#118 イナリ山惨劇 序
イナリの朝は凄く気持ちが良い。
街の奥に聳える巨大なイナリ山と、街の風景に何の違和感なく溶け込んでいる緑の木々や桜を見ていると、なんだか空気が美味しく感じてしまう。
「すぅ……はぁ」
大きく息を吸って吐く。
「はぁ、美味しい気がする」
自然の香りって、どうしてこんなに美味しい気がするんだろうか。カルディアの山脈の空気とはまた違う香りが、とても新鮮に思えてくる。
「何やってんだか。ほら、さっさと行くわよ」
俺達が世話になっている『風鈴亭』からようやく出てきたルエル。
全身を使っての深呼吸をどうやら見られてしまったようで、呆れ顔を向けられた。
イナリに滞在して今日で5日目。
今から、玉藻前の様子を見にイナリ山まで向かう予定だ。イナリ社は自力で見つけることは不可能らしいが、俺達がイナリ山のある程度の所まで行けば玉藻前が招き入れてくれるらしい。
本当はもっと早くに訪れるつもりだったんだが、ルエルの提案で少し遅らせることになった。
「どうしたの?」
イナリ社、そして玉藻前を狙っている冒険者や狩人は多い。それはこれまでに実際に見聞きしてきたことだ。蓮華亭や風鈴亭でイナリ社や玉藻前について話している人間を何度も見てきたからな。
ルエルは、あの"上"級冒険者ラキアもそのうちの一人だと思っているようだ。玉藻前のことを探るつもりでラキアはあの日、俺達に近付いて来たと疑っている。
他の冒険者のことを身を挺して護って見せたラキアのことを、一度は信用したルエルだが……終わってみればやっぱり完全には信用出来なかったらしい。
「いや別に。でも流石にラキアが俺達のことを尾行するなんてことは無いだろ、いくらなんでも」
「念のためよ。勘違いなら、それに越したことは無いわ」
「そもそも、俺達と玉藻前の関係を知ってる奴なんて限られてるだろ」
「冒険者や狩人の情報網を甘く見ない方が良いわ。第一、カルディア高森林に玉藻前が潜伏していたことは冒険者組合が実際に公表しているんだから、カルディア方面からやって来た私達を探ろうとする者が現れても不思議じゃないわ」
「ふむ……」
そう言われると確かにその通りかも知れない。
イナリ山をどれだけ探してもイナリ社は見つからない。当然だ。玉藻前が帰ってきたことで更に強力になった幻術は、完璧にイナリ社を隠している。
ならばと、イナリ山ではなく玉藻前と何かしらの関係を持っていそうな俺達のことを探ろうとしている奴がいるかも知れないってことか。
「え、だったら俺達がイナリ山に行くのは良くないんじゃ?」
「だからそう言ってるでしょ? 後をつけられていたらイナリ社の場所が知られてしまうって」
俺達が山まで行ったら、玉藻前は喜んで出てきそうだもんな。幻術についてはよく分からないけど、俺達がイナリ社に招かれた所を他の誰か見られたら……流石に不味い気がする。
「とは言え、今の所私達の周りに怪しい気配は無いし、考え過ぎなのかも知れないわね。ラキアさんのことはやっぱり信用出来ないけど」
まだ早朝ということもあってか、人の姿はあまり多くない。
妙な視線があれば、流石に気付く。
「玉藻前の様子も気になるし、周囲の気配には注意しながらイナリ山に向かいましょう」
「あぁ」
◇◇◇
イナリ社へは、簡単にたどり着く事が出来た。
たどり着いたと言っても、玉藻前が俺達を招き入れたと表現した方が正しいのかも知れない。
イナリ山に入りある程度進んだ所で、いつの間にか目の前の景色がイナリ社の物へと変わっていたのだ。
他の誰かに見られた心配も無さそうで、俺達は無事……玉藻前の所まで再びやって来れたと言える。
――のだが。
「な、何してるんだ? 玉藻前」
「…………」
玉藻前が俺達を出迎えてくれた。
別にそれほど長い間離れていた訳でもないから得に心配はしていなかったが、こうして元気な玉藻前の姿を見ると安心してしまうのも確かだ。
だけど何故か、玉藻前は土下座をして俺達を出迎えてくれているのだ。
「す、済まぬ! まだお主らに渡す報酬が決まっておらんのじゃ!」
どうやら玉藻前は少し勘違いをしてしまっている様子だ。
待ってくると言われている俺達への報酬を、催促しに来たとでも思ってるんだろう。
「そ、そんなこと良いって! ただお前の様子を見に来ただけだから!」
「そうよ玉藻前。顔を上げてちょうだい」
項垂れていた狐耳と尻尾がピクリと反応する。
ホント、感情が隠せない奴だ。
「ほ、本当か!? 我にただ、会いに来ただけだと?」
「そうだぞ」
「…………」
やたらと嬉しそうな表情。尻尾の動きは言わずもがなだ。
「とにかく、こんなところで話すのもなんだし、お邪魔して良いか?」
「勿論じゃ!」
シュバッと立ち上がった玉藻前に案内されて、俺達は再び社の中へとお邪魔することにした。
◇◇◇
玉藻前と三人で、四角い机を囲む形で腰を下ろす。
そして目の前には、玉藻前が用意してくれた緑色の飲み物らしい液体。
「この前は、お茶を用意することも出来なかったのでな。今回はしっかりとおもてなしさせてもらうのじゃ」
「これ、飲めるのか? 薬じゃないのか?」
まるで草を溶かしたような色だ。
体に異常が発生したときに薬草を溶かして飲むことがあるが、玉藻前が用意してくれたコレはそれに似てる。
ばっちり健康状態の今だと、ちょっと飲むことに抵抗を感じてしまうぞ。
「薬ではないわ! ちゃんとした飲み物でな、それはもう美味しいのじゃよ」
そうは見えないが……と、訝しげな視線を向けることしか出来ない。すると――
――ズズズ。と、横から飲み物を啜るような音が聞こえてきた。
「美味しい……これがイナリ名物の抹茶という飲み物ね」
「え、ルエル知ってんのか?」
「えぇ、コレに載っていたわ」
ルエルが自慢気に見せてくる冊子。
これは、イナリが開放される前に立ち寄った宿酒場、『蓮華亭』で実はルエルが買っていた『イナリ攻略本』!
「抹茶……」
そう言えば、俺達の泊まっている宿のメニューにも『抹茶』という文字があったな。得体が知れないから避けていたんだが、それがコレか。
そういうことならと、俺も抹茶へと手を伸ばす。
グイッと口の中に含み、飲み込んだ。
ほんの少しの甘さと、上品というか渋い苦みが口いっばいに広がる。かと思えば、飲み込んだ後には爽やかな風味に満たされ、喉が潤った。
「……美味い」
なんだコレ。珈琲とも紅茶とも違う美味さだ。
何杯でも飲めそうな気がする。
「じゃろう? おかわりもあるので、言ってくれればいつでも淹れてやるのじゃよ」
俺達は少しのあいだ、抹茶の味を楽しみつつゆったりとした時間を過ごすことにした。
イナリ社へと帰ってこれたこともあってか、玉藻前は以前にも増してよく話すようになった。
ちょっとした感情の変化で尻尾が動いてしまうのも、これまでと比べて激しくなっている気がする。
自分の家が一番安心するのは、誰でも一緒ということだ。
とは言え、玉藻前やこのイナリ社を狙っている冒険者や狩人が多いのも事実。俺達はそのことについても、しっかりと玉藻前に話しておくことにした。
「うむ。この場所や我を狙っている人間が多いのは知っておるよ。昔からそうだった」
ほんの少しだけ、玉藻前の表情に陰が差したような気がした。
「イナリ社を探して、山を荒らそうとする者がいたのは事実。あまりにも目に余る人間は……」
おそらく、殺してしまったこともあるのだろう。
そう言った事情もあって、玉藻前の危険指摘レベルは18に定められてしまっているのかも知れない。
今日まで玉藻前と過ごして分かったのは、コイツは好きで人を殺した訳ではないということだ。いつか姉にも言っていた、『護るために殺す』と。
出来ればもう、玉藻前にはずっとこのイナリ社で平穏に暮らしておいてほしいものだ。そしてたまに俺達が様子を見に来て、こうやって楽しくお喋りするくらいが丁度良いように思える。
でも無理だ。このイナリ社と、玉藻前を狙う冒険者と狩人が存在してしまっている以上は。
勿論、玉藻前がイナリ社から一歩も出なければ見つかることは無いんだろうが、それはあまりにも気の毒に思える。
そもそも、玉藻前が危険指定種に定められてしまっている以上、玉藻前の安全を保証することなんて出来ないんだ。
――どうしたものか。
そう頭を捻っていると、俺の考えを読んだのか、ルエルが口を開く。
「シファ。『友好指定種』って知ってる?」
「ゆうこう? なんだそれ」
「魔物や魔獣に定められる区分よ。『危険指定種』があるように、その逆の『友好指定種』という物が存在するのよ」
危険指定種は聞き慣れているが、友好指定種は初耳だ。
だけど、その名前から察するに……。
「『友好指定種』に定められた魔物は、その討伐行為が全面的に禁止されるのよ。勿論、コレは狩人に対しての強制力は無いけれど、『友好指定種』となった魔物を狙う狩人は激減する筈よ。冒険者組合を敵に回しても、良いことなんて一つも無いんだから」
「じゃぁ、玉藻前をその友好指定種にしてもらえば、玉藻前も隠れる必要も無いし、もしかしたらイナリ社だって組合に守ってもらえるんじゃないのか?」
「その通りよ。ただ――」
「ただ?」
「『友好指定種』へと定められる条件は、非常に厳しいと聞いたことがあるわ。私達で申請することも可能だけれど、そもそも申請書を提出するためには"絶"級冒険者と、"超"級冒険者ニ名以上の捺印が必要なのよ」
それらの捺印を揃えて初めて、申請書を提出することが可能になるらしい。そして各支部長が検討するという流れのようだ。
"絶"級冒険者に、"超"級冒険者か……これは確かに難しい。だって俺達はまだ"初"級冒険者になったばかりの新米だ。そんなツテなんて……。っておい。
「いや行けるじゃん! 俺の姉"絶"級冒険者だし、教官とリーネのお姉さんは"超"級冒険者だし……しかもみんな玉藻前のことはよく分かってるだろ」
「――ッ!?」
どうやら、ほんとにルエルの奴気付いてなかったみたいだ。
しっかりしてるように見えて、以外と抜けてる所が多い奴だ。
「え、えっと……」
そして玉藻前は、俺達の話にあまりついて来れていない。
あたふたしてる所が妙に可愛いな。
「とにかく、早速その申請書とやらを貰いに行こう。組合で貰えるんだろ?」
「ええそうよ! 貰うだけなら、すべての支部で貰える筈よ」
となれば、後は姉と教官とリーネのお姉さんの捺印だ。
「あ……」
大事なことを忘れていた。
「どうしたの?」
「ロゼ姉が今どこにいるのか分からない」
そうだ。
妙な書き置きを残したきりで、何処に行ったのかは一切聞かされていない。
「それなら心配ないわ。ロゼ姉さんのことだから、どうせ何かの指名依頼を受けているに違いないわ。私ならともかく、実の弟の貴方が聞けば、組合はきっと教えてくれる筈よ」
「そ、そうか……」
ホッと胸を撫で下ろす。
とにかく善は急げだ。
「お、お主ら、もう行ってしまうのか?」
ちょっと急な話だったからか、玉藻前がションボリしてしまっている。
もうちょっとゆっくりしたかったけど、玉藻前とも充分話せたしな。
それに、大事な用事も出来てしまった。
「玉藻前、報酬の件はゆっくり考えてくれて良いからな」
「う、うむ」
そう言いながら歩き出す俺達に、少しションボリした玉藻前がついてくる。
社から出て、このまま暫く真っ直ぐ歩くと……また景色はイナリ山の森の中へと変わる筈だ。
そのまま歩き出そうとするが――
「ま、待つのじゃ二人とも!」
玉藻前が慌てて引き止める。
「どうした? またそのうち会えるぞ?」
玉藻前は寂しがりやだからな、なんて思ったが……どうやらそんな雰囲気ではない。
「外が……何やら騒がしい」
「…………」
ルエルと顔を見合わせる。
外とは――おそらくイナリ山のことだ。もしかしたら、イナリ社を狙っている冒険者か狩人が、何か行動を起こしているのかも知れない。
「いいか、玉藻前は外に出てこないでくれよ?」
今の玉藻前が人を傷つける姿は想像出来ない。
もし、玉藻前を狙う者が現れて、戦闘になったとしても防戦一方になってしまう所しか想像出来ない。良くて逃げるか隠れると言ったところだ。
ならば、このままイナリ社の中に隠れておいてもらったほうが絶対に良い。
少なくとも、『友好指定種』に定められるまでは、だ。
「とにかく行こう」
「えぇ」
「き、気をつけるのじゃぞ!」
俺達は走ってイナリ社を後にした。
すると、景色はいつの間にか、イナリ山の物へと変わっていた。
♢♢♢
「な、何がどうなってる?」
「…………」
自然と足が止まっていた。
これまでに何度か見たイナリ山の景色。
今朝もここを通って来やって来た。なのに――
「――――ッ!!」
「――ォォッ!」
そこら中から聞こえる、翼竜の咆哮にも似た叫び声。
状況が一変している。
「どういう状況だよ、コレ!」
「わ、分からないわ! 何がなんだか!」
一匹や二匹じゃない。
そこら中からだ、あちこちから竜種の物と言われる叫び声が聞こえる。
「――――――オオオオ!!」
「シファッ!」
そこに一体。大きな口を広げた翼竜が突っ込んで来た。木々を薙ぎ倒しながら、無我夢中と言った様子だ。
「クソッ!」
訳も分からないまま、収納魔法で武器を取り出そうとしたが。
――キィン。という鋭い斬撃音が響いたかと思えば、翼竜の首に一筋の線が走り、ズルリと首が落ちた。
そして、どこからともなく飛来してきた人物が俺達のすぐ近くに着地した。
「って、音無さん!?」
音無さんだ。ただ着物は乱れ、少し疲れたように見える。
「っ、シファ様。現在イナリ山は、突如大挙してやって来た翼竜に襲われています! 翼竜の街への進出を防ぐため、既に多くの冒険者達で応戦していますが、あまり良い状況ではありません」
かなり走り回ったのだろう。汗だくになり、呼吸を整えるのもままならないまま、音無さんは話す。
「どうか、力をお貸し下さい」
そんなの、頼まれるまでもない。
玉藻前がいる、このイナリ山がそんな状況になってしまっているのを放っておける筈がない。
「勿論です!」
「っ! ありがとうシファく……こほん。ですが、翼竜の中に、魔法により創造された上位の竜種が混ざっております。おそらく、それらの竜種に誘導されて、翼竜かやって来たのだと思われます」
「魔法で創造された……竜種」
「はい」
「つまり、この状況は……誰かが意図的に作り出したってことですか?」
「その可能性は極めて高いと思われます」
「シファ、あのときの火炎竜……」
あの不思議な火炎竜。あれも、魔法で創り出された物だってことか?
「とにかく考えるのは後だ、今は翼竜を倒そう!」
「お気をつけ下さい! 魔法により創造される魔物は、突如として現れます。使用者の魔力が尽きるか、意識を奪うかしなければ何度でも現れます」
つまり、魔法を使ってる奴を何とかしないと駄目ってことだろ。
それは分かったけど、実際に存在する翼竜も何とかしないと駄目だ。なら今は、その魔法で創られた竜種に気を付けながら翼竜を討伐するしかない。
「とにかく行くぞ、ルエル!」
「えぇ!」
俺達は、翼竜の声がする方へと走った。




