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結界が解けるまで三日~公爵夫人、最後の仕事~  作者: 九葉(くずは)


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第8話 同じ傷を持つ者

「茶を淹れよう」


 と彼は言った。手袋を、していなかった。


 三日目の夜。結界が消えた混乱がひとまず収まり……というより、ヴァルターが疲弊して黙っただけだが——屋敷は不気味な静けさに包まれていた。


 ジル殿が客間に茶の支度をしてくれた。普通ならば使用人がやることだ。だが今夜、使用人たちは結界消失後の対応に追われている。温室の作物を屋内に移す者、魔獣警戒の夜番に立つ者、領民からの問い合わせに応じる者。屋敷中が慌ただしかった。


 その騒がしさの中で、客間だけが静かだった。


 ジル殿が湯を沸かし、茶葉を量り、カップに注いだ。手袋をしていない。両手の術式痕が蝋燭の灯りに照らされて、銀色に光っている。


 この人は、普段は手袋を外さない。私と同じだ。手袋の下を知られたくないから。だが今夜は外している。


 カップから湯気が立ちのぼった。


「ローズヒップだ」


 ……ローズヒップ。


 私が好きな茶を——なぜ知っている?


 聞こうとして、やめた。聞いたら、この人は「業務上の事前調査だ」とか何とか言うのだろう。それは聞きたくなかった。


 茶を一口飲んだ。温かい。ほんの少しだけ酸味があって、喉の奥がほどける。


 身体が緊張していたのだと気づいた。結界が消えた朝から、ずっと。子供の涙を見てから、ずっと。緊張が溶けたら、疲れが押し寄せてきた。


「——ジル殿」


「何だ」


「あなたの師匠の話を、聞かせてください」


 沈黙。


 ジル殿はカップを両手で包んだ。術式痕のある手で。しばらく湯気を見つめていた。


「……師匠の名は、イザーク・ヘルマンといった」


 名前を口にした瞬間、ジル殿の声が微かに変わった。硬質な声が、少しだけ柔らかくなる。昨夜、断片的に語った時と同じ。この人にとって、師匠の名前を口にすることは特別なことなのだ。


「王宮結界術師団の前身を作った人だ。結界術を個人の技術ではなく、公共のインフラとして制度化しようとしていた。当時の王宮は聞く耳を持たなかった。結界術師は希少で、一人の術師に頼る方が安上がりだからだ」


 安上がり。


 私が十二年間無料でやっていたことと、同じ構造だ。


「十年前、隣のベルクハイム伯爵領で結界が崩壊した。術師が高齢で倒れ、結界が消えた。魔獣が領地に流れ込み——師匠は領民を避難させようとして」


 ジル殿の指がカップを握りしめた。


「巻き込まれた」


 短い言葉だった。その短さに、十年分の何かが詰まっていた。


 ジル殿がカップから手を離した。テーブルの上に手を置く。術式痕が、蝋燭の灯りで光った。この痕は師匠から受け継いだ術式の系譜なのだろう。同じ痕を持つ師弟。


「あの日から——私は大規模な結界を自分で張れなくなった」


 え。


「理論はわかる。他人の術式を読むことはできる。だが、自分の血で大きな結界を書くことが——できない。手が止まる。師匠の最期の顔が見えて」


 結界術師団の長が、結界を張れない。


 この人の「盲点」は、そこにあったのか。理論に偏りすぎているのではなく、心理的に、書けなくなっていたのだ。


「だからあなたの術式を読んだ時、衝撃だった。これほどの規模を、一人で、十二年間——」


 言葉が途切れた。ジル殿は息を吸って、吐いた。


「師匠が死んだ後、私は結界術師団を作った。師匠が目指していた『個人依存からの脱却』を制度として実現するために。だが——進まなかった。王宮の予算は限られ、領主たちは自前の術師を手放したがらない。十年経っても、何も変わっていない」


 何も変わっていない。


 この人も、同じだったのか。十年間、壁に向かって一人で立ち続けてきたのか。師匠の遺志を継いで、報われない仕事を。


「あなたの論文を読んだ時」


 ジル殿が顔を上げた。目が少し赤い。蝋燭の灯りのせいかもしれない。


「この術式なら、師匠が目指していたことが実現できると思った。個人の血に依存しない結界の理論的基盤が、この論文の中にあった」


 私の論文。匿名で出した、誰にも読まれなかったと思っていた論文。


「十年——追いかけてきた理由は、それか」


「……それだけではない」


 ジル殿はそこで止まった。飲み込んだ。いつもの癖だ。


「だが、個人的な理由は——今は言わない」


 個人的な理由。


 茶が少し冷めていた。ローズヒップの酸味が、冷えると強くなる。


 この人は私の好きな茶を知っている。十年前から私を追いかけている。手袋を外すのは私の前でだけ。多分。


 わかっている。わかっている。わかっているのに、今はまだ名前をつけたくない。


◇◇◇


「——それで。考えがある、と言っていましたね」


 話題を変えた。実務に戻す。この人はきっと、実務の話のほうが楽だ。


「ああ」


 ジル殿の声が元の硬質さに戻った。やはり、こちらが落ち着くらしい。


「二つある。一つは引き継ぎの件。もう一つは結界の寄生体の件だ」


「寄生体、調べたのですか」


「今朝、結界が消えた後で残留痕跡を分析した。寄生術式だ。屋敷のどこかに、結界のエネルギーを吸い上げる術具がある。特徴から見て、違法な闇市場で出回っている魔道具『贄石』と呼ばれるものだ」


 贄石。聞いたことがない。


「装飾品に偽装されている場合が多い。宝石や首飾りの中に術式を仕込んでおり、近くの魔力源、この場合はあなたの結界から力を吸い上げて蓄積する。蓄積された魔力は高値で売れる」


 装飾品。宝石。首飾り。


 マリアンヌの、あの首飾り。ヴァルターが贈った、高価な宝石の首飾り。あれは三年前に現れた。ちょうど、結界の負担が重くなり始めた時期と一致する。


 偶然か?


「……調査団に、屋敷内の装飾品を調べてもらえますか」


「そのつもりだ。引き継ぎの申請と合わせて、寄生術式の出所も正式な調査対象に含める」


 もしあの首飾りが贄石だったら。


 私が十二年間のうち、特に最後の三年間で急激に消耗した理由が説明できる。毎夜の更新が苦しくなったのは、ちょうどマリアンヌが現れた頃からだった。


 偶然ではないかもしれない。


「あなたの当初の計画は『静かに去る。痕跡を消す』だった。状況が変わった」


「ええ」


「新しい提案がある。『王宮結界術師団に正式な引き継ぎを申請する』。あなたの術式を国の管轄に移すことで、領民の安全を制度的に確保する」


 痕跡を消すのではなく、公的に記録を残す。百八十度、逆だ。


「私の報告書を王宮に提出する。『エーデルシュタイン公爵領の結界が、十二年間にわたり公爵夫人個人に依存していた事実』を、公式文書として記録する。公爵家の管理責任を問う形で、あなたを法的に解放する」


 法的に解放する。


「離縁の根拠にもなる。配偶者への著しい義務不履行——結界術師としての業務に対する不当な扱いは、十分な離縁理由になる。加えて、王宮への虚偽報告も——」


「ジル殿」


「……何だ」


「ありがとう、と——言ったら、あなたはまた『業務だ』と言いますか」


 ジル殿が黙った。カップを置いた。少し強く。テーブルにこつん、と音がした。


「……業務だ」


 間があった。


「業務だが——」


 また止まった。何かを飲み込もうとして。今度は、飲み込めなかったらしい。


「——個人的にも、あなたの十二年間が『なかったこと』になるのは、許容できない」


 許容できない。


 この人の語彙は、いつも堅い。好意も怒りも全部、報告書のような言葉で出てくる。


 「許容できない」という言葉の裏側に、十年分の何かがあることは、わかった。


 ローズヒップティーが冷めきっていた。冷めた茶を飲み干した。酸っぱかった。


 明日。王宮から調査団が来る。私の十二年間に、公的な名前がつく日だ。

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