第十二話 柾木豊は海の夢を見る
遠くで故郷が瓦解していくのが見えた。
海底の王国を急襲した黒い軍勢は、一日も経たぬ内に都を占拠した。
至る所で辺りを照らしていた光の柱が一つ、また一つと倒されていく。
澄んだ水の中で光り輝いていた白亜の塔が、寺院が、劇場が、民の住まう家々が、立ち上る砂煙に覆われ灰色に染まっていた。
逃げ遅れた人々を思うと胸が痛んだ。
隣を若い従者が角灯と騎乗具を備えた鮫を引いて泳いでいる。
戦いで傷つき疲れ果てた従者に腕を捉まれた。
従者は縄を手にし、押し殺した声で言った。
「貴女様だけでも、お逃げ下さい」
必死で抗ったが、体を押さえつけられ鮫の横腹に縛り付けられた。
鮫は従者に尾を叩かれると真っ直ぐに泳ぎ出し、最後に少し微笑んだ従者の姿は直ぐに見えなくなった。
縄を振り解こうとするも、鮫は岩の間を、珊瑚の森の奥を猛烈な速度で泳いでいく。
己の無力さに身を引き裂かれ、声もなく叫ぶ。
涙は海の中へ消えていった。
豊ははっと身を起こした。
目覚めると、外から鳥のさえずりが聞こえるようなごく普通の休日の朝である。
隣にはケイアの姿はなかった。いつものように朝の日差しを浴びているのだろう。
(また変にリアルな夢を見たな……)
夢の中で豊は海中に居た。海底には白い建物が立ち並んでいたようだった。
(一緒に男のヒトも居たような気がするけど、人魚……かな。まさか半魚人じゃないよな)
どっと疲れが押し寄せもう一眠りしようと布団を被った時、ケイアの声が明るく響く。
「おはようユタカ!起きろ!」
「今日は学校も休みだし、もうちょっと寝かせて……」
「何を言っているのだ?なればこそ早く起きて鍛錬が出来るのではないか」
「はい……」
有無を言わせぬ声に、豊はしぶしぶ起き上がる。
「武術の訓練に慣れておらぬのなら、一緒に走るのはどうだ?」
「そうだねぇ」
ケイアは小さな地図を開いて、道順を思案している。
空中の移動に慣れているケイアは建物の立ち並ぶ町中では道が分からなくなってしまうようで、豊が引っ越してきたばかりの頃に使っていた近隣の地図を持たせている。
「折角ならこの辺りまで行ってみたいのだが」
ケイアが指差したのは、少し離れた所にある海浜公園だった。
(海!?)
海底の都を夢に見たばかりの豊の心はざわついた。
だがケイアが海岸線を指差して心躍らせている様子を見ると、快く賛成した。
豊は後悔していた。
「ケ、ケイア、もうちょっとペース落として……」
「うん?まぁ遠足は速さより長さが肝要だとも聞いたからな」
近頃頓に運動不足になっていた名誉帰宅部員は予想を上回る速度で走るケイアの背中を追うだけでも息切れしていた。
(俺達力を共有しているはずじゃなかったっけ……?しかもあの剣背負ってあの速さだからなぁ……)
ケイアの背中には斜め掛けにした頑丈そうなベルトから吊るされた巨大な剣。
出立前にせめて鎧は置いて行こうと説得するのにも、豊は段々慣れてきた。
「おおっ!海だ!海だぞユタカ!」
広がる海を眺めながらケイアは子供のようにはしゃぎまわる。
豊はすでに消耗しきって何も応えられず、膝をついて喘いでいる。
視界の隅に何組かのカップルが物珍しげな顔をしながらこちらを見て過ぎ去っていくのが映った。
(そっか。そういやここデートスポットなんだった)
海辺の小高い丘から青い水平線が臨める公園は、白い石畳とよく手入れされた花壇が広がり、日常の喧騒からかけ離れた爽やかな場所だった。
そんな美しい公園で豊は海だ海だと喜ぶケイアの横で何やってるんだろう俺と思わざるを得なかった。
「ユタカ、海が綺麗だぞ。凄く綺麗だぞ」
「うん、分かったよ」
呼吸も落ち着いてきた豊は、改めて海を眺める。
「海を見るのは、幼い頃両親に連れられて行った時以来なのだ」
豊は思わず傍のケイアの横顔を見た。
天空を舞い、広い世界を旅して来たドラゴンと言え、豊にとってはありふれた光景でこんなに喜ぶのか。
ケイアは暫く満足そうに海を眺めていたが、ふと表情を変えた。
「……何だ、あれは」
「えっ?」
「ほら、あの辺りだ」
ケイアが指差した辺りには、うっすらと灰色の靄のような物が動いている。
普段はハシバミ色をしたケイアの眼に青や緑の線が混じり、ドラゴンの姿の時と同じ瞳に変わる。
「奴等か」
豊の目にはぼんやりと見えるだけだったが、ケイアにはその姿が鮮明に映ったらしい。
晴れ渡っていたはずの空は徐々に灰色に変わっていった。
公園を歩いていたカップルや家族連れが、何事かと空を見上げる。
「行くぞ、ユタカ!」
ケイアは叫ぶと、海辺に向かって丘から跳び下りた。
「ちょっ……!」
ザザッと音を立てて斜面を降り下りたケイアの後から豊はこけつまろびつ辿り着く。
消波ブロックで整備された海岸から一キロ程離れた所だろうか。海面に暗灰色の靄が漂っているのが見える。
ケイアは大剣の柄を握り、靄の方に向かって走り出した。
「見るからにやばそうだよ!?取りあえず変身しよう!」
「……そうだな」
ケイアが振り返り、豊の方に戻ろうとした時だった。
黒灰色の靄は黒い影となり、瞬く間に二人の眼前まで迫って来た。
高波が押し寄せ、幾つもの巨大な黒い鞭のような触手が海面を突き破って現れる。
打ち寄せられた波に足を取られつつも、ケイアは豊の方に左手を伸ばした。
しかし二人の間を裂くように触手は海岸を叩きつけ、海水に押し流された豊の体を狙うように触手が高くもたげられる。
波が引いたその瞬間、豊は駆け出して、ケイアの左手をとった。
閃光が走った。
豊はその体が熱を帯び、力が漲っていくのを感じた。
全身は赤く輝き、時折青白い光が脈打つように放たれる。
ただ、その両手には赤く輝く大剣が握られている。
(両手?)
豊の上半身は巨大なヒトに似た姿に、下半身はドラゴンの四肢に変わっていた。
ヒトに似ているとは言え、上半身の大半は鱗に覆われ、しなやかな筋肉はケイアのものとも豊のものとも異なっていた。
先程より随分と小さく見える触手は一時怯んだような様子を見せていたが、再度標的を打ちつけようとする。
豊が大剣が横に払うと、触手は真っ二つに断ち斬られた。次から次へと襲い掛かる触手を続けざまに薙ぎ払う。
最後の一本の触手は少しの間痙攣したように蠢くと、音を立てて海中に沈んでいった。
(死んだ……のか?)
(いや、多分あれは何か大きなモノの手……本体が、海中にいるかも知れない)
しかし、触手が沈んだ後の海面は、既に静かに凪いでいる。
灰色の靄もいつしか消えていた。
辺りを見渡すと、海岸線を白い一角獣が駆けてくるのが見えた。
ウラヌスの姿に安堵し、変身を解こうとした時だった。
豊の立っていた陸地は孤島となり、周囲を海原に囲まれていた。
オルトロスとの戦いでウラヌスが「広げた」時に似ている。ただ、この空間は豊達には不利なように思われた。
突如、海面から轟音を立てて無数の水の柱が噴出した。
噴出した水の中心から、ヒトの姿をした何かが宙に浮いている。
それは長い金髪を頭頂で縛り、真珠の首飾りに腕輪、全身に無数の装飾を身に纏った美しい少女だった。
但し、少女の腰から下は水色に輝く鱗に覆われた長い魚の尾である。
人魚が右手を掲げると、その手の中に白く輝く三叉の矛が現れた。
三叉の矛を振り下ろすと、海中から水が塊となって浮き上がり、渦巻く流れとなって怒涛の如く放たれた。
豊はかろうじて避けることが出来たものの、水流はウラヌスに直撃しその体を押し流す。
人魚は空中を泳ぐように素早く移動し、ウラヌスを追おうとした豊の前に立ちふさがると三叉の矛を豊の眼前に突きつけた。
豊を見下ろすように冷たい視線を向けた人魚は、高く澄んだ声で言い放った。
「覚悟なさい、ドラゴン」