19. 悔し涙
学園で過ごす残り日数も少なくなってきた。
あと2ヶ月もすれば卒業パーティーである。
卒業と同時に成人を認められるわけだが、今の私は将来の先行きよりも今の現状に頭がいっぱいだった。
なにしろ身の程知らずにも王族であるフェリクス様への好意を抱いてしまった上に、ギルバート様から身の毛もよだつ仕打ちを受けたのだから。
突然身に降りかかってきた二つの衝撃から未だに立ち直れていない。
こっそり溜息を溢すと、生徒会長室で机に向かっていたマルグリット様が顔を上げてこちらを見た。
「もう、一体どうしたというの? シェイラ、あなたここの所なんだか様子がおかしいわよ?」
そのまま手を止めてペンを机に置き、マルグリット様は私の方へやって来ると、ソファーに座るよう促す。
キャシーに紅茶を手早く準備させ、淹れ終わると退室を求めて、私と二人きりになる。
「何か悩み事があるのでしょう? ここ数日様子がおかしいことには気が付いていたけど、あえては聞き出さなかったわ。でもごめんなさい、もう限界なの。シェイラがそんな調子だとどうしても気になってしまうのよ」
「すみません……。でも学園会議に向けて大詰めの忙しい時に迷惑はかけたくなくて」
来週には私たち3年生にとっては最後の学園会議が控えていた。
重要案件の報告などだけではなく、来期の生徒会メンバーも出席し引継ぎなども予定されており、節目となる会議だ。
その会議終了後にこの生徒会長室も明け渡され、マルグリット様は正式に生徒会長を退任となる。
ちなみに私もその会議でセイゲル語の授業について報告することとなっており、それにて依頼された役目が正式に終了の手筈となっている。
「マルグリット様にとっては生徒会長としての最後の時ですし、並々ならぬ気合いを入れてらっしゃることを知っています。だからお邪魔になりたくなくて」
「馬鹿ねぇ。シェイラのことを邪魔だなんて思わないわよ。それで、何があったの? わたくしに話してスッキリしてしまいなさい?」
……本当にマルグリット様には敵わないなぁ。私の人生でマルグリット様とお友達になれたことこそが一番のファインプレーだわ。
慈愛に満ちた優しい目を向けられ、一人で心に抱えていたものを吐き出したい衝動に駆られる。
自分の手には余っていたこともあり、私はマルグリット様の厚意に甘えて、先日あった出来事を包み隠さず打ち明けた。
「まあ! なんてこと! バッケルン公爵子息はとんでもないクズね。合意も得ずにいきなり口づけをするなんて信じられないわ!」
ギルバート様のことを話した時には、マルグリット様は自分の事のように怒ってくれた。
私の気持ちに寄り添って一緒に怒ってくれることが嬉しい。
それだけで少し気持ちが楽になる気がする。
「シェイラが平手打ちをお見舞いしたのは英断だったと思うわよ。もっと制裁を与えたいくらいだわね! 今のところ向こうからの再度の接触はないのよね?」
「はい。呆気に取られている様子だったので目が覚めたのではと期待しています。それにマルグリット様のお名前を出させてもらいました。……マルグリット様を利用するような形になってすみません」
「全く構わないわよ! 前にも言ったでしょう? こういう時にこそ筆頭公爵家の威光を使って然るべきなのよ」
権力に弱いところがあるギルバート様は、自分の家より格上のマルグリット様の名前を出した時点でもうこれ以上何かしてくることはないだろうと思う。
確信にも近い私の勘だ。
もうあの時の出来事は、事故にでも遭ったと思って忘れてしまうのがいいだろう。
思い出すたびに不愉快になるのだから、考えないようにするしかない。
「それにしても、まさかバッケルン公爵子息からの馬鹿な行いの最中にあの男への恋心を自覚するなんてね。驚いたわ。……まあでも自覚する時って誰しも思わぬ時だったりするわよね。ここだけの話、わたくしがリオネルへの気持ちに気が付いたのは、彼がわたくしに説教をしてきた時だったのよ? フェリクスに巻き込まれてわたくしにまで矛先が飛んできたのだから」
恋心と表現されると、なんだかむず痒い気持ちになる。
それにマルグリット様がリオネル様に向ける気持ちを知っているだけに、あれと同じかと問われれば若干自信がない。
でも確かに私は私なりにフェリクス様を想っているということには今やもう疑いようがなかった。
「あの男にシェイラを盗られるのは癪だけど、あの男の隣に立つのがあなただとわたくしは嬉しいわ」
「いえ、あの、気持ちを自覚しただけで隣に立つなどは……」
「あら? 気持ちを伝えるつもりはないの? あの男は絶対喜ぶと思うけど」
「……まだその勇気は持てません。自分の気持ちを整理できていないんです。フェリクス様は王太子殿下という立場もおありですから、伝えられても困るだけかもしれませんし……」
好きだと自覚しても、今はまだその先を思い描くことは私には難しい。
マルグリット様の言うように気持ちを伝えて、仮に同じ気持ちを返してもらえたとしても、その先どうなるのかは見当もつかない。
フェリクス様が王族で、私がただの子爵令嬢である事実は変わらないのだ。
公爵子息以上に身の丈に合わない相手なのは明白だった。
「まだシェイラは自覚したばかりで混乱しているのね。それならゆっくりでもいいと思うわ。……ただ一つだけ言わせてくれるかしら? あの男は必ずシェイラからの想いを喜ぶはずよ。不本意ではあるけど色々と似た者同士であるわたくしには分かるの。あなたの存在があの男にとっていかに貴重で大切なのかをね。きっとわたくしがリオネルに向けて感じる想いと同じはずだもの」
「マルグリット様……」
「まあ、あの男が幸せになるのはちょっと癪だから、せいぜい待たせておけばいいわよ。シェイラはシェイラのペースで進みなさいね?」
急に気持ちを自覚して困惑していたが、こうしてマルグリット様から「自分のペースでいい」と言ってもらえてとてもホッとした。
……そうよね。何も焦る必要はないわよね。平穏な生活のために身の丈に合った相手をと長年思ってきた私にとって、王族であるフェリクス様に恋心を抱いてしまった事実は重いもの。気持ちに折り合いをつけるためにきっと時間が必要だわ。
長年私の指針となってきた母の教えを破ってまでフェリクス様への想いを遂げたいのか、それほどではないのか、今の私には判断がつかない。
もし想いを遂げたいと思うならば、それこそ相当な覚悟も必要になるだろう。
「マルグリット様、話を聞いて頂きありがとうございました! おかげで少し頭の中を整理できたみたいです」
「それは良かったわ。ではもう少しだけ休憩してから会議の準備に戻りましょう」
「はい!」
私たちはキャシーの淹れてくれた紅茶を楽しみつつ、その後再び各々机に向かったのだった。
◇◇◇
翌週の学園会議は、事前準備の甲斐もあって、万事つつがなく終えることができた。
来期の生徒会への引継ぎも、セイゲル語の授業の報告もこわいくらい順調だった。
授業の件は、会議にいた皆からの反応もすこぶる良く、来期の授業開始が楽しみだという好評を得られた。
「ふぅ、終わった……!」
こんなふうに会議の場で報告を経験するのは初めてのことで、なにげに肩の力が入っていた私は開放感に包まれる。
ちょっと一人になりたい気分になって、久しぶりに学園内の片隅にあるあの庭に足を運んでいた。
切り株に腰掛け、手の平を空に向かってぐーっと真っ直ぐ伸ばす。
緊張していた肩や首の筋肉がほぐれて気持ちがいい。
「ああ、やっぱりここにいた」
軽くストレッチをしていた私にその時声が掛かった。
この場所で話し掛けてくる相手など一人しかいない。
「フェリクス様」
「探したよ。生徒会長室にもいなかったから、ここかなぁとは思ったけどね」
「どうされたのですか?」
「もちろんシェイラに会いに来たんだよ。風邪気味だったのはもう大丈夫? あの日は少し様子がおかしかったから心配してたんだ」
一瞬何のことだろうと思ったが、そういえばこの前の王城での打合せ後に早く帰る口実に体調不良を使ったのだったと思い出す。
フェリクス様はその会話を覚えていてくれたようだ。
「会議の様子を見ている限り大丈夫そうだとは思ったけど一応確認したくて」と言って少し心配そうに私の顔色を観察している。
……忙しいはずなのに、そんな些細なことまで覚えてくれているなんて嬉しい。
好意を自覚したからこそ、今までだったら流していたようなちょっとしたことでもすごく心に響くから不思議だ。
なんとなくフェリクス様を意識してしまってソワソワする。
「もしかして寒い? まあ真冬に外にいるからね。こうしたら少しは暖かいかな?」
そう呟いたフェリクス様は、次の瞬間私を包み込むようにふわりと抱きしめた。
外気に晒されて冷えてしまっているフェリクス様のコートが顔に当たって少し冷たいが、それ以上にフェリクス様の腕の中は温かい。
「会議での報告もお疲れ様。すごく分かりやすくて良かったよ。シェイラのおかげで来期のセイゲル語授業は上手くいくだろうし、優秀な人材の輩出も期待できるよ」
私なりに頑張った会議の報告のことも褒めてもらえて、身体だけでなく心まで温かく満たされていく。
これまでの人生、褒められるのは容姿についてだけだった。
こんなふうに私の行いを褒めてもらえるのは、言葉で言い表せないほど嬉しい。
……どうしよう。すごくすごくドキドキする。自分で思っている以上に、私はフェリクス様のことが好きかもしれない。
感情が大きく揺れ動かされて「好き」が溢れ出しそうだ。
そしてその感情の昂りは、思わぬ形で私から溢れ出た。
抱きしめられながら突然瞳からポロポロと涙が溢れ落ちてきたのだ。
「……!」
そのことを先に気付いたのはフェリクス様だった。
ギョッとしたように目を見開く。
そして眉を下げ、非常に苦しそうに呟いた。
「……泣くほど僕に触れられるのが嫌だった?」
そう言われて、私は初めて自分が泣いていることに気が付いた。
無意識だったのだ。
でもその理由には心当たりがある。
私はつい思い出してしまったのだ。
記憶の奥深くに封印したはずのギルバート様とのあの口づけを。
……あれが初めてだったのに。初めての口づけは想う相手――フェリクス様が良かった……。
フェリクス様のことが好きだと思えば思うほど、あの口づけが悔やまれてならない。
悔しくて、悔しくて、心がぐちゃぐちゃになって涙が止めどなく溢れてくるのだ。
フェリクス様は悲痛な表情を浮かべ、私から身体をゆっくりと離した。
その途端、私を包み込む温かさが消え失せ、一気に心身ともに冷えてくる。
「……ごめんね。シェイラを泣かせるつもりはなかったんだ。それほど苦しめていたなんて思わなかった。……いや、嫌がられていることは知っていたのに見ないふりしてきた。シェイラの立場だと拒否できないよね。僕が悪い、ごめん」
私から距離を取ったフェリクス様が謝罪の言葉を口にするのを聞いて、誤解されているとすぐに分かった。
だけど何て言葉を返せばいいのか分からない。
泣いている理由は言えないし、言いたくない。
ギルバート様に口づけをされたなんてフェリクス様には絶対に知られたくはないのだ。
それに「嫌がってない」ことを説明するのなら、必然的に「好き」だという気持ちも伝えなくてはならないだろう。
まだそれを口にする勇気も覚悟も私にはなかった。
だから何を口にすればいいのか迷い、結果的に私は何も言えず口ごもってしまったのだ。
「……っ」
泣きながら言葉に詰まる私をコバルトブルーの瞳が悲しげに見ている。
そしてフェリクス様はそれ以上は何も言わず静かにその場を去って行った。
その後ろ姿に声を掛けることも、追い掛けることもできずに私はただただ立ち尽くす。
このことを私はすぐに後悔することになった。




