第60話:「もち、ご主人の“お手紙”を読む」
【もち視点】
吾輩、今宵はちょっとだけソワソワしている。
なぜなら、ご主人がさっきから静かすぎるのだ。
リビングのテーブルに向かって、ペンを握るご主人の姿は、まるで「お仕事モード」そのもの。
ただ――なんだか様子が違う。
あのときのような、目を吊り上げた険しい表情でもなく、動画編集に悩むときの困り顔でもない。
むしろ、その目元はどこかやさしく、でも少しだけ寂しそうで。
吾輩は、そっと椅子の足元へ近づき、お腹を床にぺたんとくっつけた。
ご主人の気配を、音を、匂いを、全身で感じながら待機する。
紙の上を走るペンの音が、シャリシャリとやさしく響く。
この音、吾輩はけっこう好きである。
やがて、ご主人は深く息を吐いた。
「ふう……書けた……」
小さくつぶやくその声に、吾輩はニャッと小さく鳴いた。
すると、ご主人がこちらを見下ろして、ちょっと笑った。
「ねぇ、もち。読めないかもしれないけど……聞いてくれる?」
その瞬間――
ご主人は便箋を持ち、口に出して読みはじめた。
【みのり視点】
私は、もちに手紙を書いた。
なんだか急に、言葉にして伝えたくなったのだ。
口では照れくさくて言えない。けれど、いつかの夜、布団に潜り込んできたもちのぬくもりに救われた自分を思い出したとき、どうしても「ありがとう」を伝えたくなって――。
もちには文字が読めない。
わかってる。
でも、私は信じてる。
この子は、きっと心で感じてくれるって。
だから私は、便箋を広げて、もちの前でゆっくり読みはじめた。
「親愛なる、もちへ。
この数ヶ月、もちがそばにいてくれて、本当にありがとう。
あの日、寒い夜に出会ってから、私の世界は本当に変わった。
楽しいことも、しんどいことも、もちと一緒に乗り越えてきた。
動画投稿が伸びたのも、人気が出たのも、ぜんぶもちのおかげ。
だけど、最近ちょっとだけ、私の心がつかれてた。
「撮らなきゃ」「もっと更新しなきゃ」って、義務みたいに感じる日があって。
でも、もちが撮影をいやがるようになって、気づいたの。
もちに無理させてたなって。
ごめんね。でも、ありがとう。
また、ゆっくりやっていこうね。
もちと過ごす時間が、私のいちばんの幸せだから――」
声に出して読むうちに、目頭が熱くなった。
でも涙はこぼさずにいた。もちが、静かに耳を傾けていたから。
読み終えたあと、私は便箋をそっとたたんだ。
もちがそばにちょこんと座って、私を見上げている。
「ありがとう、もち」
私がそう言うと、もちが――ほんの少しだけ、顔を私の膝にこすりつけてきた。
【もち視点】
吾輩は、言葉を持たぬ猫である。
だが、ご主人の声の調子や匂い、目の揺れ方から、たくさんのことを感じ取ることができる。
いま、ご主人は「吾輩に感謝している」と言った。
そして、「無理しなくていい」とも伝えてくれたのだ。
――吾輩、ちゃんとわかっておるぞ。
あの頃、再生数や視聴者のコメントに一喜一憂していたご主人。
撮影が楽しいだけじゃなく、どこか「追われている」ようだった。
だから吾輩、あえてカメラから逃げてみたのだ。
突然暴れてみたり、変顔を連発したりして。
すると、ご主人の眉間にあったシワが、だんだんやわらいでいった。
そして今日、ようやく本当の気持ちを打ち明けてくれた。
「また、ゆっくりやっていこうね」
その言葉は、吾輩にとっても救いである。
吾輩は、ご主人が好きだ。
お金がなくても、疲れてても、不器用でも、優しさだけは絶対に忘れないこの人が。
だから吾輩も、これからまたちょっとずつ――やってみようと思うのだ。
無理せず、楽しみながら。吾輩らしく。
いつかこの手紙が、動画になって残る日が来るかもしれぬ。
そのときは、ナレーションは吾輩がやる予定である。心の中で。
「にゃあ」
吾輩がそう鳴くと、ご主人が笑って、頭をなでてくれた。
静かな夜だった。
でも、その静けさは不安ではなく、ぬくもりの静けさだった。




