第2話 三日計画
一日目。やることは決まっている。
朝、寝室の鏡の前で身支度を整えた。墨色のリネンドレスに袖を通し、手首まで覆う革手袋をはめる。術式痕を隠すための手袋。十二年間、人前では一度も外したことがない。
鏡の中の私は、いつも通りだった。三十四歳。伯爵家育ちの公爵夫人。背筋は伸びて、表情は穏やかで、どこにも綻びがない。
完璧な仮面だ。
いつから仮面になったのだろう。最初は仮面ではなかったはずだ。この屋敷に嫁いだ頃は、笑顔もそれなりに本物だった。ヴァルターが私に興味を持たないとわかるまでは。
まあ、いい。今日やるべきことは一つ。引き継ぎ資料の作成。
三日計画はこうだ。
一日目——引き継ぎ資料の作成。結界の全てを文書にまとめる。二日目——私物の整理と退去準備。持ち出すのは最小限、嫁入り道具と母の形見の真珠のブローチだけ。三日目——屋敷を出る。
簡潔で、合理的で、感情の入り込む余地がない計画。
こういう計画を立てるのは得意だった。結界の維持も、十二年間一日も休まず続けられたのは、感情を計画の外に置く技術があったからだ。
◇◇◇
書斎の磨いたオーク材の長机に羊皮紙を広げた。黒曜石のインク壺を三本用意して、銀のペンを取る。今度は血ではなく、普通のインクで。
結界の維持手順。術式の構造解説。触媒の調合比率と、血の代替触媒の研究ノート——代替触媒は結局見つからなかったが、試行の記録は残すべきだろう。季節ごとの更新頻度の変動。十二年間に施した改良の記録。障害発生時の対処手順。触媒の在庫管理表。外壁の術式と内壁の術式の連動条件。月齢による触媒効率の変動表。
書き始めてすぐに気づいた。終わらない。
一つの項目を説明するために、前提となる知識が必要で、その前提にもまた前提がある。結界術は独立した体系だ。私が十二年かけて構築したこの結界は、教科書に載っていない。載せようがない。古代術式を独学で再構築し、現代の理論と組み合わせた、私だけの体系だから。
基礎理論だけで百ページは要る。応用篇が二百ページ。日々の運用手順が百五十ページ。障害対処が百ページ。触媒管理が五十ページ——。
昼を過ぎた頃、インク壺が三本目になった。指の腹にインクの染みが広がっている。手袋を外して書いていたことに気づいた。術式痕がインクまみれだ。
夕方には羊皮紙の束が机の半分を占領していた。
日が暮れる頃——数えた。
七百ページ。
七百ページ。これでも「簡略版」だ。細則や例外処理や、「私にしかわからない感覚的な調整」の類を全部省いてこの分量。完全版なら二千ページを超える。
私の十二年間を文字に起こすと、それだけの量になるらしい。
製本は自分でやった。糸と針で背を綴じる。なかなか綺麗に綴じられたと思う。結界術以外で唯一身についた技術が製本とは、笑えない。いや、少し笑える。十二年間の成果が「結界術」と「製本」だ。実家の母に言ったら泣くか笑うかどちらだろう。
——母。実家のヴァイル伯爵領。南方の小さな領地で、母が一人で暮らしている。離縁したら、帰る場所はそこしかない。
母の庭を思い出した。世界で一番小さい庭。春になると黄色い花が咲く。名前を忘れてしまった。
◇◇◇
エルザを呼んだのは、日が完全に落ちてからだった。
侍女の部屋に行くと、エルザは繕い物をしていた。四十代の小柄な女性。茶色い髪を低い位置でまとめて、落ち着いた目をしている。私が嫁入りした時からずっと、この屋敷で唯一の味方だった。
「エルザ。三日後に、この屋敷を出ます」
針が止まった。
「……存じておりました」
「知っていたの?」
「奥様が昨夜、地下室から上がってこられた時のお顔を見れば。あんなに穏やかなお顔をされたのは——十二年間で初めてでしたもの」
穏やか。そう見えたのか。自分ではわからなかった。解放の顔を、穏やかと呼ぶのか。
エルザは繕い物を膝に置いた。しばらく黙っていた。窓の外で虫が鳴いている。秋の始まりだ。結界のおかげでこの領地は穏やかな秋を迎えられる。霜が降りず、作物が枯れない秋。それが当たり前だとみんな思っている。
「奥様」
「ええ」
「私は——」
エルザの声がかすれた。唇を噛んで、一度深く息を吸って、それからまっすぐ私を見た。
「十二年間、お側にいられて幸せでした」
泣くかと思った。けれどエルザは泣かなかった。代わりに、繕い物の針を持ち直した。指先がまだ少し震えていたけれど、針は布に正確に刺さった。この人はいつもそうだ。震えながらも、やるべきことを止めない。
私も泣かなかった。
「エルザ。あなたの再就職先は私が——」
「いえ、それはご心配なく。心当たりがございます」
え。
「……もう見つけたの?」
「三年前から準備しておりましたので。奥様がいつお決めになっても困らないように」
三年前。マリアンヌが現れた頃からか。この人は私より先に「その日」が来ることを見越していたのだ。
強い人だ。十二年間、毎夜血を流す私の姿を見続けて、一度も悲鳴を上げなかった人。そして三年前から、私の「その後」を静かに準備していた人。
私はこの人に、何を返せただろう。
◇◇◇
寝室に戻る廊下で、すれ違った。
「奥様、こんな遅くまでお仕事ですか? お体に障りますわ」
マリアンヌ。薄桃色のドレスに金の髪を流した、絵画のように整った容姿。心配そうに首を傾げて、大きな青い目を潤ませている。
完璧な演技だった。いや、演技と呼ぶのは正確ではないかもしれない。この人は本気で「善い人」でいたいのだ。善い人が心配している顔。善い人が同情している声。善い人として振る舞うことで、周囲が勝手に味方になる仕組み。
「ええ、おかげさまで。お気遣いありがとうございます、マリアンヌ様」
微笑んだ。いつもの、公爵夫人の微笑み。
マリアンヌが行き過ぎた後、彼女の甘い香水の匂いが廊下に残った。薔薇と——何か甘い花。高い香水だ。夫が贈ったものに違いない。
私は十二年間、香水をつける暇もなかった。地下室にいる時間のほうが、社交の場にいる時間より長かったから。
寝室に戻り、扉を閉めた。革手袋を外す。術式痕の手のひらを、蝋燭の灯りにかざした。
あと二日。
明日は私物の整理と退去準備。明後日——この屋敷を出る。
窓の外に、結界の光が淡く見えた。冬星草の色。あと二日もすれば、この光は消える。
誰も気づかないだろう。
いや。
エルザだけは気づく。三年前から、この日を知っていた人。
それだけで——十分だ。




