6.記憶
翌日の目覚めは悪かった。身体が重たく、疲れが抜けていない。
ベッドの上で伸びをしながら、わたしはふと自分の両手を見つめた。
黒い。黒い体毛に覆われている。間違いなく猫の手だ。
いつもの通り、たったひと晩でわたしの身体は猫に戻されてしまっていた。それでも心身にこびりついて離れないのは、人間に戻っていた間に起こった昨晩の出来事だった。
ひとりきりで自分の身体を抱きしめ、幸福感に震えてしまう。城主さまを求め、求められた記憶が、今もわたしの思考を狂わせていた。
けれど、そろそろ目覚めなければ。
愛を交わした夜の時間はもう終わり、朝となったのだ。太陽はすでに高く昇っていて、いつもならば洗い物を集めている頃だった。
城主さまはもう起きているらしい。いつも朝が遅いのに珍しい。わたしを起こさなかったのは、ぐっすり眠っていたからだろう。しかし、その厚意に甘えてばかりはいられない。
眠たい目をこすりながら、わたしはどうにか起き上がった。
今日の天気も晴れ。海は大して荒れていない。城主さまの占いでは、近いうちに海が荒れるそうだけれど、それはいつになるのだろう。
ぼんやりと未来を考えつつ、わたしはベッドを整えた。
城主さまは調理中だろうか。
それとも、“彼女”のところだろうか。
いずれにせよ、わたしが向かうのは“彼女”の縛られる牢獄だった。
城主さまが目の保養に彼女の元へ向かった可能性は高いし、そうでなくとも、彼女の衣類を回収しなくてはならない。
それに、昨日のことがあった。喧嘩をしたというわけではないはずだけれど、逃げ出して終わってしまったことは気がかりだった。彼女とまたきちんと言葉を交わしたいという気持ちがあったのだ。
前のように言葉を交わし、また歌と踊りを褒めて欲しい。
そうだ。起きていたらついでに見て貰おう。
そしてまた、新しい歌と踊りを知らないか聞いてみよう。
思い立てば、足取りは途端に軽くなった。
わくわくした気持ちで走ろうとすると、うっかり猫らしく四つ足で駆けてしまいそうになる。手が前脚になってしまうより前に気づいたけれど、そのまま前のめりの状態でわたしは走った。
眠気も、昨夜の疲れも、風と共にすっ飛んでしまった。
階段を駆け下り、駆け上がり、わたしは“彼女”の待っている牢獄の扉を勢いよく開けたのだった。
だが、開けてすぐにその興奮は醒めた。目の前に城主さまがいたからだ。すぐにその眼差しがわたしへと向く。勢いよく開けてしまったが、咎めるようなものは含まれてはいなかった。
けれど、安心したのも束の間、わたしはある事に気づいた。
美しい金色の何かが、城主さまのすぐ傍にいたのだ。
「ちょうどいい所に来たわね」
城主さまが呟き、わたしに手を差し伸べてきた。
しかし、わたしはその手を見つめることが出来なかった。視線はたった一つに絞られ、そこから動かせない。
全ての意識が瞬時にそこへ釘付けになってしまっていた。
そこには異形の獣がいた。言葉を失うほど美しい生き物だった。
頑丈な鎖に繋がれて、大人しい犬のように項垂れている。白金の体毛とは別に、金色の長いタテガミが人間の髪の毛のように生えている。そしてその前髪の間から、穏やかな海面のような色の目がこちらを覗いていた。
生き物は何も言わない。
ただ私を不思議そうに見つめていた。その姿は、あらゆるものが混ざっていた。
「素晴らしいでしょう?」
城主さまが心底うっとりとした口調でそう言った。
「オオカミの身体を基準として、馬のタテガミ、鷲の翼、野兎の耳、獅子の尾、蜥蜴の前脚、豹の後脚……そしてお前とは色の違う猫の目。素材が良かったお陰で、これまでにないほどの傑作になったわ」
「あ……ああ……」
城主さまの言葉で、わたしはその生き物の正体にやっと気づいたのだ。
金のタテガミ、青い目。そして、さり気ない仕草にも、面影が残されている。
身体が震え、心も震えた。
“彼女”だ。
「城主さま……か、”彼女”は……」
「思っていた以上に飼い馴らすのが難しそうだったものだからね。ぐずぐずしていては、お前が危険に曝される。ちょうどいい頃合いだったのよ」
「それで、この姿に……?」
「ええ。違う姿にしようと思ったけれど、この方がいい。なにより、美しいでしょう?」
城主さまが平然とそう述べると、姿の変わった“彼女”は犬のように鼻を鳴らしながらその顔色を窺った。そこにはもう、“彼女”の心は感じられない。予告していた通り、身も心も別の生き物になってしまったかのようだった。
しかし、にわかには信じられなかった。だって、このわたしが人間としての意識を強く残しているのだ。彼女にだって少しはあるはず……あってもいいはず。
高まる気持ちを必死に抑えながら、わたしは城主さまに訊ねた。
「言葉はっ! 言葉は、喋らないのですか?」
すると、城主さまはゆっくりとわたしを見つめ、首を傾げた。
「どうして、そんな事が気になるの?」
冷たいその声色に怯みそうになったが、どうにか気を強く保って答えた。
「どうしても……気になるのです」
およそ答えらしき答えでもなかったが、城主さまは何かを納得したように目を細めると、あっさりと教えてくれた。
「本人の意思よ」
城主さまは寂しそうにため息を吐き、”彼女”の顎を撫でた。”彼女”は城主さまの愛撫を素直に受け入れ、嬉しそうに目を閉じる。翼を折ると、猫のように喉を鳴らした。
「私はただ、選ばせただけ。人間らしさを保ったまま服従するか、何もかも忘れて純朴な獣として服従するか。どうやら彼女は純朴な獣になることを選んだようね。自分が人間だったことも、盗賊として多くの人の命を奪ったことも、全て忘れてしまったみたい」
「此処へ来てからのことも……全部ですか?」
わたしは訊ね、そして”彼女”の顔を窺った。
城主さまの愛を求めるその生き物は、わたしを再度、不思議そうに見つめてきた。城主さまを主人と認め、すっかり懐いているというのに、ずっと世話をしてきたわたしのことは、どうやら覚えていないらしい。
あまりの寂しさに気が狂いそうになる中、城主さまは彼女の頭を撫でながら言った。
「多分、そうでしょうね。魔術のせいで私には十分すぎるほど懐いている。けれど、どうして私に飼われているのかは、今は覚えていないはずよ。かつてお前がそうだったようにね」
「……では、わたしのように思い出すこともあるかもしれないってことですか?」
ほんの少しの希望と共に、わたしは城主さまに訊ねた。
“彼女”は怯えたようにこちらを見つめている。
その顔の端々に面影はある。面影はあっても、どう見ても人間ではない。オオカミか何かのような顔でわたしを見つめ、様子を窺っている。
今の彼女にとって、わたしは未知のものでしかないらしい。
もう、歌と踊りを褒めてくれることもないだろう。
そう気づいた瞬間、どうしようもないほどの喪失感が生まれた。自覚すればするほど辛くなる。だから、どうにかその事実から目を逸らし、わたしは城主さまだけを見つめた。
城主さまは、冷静だった。
冷徹なほどに、落ち着いていた。
「可能性の有無ということならば、有るわ。けれど、極めて低いと言わざるを得ないわね」
「どうして……?」
「お前とこの子は違う。お前はその姿を望み、この子はこの姿を望んだ。その違いはとても大きい。自ら望まなければ、記憶は戻って来ないはずだから」
やや強い口調で言われ、わたしは押し黙ってしまった。
獣と化した”彼女”は、わたしと城主さまとを見比べて首を傾げる。まるで幼子が大人たちの会話を窺っているかのようだ。その様子はおよそ人間だったとは思えない。面影はあろうと、今の”彼女”は間違いなく人外の生き物だった。
本人も、城主さまも、これを是としているならば、この場で心を痛め、泣きそうにさえなっているのはわたしだけ。
返す言葉を見失い、ただただ美しいその姿を見つめていると、城主さまは優しい口調で訊ねてきた。
「どうしたの、猫? 暗い顔をしているみたい」
追い詰められているような気持ちになりつつ、わたしはどうにかそのお顔を見上げた。
返事が出来ないでいると、城主さまは静かに屈んで、わたしの額に指を這わせた。
「お前には私がいるでしょう? ねえ、猫。私がいれば十分よね?」
赤みがかったその目を見つめ、わたしはすぐさま目元を拭った。
「……もちろんです」
声の震えを必死に抑え、わたしは答えた。
「わたしには……城主さまがいます。城主さまがいれば……それで……それで、十分です」
酷く寒気がする中、視界の端で輝く”彼女”とは目を合わせずに、わたしは必死にそう言った。
言わされている?
そんなまさか。
これは本心からの言葉。わたしは城主さまを愛している……。
城主さまはにこりと笑う。わたしがひと目惚れしたのと同じ、実に魅惑的な微笑みだった。
「ありがとう、猫。お前がいてくれて、私は幸せよ」
赤みがかった色の目が揺らいでいる。
完璧な笑みではあるが、その表情の下には深い闇が潜んでいるようだった。
この人は、とても寂しい人なのだ。
ずっとこの島にひとりきり。気まぐれに魔力を使って死すべき者を救い、奴隷として手に入れても、やがては姿を奪わねばならなくなる。
孤独の中で誇り高くありつつも、やはりこの人は愛に飢えている。
だから、わたしがいなければ。
猫の姿にされてしまっても、わたしこそが良き伴侶にならなくては。
使命感を胸にわたしは彼女を見つめた。
ずっとずっと愛している。そのはずなのに、敬愛する城主さまを見つめるとどうしても視界に入る異形の獣の姿が目に沁みた。
どうして、わたしは泣きそうになっているのだろう。
その理由が分からない。分からないまま途方に暮れて、黙って立ち尽くしていると、城主さまの方がわたしに声をかけてきた。
「そうだ。洗い物があるの。隅に置いてあるわ。ゆっくりでいいから、洗って干しておいてくれるかしら」
「はい……今すぐに……!」
この場から逃げる口実が出来た。わたしは素早く衣類を拾うと、一目散にその場を立ち去った。
城主さまは優しく見送るだけ。その隣にいる生き物は、どんな目でわたしを見ていただろう。振り返る事なんて出来なかったし、するつもりもなかった。
怖かった。ただ、怖かった。
牢獄を抜け出し、衣類を握り締めたまま、よろけながら城を抜け出し、いつものように洗い物をしようとする。
乱暴に桶に水を張り、汚れ落としの薬を混ぜ、衣類を付けようとして、わたしはようやくそれが、“彼女”に着せていたものだったことを思い出した。
これを着せてやったとき、城主さまはこの未来を決めていたのだろうか。
どちらにせよ、もう過ぎてしまったこと。それでも、その衣服を握り締めていると、これを着ていた彼女の姿が脳裏をよぎってしまった。
ぽたぽたと雫が落ちて、桶の水面が揺れる。
雨も降っていないのに、わたしの心は曇り空だ。鼻をすすって見上げると、雲一つない青空がそこにあった。
海鳥が騒いでいる。騒いでいることに、久しぶりに気づいた。耳を澄ませてその声を聞いていると、ほんの少しだけ気が紛れた。
衣類を桶につけたまま、わたしはふと両手をあげた。
たった一人の観客が褒めてくれた歌と踊り。もう誰も見てはくれないだろうけれど、無性に踊りたくなった。
妖精も、天の使いも、ここにはいない。
踊り子に何かが宿るのだとしても、猫になったわたしには宿ってくれないかもしれない。城主さまの占いやお薬と違って、この歌声、この舞には、何の力も宿っていないのだ。
褒めてくれる人はもういない。
聞こえてくるのは海鳥の声と、波風の音だけ。
それでもわたしは、歌いたかったし、踊りたかった。
妖精や天の使いになり切って、くるくると回っていると、揺れる視界の端々にここしばらくの出来事が見えてくるような気がした。
今思えば、とても短い間だった。短いが、とても濃厚で、眩いほどに輝かしい日々だった。
ひょっとすると、それすらも、わたしは忘れてしまうかもしれない。波に攫われて削れていく砂浜のように、“彼女”と過ごした日々も少しずつ削れていってしまうかもしれない。
親の顔や自分の名前すら思い出せないように。
城主さまがそれを望んでいるのならば、きっと記憶は薄れていくのだろう。
けれど、歌と踊りはどうだろう。
身体で覚えた音楽と舞いを忘れぬように、毎日何度も歌い踊り続けたならば、ひょっとしたら“彼女”のことも忘れないでいられるかもしれない。
……忘れないでいることは、良い事なのだろうか。
忘れてしまった方が、幸せなのではないだろうか。
もう話すことのないあの生き物の世話をすることだってあるだろう。そんな時、“彼女”のことを覚えていればいるだけ辛くなるのではないか。
いや、それでも。
それでも、わたしは歌と踊りを忘れたくなかった。
――たとえ、城主さまが嫌な顔をなさっても。せめて、これだけは。
歌と踊りが終わってしまうと、冷たい程の静寂がわたしを包み込んだ。
体毛で覆われていても寒気がするほどの心細さに心まで震えてしまう。誰もいない。誰も観ていない。周囲に広がるのはいつもと変わらない美しく平和な島の景色だけ。
多くの生き物がいるはずなのに、どうしてこんなにも心細いのかが分からない。
ただ、“彼女”と話した日々を思えば思うほど、今はこの世界に城主さまとわたしの二人だけが取り残されてしまったかのように感じた。
どうしてだろう。何度も考え、はっとわたしは気づいたのだった。
ああ、そうだ。
きっと、わたしは城主さまを愛していながら、いつの間にか“彼女”のこともまた好いてしまっていたのだ。
同じ奴隷として、人間として、死すべき者として、外の世界を知る者として、友人になれるかもしれない存在として。
息を整えながら空を見上げれば、“彼女”の目によく似た色が広がっていた。
あの美しい怪物も、同じ色の目をしていた。黄金の毛並みに包まれ、周囲を不思議そうに見つめていた。その心の中に、“彼女”らしさは殆ど残っていないのだろう。
けれど、ここにいる。
わたしは強く感じていた。
歌って踊っている間だけ、わたしは”彼女”に会えるのだ。この拙い猫の歌と踊りを褒めてくれた人間の”彼女”の姿が見える気がするのだ。さらに言えば、かつてのわたし自身の姿すらも。
だからわたしは、もう一度、大きく息を吸って両手をあげた。
城主さまを愛していても、歌い踊る心は消えそうにない。
こうしている間だけは、きっと”彼女”にも、過去の自分にも会えるのだろう。いつまでそれが許されるのかは分からない。いつかはわたしも人の心を失った本物の猫になってしまうかもしれない。
それでも、歌えるならば、踊れるならば、忘れぬうちに魂に刻んでおきたかった。
さあ、歌い踊ろう。力尽きるまで。
もう戻らないと分かっている過去を、それでも失わない為に。辛うじて残る、かけがえのない断片的な思い出を、大切にしまい込むために。




