさせた。
「それだけじゃないわ! ふかふかのパンに肉汁あふれる挽き肉の塊を挟んだ、あの『はんばーがー』! とろりと溶けたチーズとの相性はもはや悪魔的ですらあるわ! 甘辛いソースのかかった照り焼き味も捨てがたい……。ああ、そうだった! 小麦粉の皮で豚肉と野菜の餡を包んで焼いた『ぎょうざ』も! パリッとした皮の中から熱々の肉汁が飛び出してくる、あの味の暴力! 考えただけで全身の細胞が歓喜に打ち震えるようよ!」
はあ、はあと我ながら少し息が上がっていた。マリアを見ると、彼女はいつの間にか小さなメモ帳を取り出し、私が垂れ流す欲望の単語を、一言一句聞き漏らすまいと必死の形相で書き留めていた。その姿は、神の啓示を書き留める書記官のように、あまりにも真剣だった。
「お、お嬢様……。その、『からあげ』『ぽてとちっぷす』『はんばーがー』『ぎょうざ』……。これらもその『らぁめん』と同じく、お嬢様が再現なさりたいお料理という認識でよろしいのでしょうか」
「ええ、その通りよ、マリア!」
私は彼女の前に戻ると、その小さな肩をがしりと掴んだ。
「これらは私が愛すべき、偉大なるジャンクフードたち! 栄養バランス? 健康? そんなものはこの圧倒的な美味しさの前では些細な問題なの! 体に悪いと分かっていながらそれでもやめられない。その抗いがたい魅力こそが食文化の極致なのよ!」
私の剣幕にマリアの身体がびくりと小さく跳ねた。しかし彼女は逃げ出そうとはせず、その黒い瞳で、まるで嵐の過ぎ去るのを待つ小動物のように、じっと私の顔を見返してきた。
「マリア。私はこの何もない辺境の地を、新しい食文化の聖地にするわ」
「……聖地、でございますか」
「ええ。もはや、今の私には、アシュフォード公爵令嬢としての栄華など過去のものよ。私はこの世界に『うま味』をもたらし、ジャンクフードという新たなる福音を広める、いわば『食の伝道師』となるのよ!」
私は高らかに、そう宣言した。
部屋の窓から差し込む光がほこりをきらきらと照らし出し、まるで私の門出を祝うスポットライトのように見えた。
私のあまりにも突飛で、壮大で、そして何より食い意地の張った野望の宣言。
それを聞いたマリアは数秒間私の顔と彼女自身のメモ帳を交互に見比べた後、やがて何かを観念したかのようにふっと息を吐いた。
そしてすっくと立ち上がると、メイドとして非の打ち所がない深く美しい一礼をした。
「……かしこまりました」
その声にはもう迷いの色はなかった。
「お嬢様のその新たなる野望、誠心誠意お手伝いさせていただきます。このマリア、お嬢様が『食の伝道師』となられるその日まで。いえ、なられた後も永遠にお側に」
その言葉は静かだったが、どんな誓いよりも力強く私の胸に響いた。
ああ、やはり彼女は最高のメイドだ。
「ありがとうマリア。あなたがいれば百人力だわ」
私がそう言うと彼女は「もったいないお言葉です」とだけ返し、すっと表情をいつもの無機質なものに戻した。
その切り替えの早さも彼女らしい。
「ではお嬢様。具体的にはまず何から始めればよろしいでしょうか。先ほどの単語リスト……『からあげ』から試作に入りますか?」
「いえ、待ってマリア。気持ちは分かるけど焦りは禁物よ」
私は彼女の前のめりな姿勢を、冷静に制した。
まずは全ての基礎となる、あの味を確立しなければならない。
「全ての料理の基本となる『うま味』成分の抽出が最優先よ。それがなくちゃ何も始まらないから」
私の言葉にマリアはこくりと頷いた。
私の頭の中ではすでに、壮大な研究計画のロードマップが明確に描かれ始めていた。




