第十四話 人魚の王女と蛇の男の出現
豊は砂浜で寒さに震えていた。
カリュブディスを倒し浜辺に泳ぎ着いたは良いものの、ケイアの服はドラゴンの姿になった時に破れていた。
そして豊は人魚の少女に破廉恥だと糾弾され、何故彼女が憤っているのか理解していないケイアとの板挟みになり、とにかく豊の上着をケイアに着せるまでの一悶着の後で疲弊していた。
「私は蒼海の第一王女エコーリア・リムノレイア。エコーとお呼びなさい」
人魚の少女エコーは胸を薄桃色の布で覆い、下半身を同じ色の腰布で隠していた。
水色の長い尾は陸に近づくと美しい人間の脚に変わっていったが、濡れた腰布はその脚のラインをくっきりと映し出し、豊は複雑な心境で視線を泳がせていた。
「我は『燃ゆる崖』のドラゴン、ケイア・ダナーシュカという」
ケイアが右手を差し出すと、エコーはその手を払いのける。
「不遜ですわよ。ケダモノ風情が王族たる私に馴れ馴れしく振舞わないで」
「不遜と言われてもなぁ」
ケイアはエコーの態度に怒る様子は見せなかったが、困ったように豊を見る。
「それで、お前が私のアイオーンね。名乗りなさい」
「柾木豊です」
「そう。マサキユタカ、私と契約出来ることを光栄に思いなさい」
「はぁ……」
人魚の王女とは言え高飛車過ぎるエコーに豊とケイアはどうすればいいのか二人そろっておろおろするばかりであった。また、豊はドラゴンのケイア以外とも契約出来たことに驚いていた。
しかし怪物カリュブディスに立ち向かった時、確かに豊とケイアとエコーは「一つ」になっており、今でもエコーと心が繋がっているような気がする。
豊達のいる海岸は「広げられた」時のまま、海に覆われた孤島のような空間になっている。
「ウラヌスは何処にいるのだ?」
「ウラヌス?」
「さっきエコーリアさんが波で押し流しちゃった一角獣のヒトです」
「私を真の名で呼ぶのはやめて頂戴。エコーと呼ぶよう言ったでしょう」
豊がエコーの態度にたじろいでいる間にケイアは鼻をひくつかせながら辺りを見回している。
「お、あそこだ」
ケイアの指差した先には、白いボロ雑巾のようになった一角獣が倒れていた。
「取りあえず、契約成立おめでとう……」
人間の姿になる気力もないのか、一本の角の生えた鹿のような姿のままのウラヌスは、しなびた声で契約を祝ってくれた。濡れそぼった尾や足の毛が何とも惨めである。
「何が『おめでとう』ですの!何故王女たる私がこんな陸の獣と契約しなければならないの?!」
「そんなこと僕に言われても……」
「こんなことなら蛸や鮫の方がまだ良かったわよ!」
ウラヌスと人魚のやり取りを所在無く見ていた豊に、少し離れた所からケイアが手招きした。
「ユタカ、ちょっと来い」
ケイアは浜辺の流木を集めて砂の上に置くと、ふっと息を吹きかけた。たちまち流木に炎がつき、燃え上がる。
「ケイアってこの姿でも火が吐けるんだ!」
「口の周りが熱くなるからそんなに強くは吐けないがな、噴きつける位なら出来るのだ」
豊は少し自慢げなケイアに素直に感心した。
ウラヌスが火の方に嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ちょっと、お待ちなさい!」
エコーの叫び声が後に続く。
少し温まって体力を取り戻したウラヌスは、何とケイアの服を「戻して」くれた。
軽微な物の時間を逆行させる管理者の能力の一つだと言う。
孤島の海岸で、四人は焚き火を囲んで座っていた。
コートを着た人間の姿に戻ったウラヌスが、エコーに尋ねる。
「人魚さんがこの領域に入るのを『許可』したのは僕じゃない。誰だったか教えてくれないかな」
「そうね。彼は名乗らなかったわ。ただ私にこの領域の怪物を倒せと言っただけよ」
「この近くの管理者って言うと鳥みたいな奴とか蠍みたいな奴じゃなかった?」
「いいえ。彼は蛇……紫の蛇だったわ」
エコーの言葉に、ウラヌスの表情が険しいものに変わる。
「蛇…!!」
「心当たりがあるのか?」
「ああ、多分……自らの管理領域の破壊を許した『元』管理者だ」
ウラヌスが苦々しげな声で言ったその時、何かが這いずるような音が聞こえた。
次の瞬間には、ウラヌスの背後に黒いスーツを着た男が立っている。
男はごく普通の人間に見えるが、その笑顔は酷薄さを湛えていた。
「ご紹介をどうも、先輩」
「……オピオネウス!!」
ウラヌスは振り向くと噛みつくように叫んだ。
オピオネウスと呼ばれた男はウラヌスを無視すると、豊達の方に向かってにこやかに挨拶をする。
「改めまして。私はオピオネウス。この馬男の後輩にあたる者です。どうぞよろしく」
「お前が彼女に同士討ちをさせるように吹き込んだのか!」
「ええ。大義の為には時に『嘘』も必要と教えてくれたのは貴方でしょう」
「何が大義だ!世界の破壊の何処が正しい!」
怒声を上げるウラヌスと冷静沈着な様子のオピオネウスの間の張り詰めた空気が豊にも感じられた。
オピオネウスはウラヌスに向かって薄く笑いながら答える。
「正しさも何も、所詮我々は牢獄の看守。王の御意思に背く方が間違っていると思いませんか」
「あれは、デミウルゴスは王なんかじゃない!」
「貴方に証明が出来ますか?」
「全てを破壊しようとする者が王である理由があるか!」
「『灰は灰に、塵は塵に』……王の望みは世界の破壊ではない、『再配置』です」
「言葉を変えようが無駄だ!」
オピオネウスは鼻で笑うと、豊の目の前に音もなく移動した。
長身を少し屈めて豊の顔を覗き込む。
「君がアイオーンですか」
オピオネウスの手が豊に伸びたその刹那、豊の体から熱を帯びた赤と青の光が放たれ、オピオネウスの腕を弾き飛ばした。
「成る程……護られているのですね」
少しよろめいたオピオネウスは、先端が二つに割れた長い舌で手を舐めた。双眸は黄色に変わり、その顔は頬の辺りから紫色の鱗に包まれた異形に変じている。
「ユタカに手を出す者は誰だろうが許さん!」
ケイアは既に大剣を抜いており、エコーの手にも真珠色の矛が握られている。
「おお怖い怖い……私は貴方達と和睦する為に来ましたのに。ではまたの機会と致しましょうか」
オピオネウスは両手を広げて笑うと、ふっとその姿を消した。
同時に海に囲まれた孤島は元の海岸に戻っていく。
「あれは僕より後の世代に生まれた管理者で、僕が面倒を見ていたんだ……それが、ある時を境にデミウルゴスの信奉者になってしまった」
ウラヌスが訥々と呟く。
「あやつがエコーをこの地に入れた時に、我らと戦うように仕向けたということか」
憤るケイアに、エコーが心なしかきまりが悪そうな様子を見せた。
「陸の者が私のアイオーンとなると思っていなかったとは言え、お前達の姿は怪物にしか見えなかったわ」
「カリュブディスの暴走がなければ、相打ちになっていたかも知れない」
「私が勝つに決まっているでしょう!」
理不尽にもウラヌスを張り倒したエコーは、こう続けた。
「じゃあ、私が当面お前達を護ってやれば良いのね?」
「アイオーンとその契約者よ、三位、全ての時と全ての地に於いて一となり永遠と成れ。此処に汝らの心を結ばん!」
ウラヌスの詠唱と共に三人の身体が青白い閃光に包まれ、眩い赤と深い青の光が周りに渦を巻いた。
豊はケイアと契約した時と同じ温かさに包まれ、光が左手の腕時計に集まっていくのを感じていた。
「これ、何ですの……?」
エコーは呆然と左腕の腕輪を見つめている。ケイアの腕輪より細めの作りになっている。
「は、外れませんわよ?!」
「それは君達の契約の証だから、外れないようになってるんだよ。海中でもオッケーな完全防水加工」
ウラヌスが告げると、エコーは悲鳴を上げた。
「そんな……そんな、バイト先に何て言えば……!」
夕焼けが海の向こうに沈んでいく。
「アイオーンが見つかるまでバイトを掛け持ちしていて暮らしていたなんて……」
「苦労したのだな……」
「お疲れ様でした……」
「そ、そんな目で私を見ないで!アイオーンが近くに居ることは分かっていたのだけれど、この近くの海には私と同じような種族がいないから仕方なく陸で生活する必要があったのよ!」
顔を真っ赤にしてまくしたてるエコーに三人は同情的な視線を送っていた。
「人魚さんは独りで頑張ってくれてたんだね」
穏やかなウラヌスの言葉に、豊ははっとさせられた。
夢で見た海底の都。自らが治めていた王国が侵略されるのをなす術もなく見守っていたあの時。命を賭して逃してくれた家臣。
全てを失って、遠く離れた地で一抹の希望を見つけようとした彼女の気高い心。
「ありがとう。ここまで来てくれて」
口をついて出た言葉に、エコーは一層頬を染めたように見えた。
「何よ、私の王国の為に仕方なく我慢してあげてるのよ?とっとと『世界の敵』を倒して国に帰らせて貰うわよ!」
三人の左手には、ドラゴンと人魚、人との間に結ばれた絆の証が夕日に照らされていた。