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5.分かれ道

 その日、わたしは久々にやや重たい気持ちで洗い物を干し終えた。

 海風を浴びながら見上げるのは城の上階。“彼女”の囚われる塔の辺りを眺めては、溜息ばかりを吐いていた。

 いつもならばこの後、真っ先にその牢獄へと向かうのだけれど、今日は違った。わたしが向かうのは寝室で、そこには誰もいない。誰もいない部屋で、しばらく待機していないといけなかったのだ。


 城主さまは今まさに彼女の元にいる。

 何をしているかなんて聞かない方がいいだろう。仲間外れにされる心細さなんかも、我慢する他はない。垂れ下がる尻尾と共に重たい気持ちを引きずって、せいぜい二足歩行を忘れないように気をつけながら、寝室へと向かうしかない。

 そのくらい、わたしは何故だか落ち込んでいた。


 ――こんなんじゃいけない。


 わたしは猫ヒゲの生え際をぺしっと叩き、気合を入れる。

 落ち込んでいる暇があったら、歌と踊りを練習したらいいじゃないか。


 昨晩はさほど練習できなかった。

 お夕飯の後はそっと抜け出して練習する暇もないほど城主さまに甘えてしまった。

 お酒が回るといつもそうなのだ。猫の姿で散々甘え、城主さまの許しがあれば、元の姿に戻ってさらに深く甘えてしまう。

 昨晩は結局、猫のままだったけれど、それでも十分すぎるほど興奮が高まり、疲れもあってか明け方までぐっすりだった。

 おかげで目は冴えている。二度寝なんていらなかった。


 きっとそれは、城主さまも同じなのだろう。目覚めはいつもよりもずっと早く、起きてすぐに“彼女”の元へ向かう事を決めたのだ。

 わたしの清めも必要ないと言って、さっさと向かってしまった。

 今頃は何を話し、何をしているのか。気にしない方がいいと思えば思うほど、気になってしょうがなかった。


 こんな時こそ歌って踊ろう。

 最初に教えてもらった「妖精の舞」も、次に教えて貰った「天の使者の踊り」も、この城の何処かに潜む元踊子や元歌手の奴隷と同じくらい――いや、それ以上に上達したいところだ。

 観客は城主さまだろうか、それとも、鎖で繋がれた“彼女”だろうか。

 いずれにせよ、観た者がわたしの芸に夢中になってくれるくらい上手くなってやりたい。そんな欲求のもと、わたしはベッドの上で背伸びをし、両手を上げた。


 人間ならばつま先立ちをするのだろうけれど、普段からつま先立ちのわたしには必要ない。

 最初は踊る事も難しかったけれど、慣れてしまえばどうってことはなかった。

 踊るのは楽しい。それに歌うのだって楽しい。身体を動かし、自らが生み出す音の波に乗っていると、とっくの昔に捨て去ってしまったはずの過去が視界の端々に映り込むような、そんな気がした。


 ……わたしはどんな娘だっただろう。


 髪は黒く、目は琥珀色だった。今も同じ色の体毛と目を持っているが、見える視界はがらりと変わってしまったものだ。

 いつ、どこで、誰からといったことは曖昧でも、周囲の者たちからちやほやされていたのは覚えている。町の踊子や歌手に対して無邪気に憧れ、よりよい音楽と舞を真似していたのは夢でも幻でもなく、事実のはずだ。


 あれはいつの事だっただろう。

 ここへ来て、どのくらいの時が経ってしまったのだろう。

 踊っていると、歌っていると、そんなあらゆる感情が溢れだした。


 わたしは、自分の名前すら思い出せない。


 素敵な名前があったはずなのに、何も思い出せない。

 名前だけではない。どこで生まれ、誰に育てられたのか、どんな経験を積んで、どんな育ち方をしたのか。あらゆる思い出が波に攫われる砂のように消えてしまっている。

 消えていることを、最近やっと自覚した。


 それでも一つだけ、はっきりと思い出したことがある。

 わたしは歌と踊りを愛し、憧れを抱く人間だった。


 歌も踊りも飽きることがない。

 放っておかれれば、手足が、喉が、疲れるまでは、歌い踊り続けてしまうだろう。


 しかし、くるくると回り続けるわたしの視界に愛する城主さまの影が映り込むと、途端にその情熱は醒めてしまった。


「城主さま!」


 ぴたりと止まって勢いのままにその足元へと飛び込むと、城主さまは優しく受け止めてくれた。軽々とわたしを抱き上げて、顔を見つめてくる。

 微笑みを浮かべてはいるが、その赤みがかった目の奥に秘められた感情に気づいて、わたしはついつい窺ってしまった。その正体を探っても、すぐには分からない。怒りとも、呆れとも、悲しみとも違う。何かしらの興奮が彼女の目には宿っていた。

 首を傾げるわたしに、城主さまは声をかけてきた。


「待たせたわね、猫。用事は済んだわ。あの女の身体を清めてやってきてくれる?」

「勿論です」

「いい返事だわ。よろしくね」


 優しく床に置いてもらい、わたしは少しだけ城主さまの足に頬をこすりつけた。

 すると、城主さまはわたしの頭を撫でながら、「そうだ、忘れるところだった」と付け加え、寝室の棚から赤い秘薬の入った小瓶を取り出して、わたしに握らせた。


「今日はこの薬を塗っておやり。全部使っても構わないわ」


 その薬の正体は良く知っている。傷薬だ。ということは、怪我でもしたのだろうか。妙な不安を覚えながら、わたしは城主さまにしっかりと肯いた。


「分かりました。すぐに行ってきます」


 そうして、急ぎ足で残された家事を済ませに向かった。

 身体が軽々としているのは、城主さまに甘えたからというだけではないし、その家事が終われば後は自由だからというだけでもない。

 今し方、練習していた歌と踊りを、今日も“彼女”に観て貰いたかったためだ。


 階段を下り、駆け上がり、バケツやらスポンジやらを手に、わたしは急いで“彼女”の囚われる眺めの良い牢獄へと向かった。

 やや乱暴に扉を開けて、中へと踏み込むと、いつものように“彼女”はわたしを見つめてきた。その青い目と、太陽のような金髪、そして嫉妬すらしてしまうほど整った顔立ちは変わらない。

 ただ、声をかけようとしたわたしは、ある事に気づいて面食らってしまった。


「おはよう。今日は……魔女の方が先だったようだね」

「お、おはよう……あ、あの……」


 彼女は裸だった。

 衣服は引きちぎられていて、眩い肌が晒されている。ひと目で乱暴されたと分かる有様だが、何よりも傷が酷かった。

 そこでようやくわたしは自分が大切に持っている傷薬の意味を知ったのだった。


「城主さまが……清めてきなさいって……」

「――そう。その小瓶は治療薬かな。それとも、牙を剥いた私を罰するための劇薬だったりしてね」

「ち、ちがう……ちがうわ。劇薬なんかじゃなくて、これは傷薬なの」


 何故だか彼女に言い訳をしていることに気づき、わたしは我に返った。

 ぷるぷると頭を振って猫ヒゲを震わせ、改めて彼女にしっかりと訊ねた。


「いったい何があったの?」


 すると、彼女は身体を震わせて、狂ったように笑いだした。

 髪が乱れ、光と影の対比のためか、目が異様に青く見える。動くとさらに傷が目立ち、鮮血が今も流れていることに気づいた。

 すぐに近づいて手当をしなければ。しかし、そんなわたしの想いに制止をかけるような威圧的な眼差しで、彼女はわたしを睨みつけてきた。

 その有様は、まるで人に心を許さない狼のようだ。


「言っただろう。私はここの暮らしに向いていない。おめでたいものだよ、君のご主人さまは。時間をかければ私を支配できると信じて疑わなかった」


 そう言って、笑いつかれると、今度は空虚な眼差しで天井を見上げた。


「だが、本当におめでたいのは私の方だったらしい。これまでずっと自分が強者だと信じていた。でも、違った。違うということを、ご丁寧に教えて貰ったのさ」


 彼女はわたしから視線を逸らした。

 恐る恐るその視線の先を確認してみると、牢獄の端に鋭利な木の枝が落ちているのが見えた。それが何に使われたのか、あれを巡ってどんな騒動があったのか、一瞬にして思考を駆け巡り、全身が寒気に襲われた。

 息を飲むわたしに視線を戻し、彼女は言った。


「傷一つ付けられなかったよ。鎖の有無なんて関係ない。魔女は魔女で、人間は人間なんだ」


 思わずわたしは毛を逆立てた。

 興奮のままに彼女を見つめ、気づけば吠えるように叫んでいた。


「なんてことしたのよ!」


 一喝してみれば、自然と涙がこぼれてきた。


「城主さまはね、あんたの命の恩人なのよ。お仲間と一緒に海で死ぬはずだったその運命を変えたのは他ならぬ城主さまなの。それなのに……それなのに、あんたは――」

「知っているよ」


 その非常に冷たい返答に、わたしは押し黙ってしまった。

 彼女は力なく笑い、続ける。


「ついでに、あの魔女が死ねば、私も君も死んでしまうことも知っていた。捕まってすぐに彼女から聞きだしてやったからね」

「知っていて……そんなことをしたの?」

「ああ、そうさ」

「どうして?」

「自由になりたかった。たとえ死ぬのだとしても、ね」


 彼女の目は虚ろだった。

 色は美しい青色であっても、その目からは輝きが失われている。心身共に疲労をため込んでいることが良く分かる。狭い檻の生活は、それだけ彼女を苦しめてきたのだろう。

 わたしの歌と踊りだけでは到底癒されないほどに。


「でも、もういいんだ」


 彼女は項垂れ、傷だらけの自分の身体を抱きしめる。


「私はあの魔女に勝てない。どうしても勝てない。君も私の事は怖いだろう。もう前のように楽しませようとしなくていい。魔女を怒らせたが最後。明日辺りには追放されるか、姿を変えられてしまうだろうね」


 怖いか。

 そう問われれば、怖かった。


 運命の女神が気まぐれならば、今日という日が城主さまの終の日だったかもしれないのだ。わたしのささやかな幸せの日々も、城主さまの奴隷たちの混沌とした毎日も、共に終わっていたかもしれないのだ。

 明日が来ることが当たり前。自然とそう思っているわたしの、当たり前を壊そうとした人。彼女はそんな人なのだ。


 だが、どうしてだろう。

 城主さまを怒らせたことを恐れ、不貞腐れる彼女をそれ以上、放っていることが出来なかった。

 清潔な水の入ったバケツを手に、わたしは彼女に近寄った。戸惑い気味の彼女の視線を真正面から受けて怯みそうになったが、堪えて歩み寄る。


「お話はこのくらいにしましょう。その傷はすぐに洗わないといけないわ。お薬も塗らないと」

「……君は、わたしが怖くないの?」

「怖いわ」


 正直にわたしは答えた。


「でもね、城主さまのご命令だもの。傷が酷くなったら大変でしょう? だから、手当てが終わるまではじっとしていてね」

「怖さよりも主人の命令の方が大事なのか」


 呆れつつも、彼女はわたしの接近を拒絶したりはしなかった。

 恐る恐る、わたしは彼女の身体に顔を近づけた。傷は浅いようだけれど、色の白い肌に赤色はよく映えて、見ているだけで痛々しい。

 猫の手で水を掬うのは難しい。何度もやってみて、どうにか掬うと傷口付近を一気に洗い流した。水が沁みたのか、彼女の表情が歪む。それでも、文句を言ってきたりはしなかった。じっと耐えて、大人しくしてくれた。


 その姿に心の中で同情しながら、わたしは小瓶の蓋を取った。

 開封されるなり、独特な香りが広がる。

 城主さまお手製の秘薬は、わたしにとってはすっかりお馴染みのものだけれど、ここに慣れていない彼女にとっては抵抗のあるものだったのだろう。

 不安そうな眼差しをこちらに向けると、窺うような小声で訊ねてきた。


「ねえ。それって本当に傷薬なんだよね?」

「ええ、勿論。少し沁みるかもしれないけれど、とても良く効くお薬よ。怪我をしたときはいつもこのお薬を塗ってもらっているの。人間だった頃からね」

「人間だった頃から、か。君がそういうのなら、信じよう」


 そう言って観念したようにじっと俯いた。

 不安ならばさっさと終わらせてしまおう。そう思い、わたしは秘薬を塗り込んだ。香りがきつくなり、思わずしかめ面になる。だが、そんなわたしとは比べられないほど、彼女もまた顔をしかめていた。

 それだけ沁みたのだろう。けれど、壮絶な痛みまでは感じていないらしい。


 ならば、よかった。

 心底そう思いながら、わたしは全身を洗いながら、傷を見つけるたびに秘薬を塗り込んでいった。


 見た目よりも傷は浅いが、数はとても多い。

 それだけ、城主さまのお怒りを買ってしまったのだろう。これに懲りて、もう下手な真似はやめてくれるといいのだけれど。

 力の差を思い知ったと言ってはいたけれど、ひと晩も休めば気力もだいぶ回復してしまうかもしれない。回復したとして、彼女は大人しくしていてくれるだろうか。城主さまは優しい御方だと信じていても、あまり怒らせるようなことはしてほしくなかった。

 傷口を見つけて清めるたびに不安は増していく。 

 それでも余計な小言はいわず、全身を綺麗にしてやった。

 牢獄の隅に常に用意してあった清潔な衣類を着せてやり、しばしじっと見つめてしまった。

 汚れを落とし、傷を清めてやれば、美しい輝きを取り戻した姿がそこにあった。いつもならばそれほどは見つめたりしないけれど、今日ばかりは目を奪われてしまう。


 綺麗だ。

 もしかしたら、城主さまとは比べられないくらいに綺麗かもしれない。


 ぼんやりとそう思っていると、彼女は鎖に繋がれたままわたしをじっと見降ろしてきた。両手を使ってわたしの頬を覆い、何度か撫でてくる。その愛撫が心地よくて思わず喉を鳴らしてしまうと、彼女は少しだけ笑い、わたしの脇に手を回して抱え上げてきた。

 急なことで茫然としていると、彼女は面白そうに笑った。


「こうしていると本物の猫のようだね。人間だったなんてとても思えない」

「信じられなくても、わたしは人間だったの。前にも言ったでしょう? 皆にちやほやされていたような、お嬢様だったんだから」

「……そして今は、たった一人の魔女にちやほやされているわけか」


 そう言って、彼女はゆっくりとわたしを床に寝かせた。

 仰向けにされて、胴体を膝の間に挟まれる。覆いかぶさるように馬乗りになり、顔覗き込まれているうちに、わたしはふと冷静になった。


 この体勢には、覚えがあった。


「わたし、そろそろ戻らないと……」


 そう言って抜け出そうとしたが、彼女はそれを許さなかった。

 力で抑え込まれてしまうと、思うように逃げられない。今のわたしにとって、人間という生き物は恐ろしいほどに力強い猛獣だった。

 それでもどうにかもがいていると、彼女がわたしの耳元で囁いてきた。


「魔女から聞きだしたんだ。少しの間だけ、君を元に戻す方法があるんだって。君が本当に人間なのかどうか、この目で確かめる方法があるんだって」

「――だめ」

「試したいんだ。本当に君が人間だったならば、一時でも元に戻せるのならば、魔女に抗う方法が少しは分かるかもしれない。いや、分からなかったとしてもいい。私はただ純粋に、君の本当の姿を見てみたい」


 その気迫に、わたしは身震いした。

 戯れでも何でもない。彼女は本気だ。本気で試そうとしている。

 気づいた瞬間、わたしの中でとてつもなく大きな拒絶感が生まれた。


「お願い、それはやめて!」


 わたしは叫んだ。だが、彼女は離れてくれない。


「同じ言葉を話し、同じ歌と踊りを知っている。ならばきっとその姿も本来は親しみのある姿に違いない。ねえ、そうでしょう。本当の姿で歌って踊ってよ。そうすれば、名前だって、過去だって、もっと思い出せるかもしれないじゃない。――だから!」


 彼女の手がわたしの身体に触れようとしてきた。

 それは、城主さまが望んでわたしを元の姿に戻すときと同じ手順だった。元に戻れる時間は一晩だけ。場所はいつもベッドの上でのみ。

 城主さまは良くても、“彼女”にそれをされるのは嫌だった。“彼女”とは、そんな仲にはなりたくない。いや、そもそも元の姿に戻るのが怖かった。ここで元の姿に戻れば、何かが大きく変わってしまうような、そんな気がしたのだ。

 恐怖に駆られ、わたしはとっさに彼女の手を引っ掻いていた。


「痛っ……」


 その衝撃で力が緩み、慌ててその場を逃げ出した。

 人間らしくなんて思っている余裕はない。まるで魚を盗んだ猫のように四つん這いで這い出し、鎖の届かない隅へと寄っていった。

 彼女は手を掴みながら、わたしの姿を見つめてきた。ため息を漏らし、目を逸らす。段々と落ち着いてきたわたしは、慌てて自分の手足を確認した。そこには真っ黒な体毛で覆われたケダモノの身体があった。


 よかった。姿は猫のままだ。

 ほっとしていると、彼女のか細い声が聞こえてきた。


「無理強いして悪かった。そんなに嫌なら、もうやらないよ。けれど、よく考えて。その姿のまま、独善的な魔女を信じて従い続けるよりも、元の姿に戻って私と一緒に外に出る方法を――」

「そんな事、期待しないで」


 全てを言わさずに、わたしは告げた。


「わたしはね、このままでいい。猫のまま、ここで幸せに暮らせたらそれでいい。その上で、あんたとは、対等なお友達でいたい。……それだけなの」


 対等なお友達。なんでそう言ったのかは分からない。ただ、混乱から回復しきれていないこの動揺を探ったときに真っ先に出てきたのは、そんな言葉だった。

 鎖で繋がれている者と繋がれていない者である時点で対等なんかではないはずなのに。

 それでも、彼女は否定せず、頷いてくれた。


「分かった。君がそう言うのなら、そうしよう。今日の事は忘れて」


 その言葉に頷き返すと、わたしは逃げるようにその場を去った。


 そう……去ってしまったのだ。

 あれだけ練習した、歌も、踊りも、見せることなく。


 寝室に逃げ帰ると、城主さまは全て分かっていたかのような微笑みで迎えてくれた。無言のまま抱き着くわたしを包み込むと、膝の上に抱いて背中を撫でてくれたので、しばしそれに甘えた。

 泣きそうな気持ちだったが、涙は出ない。ただ鼓動が激しく、息があがった。興奮はなかなか醒めない。そんなわたしを撫でながら、城主さまはやっと訊ねてきた。


「“あの女”と何かあったの?」


 真っすぐ問われ、震えてしまった。

 何と答えるべきだろう。何故だか言い訳ばかりが浮かんできた。だが、それら全てを整理して、わたしは勇気を出して問い返した。


「彼女にわたしの身体の秘密を教えたんですか?」


 片眼で窺うように見上げてみると、城主さまは表情を変えずに頷いた。


「知りたがっていたようだったからね。強引に迫られたのかしら。だとしたら、落ち着きなさい。お前は何も悪くないわ」

「城主さま。わたし……ちゃんと抵抗しましたからね。何もされていないし、元の姿なんて見せていませんからね」

「ええ、分かっているわ。疑ったりしない。ちゃんと彼女から操を守ったのよね。えらいわ」


 褒められ、撫でられ、わたしは少しずつ落ち着いていった。

 何故か怒られるような気がしていた。責められるような気がしていた。けれど、城主さまはそんな事をしない。全てを受け入れ、わたしを包み込んでくれる人だ。

 抱きしめられながら、わたしはふと記憶をたどっていた。


 はじめて城主さまを敬愛したのはいつだっただろう。この城に来てすぐの事だったと思う。それまでのわたしはどんな思いで暮らしていたのだろう。

 ともあれ、ここに来て間もなく、わたしは城主さまに抱きしめられながら、いとけない嬰児のように泣きじゃくっていた。ここはわたしが存在して良い場所なのだ。そう思いながら、城主さまに抱かれる喜びを味わったのだった。


 島に来るまではずっとちやほやされていたはずなのに、どうしてそう思ったのだったかしら。

 思い出せないまま、わたしはベッドの上に優しく寝かされていた。

 牢獄の冷たい石畳の床とは違う。“彼女”よりもずっと余裕のある振る舞いで、城主さまはその手順を踏む。わたしもまた、余裕があった。“彼女”の時とは違って、抵抗する気に全くならなかった。

 じっとそのお顔を見つめていると、城主さまの手がわたしの頬を撫でた。


「綺麗な目。本物の琥珀よりも美しい。猫であれ、人であれ、その輝きは変わらない。もっとよく見せて」


 囁かれるままに、わたしは城主さまをよく見つめた。

 そして、その麗しい唇が重なった時に、ようやくわたしは自分の姿が人間に戻っていることに気づくのだった。

 一糸纏わぬ心細さも、城主さまの前ならば躊躇いはない。むしろ、安心感に包まれながら、城主さまの手に身を委ねていった。

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