第十八話(中編) 時間障壁
食事と会話が終わってから、わたしとクワルツさんは後片付けをする。
「ミヌレくん。骨はそこに置いといてくれ。吾輩が後で齧りたい」
「犬ですか」
「狼だ」
働くわたしたちを尻目に、オニクス先生は座ってじっと固まっていた。
楕円に押し潰れた太陽が、地平へと沈んでいく。雪世界が茜色に染まっている中で、先生は青ざめていた。
「先生、具合が悪くなったんですか?」
「率直に言う。日が落ちたせいで、【制約】の影響が強くなっている。これはどうしようもないな」
素っ気ない口調だけど、呼吸は荒かった。
「私は先に休ませてもらう。そこの怪盗は暮れきらんうちに、温泉に行ったらどうだ」
「足跡を喰らう夜の影とは吾輩のこと。追い払っても、嗅覚で追跡が可能だと忠告しておこう!」
「知っている」
クワルツさんが温泉に出かけると、先生は簡素な杖をついて立ち上がった。よろけているわけじゃないけど、足取りが重い。ため息じみた呼吸をして、アルコーブベッドに横たわった。
本当に寝るだけか。
だとしたらクワルツさんに弱っている姿を見られたくなかったから、温泉を勧めたのかな。先生は虚勢を張るひとだから。
闇魔術は日が落ちれば力を増す。
「っ……ぅ」
痛みを呑み込もうとして、漏れてしまった呻きだ。
太陽が完全に地平へと姿を消したころには、さらに悪化していた。身体を動かすたびに呻き、この極寒の世界で汗を流す。
宵の口でこんなに苦しむなら、月が中天にかかったらどうなるんだ。
朦朧とした隻眼と目が合った。
「……泣きそうな顔をするな。我が師のおかげで緩和されている。こらえきれないほどではない」
明らかな強がりだった。
どうしてそんな分かりやすい嘘をつくんだ、このひとは。
「もう一度、あの方の魔法で………」
「いや、これが限界だ。【制約】は私の罪の贖いとして、心から受け入れた魔術だ……魔法で【制約】を排除すれば、私の無意識にまで干渉することになる。我が師の魔法で無意識に干渉されれば、人間の自意識など崩壊するぞ」
わたしは少しでも楽にならないかと思って、ハンカチを雪で冷やして額の汗を拭く。でも根本的解決にならない。
このままじゃ苦痛だけが夜明けまで続く。
せめてやすらかな眠りを。
そうだ。幽霊を喰い殺したときみたいに、【睡眠】の魔術を、魔法にして先生に口移しすればいいんだ。
先生は耐性が高いけど、了承を取れば魔法が通る。
「オニクス先生、わたしが眠りの魔法をかけます。受け入れて頂けますか?」
わたしの申し出に、微かな逡巡があった。
「……好きにしろ」
「我は汝を愛すがゆえに、呪を紡ぐ」
魔力を練り上げ、体内で構成展開していく。
一度、間近で見たことがある魔術だ。うまく構築できるはず。
「汝こそ死に似ており、死からいのちを守りたまうもの。眠れよ、揺籃の内、天蓋の下。今こそひとときの安らぎを 【睡眠】」
先生に魔法を口移しした。
唇を交わして数秒、先生から力が抜けていく。ゆっくりと横たわった。
成功した。
だけど寝顔は青白いし、脂漏もびっしりと浮いていた。呼吸の代わりに呻きが漏れる。
ひとときの安らぎさえ齎さない。
わたしの魔法でも、力が足りない。
わたしは岩室を飛び出して、駆ける。
月浴びる雪の世界。
雪を蹴って風を切って辿り着いたのは、ラーヴさまと初めて会った湖畔だ。
わたしは跪く。
「ラーヴさま! 古代竜ラーヴさま! どうかわたしの話をお聞きください!」
月光と夜陰に響くわたしの訴え。
湖面は波打って盛り上がる。
夜の世界に、溶岩色の温かい光が満ち溢れた。
≪娘よ。なんの話だ?≫
「わたしは先生の【制約】を、完全に解きたいんです」
茜色の湖面は揺らぎ、泡立った。
≪申したはずだ、とうに申したはずだぞ。ワシには無理であると≫
「ご自身には出来ないとおっしゃっていますが、方法が無いとは一度も口にされなかった。この世に解く手段は、ただのひとつも無いのですか?」
わたしの問いかけに、無言が返ってきた。
星も瞬かなくなるほどの静けさ。
嗤うでもなく怒るでもなく、大地が静まり返っている。森厳とした空気だ。もっと恐ろしいものが起こる前触れのようだ。
≪【制約】を解く方法は存在する≫
「では……!」
≪魔術は魔術によって解くが道理よ。だがワシは魔術を使えぬ。それは人の手段であるがゆえにな。肝胆気は進まぬが……ワシがやり方を教え、そなたが呪符を作れば望みは叶うであろうな≫
先生を救う呪符。
呪符を作れば、完全な自由を手に入れられる。
「どのような素材でもご用意致します」
湖底神殿の最奥だろうと、幻想大樹のてっぺんだろうと、わたしは行ける。行ってみせる!
≪この地上にはない≫
地上には無い?
月かな?
≪手に入れるべきは……無窮神性『ゼルヴァナ・アカラナ』の心臓だ≫
「……『ゼルヴァナ・アカラナ』」
告げられた単語が呑み込み切れなくて、わたしは鸚鵡返しをしてしまった。
それは宇宙の果て、時間障壁の向こう側に存在する、始原的な魔力の塊。
時間障壁は人類が到達した限界域。それよりさらに彼方のことなんて、机上でしか語られないと思っていたのに。
≪彼女の心臓が、呪符に不可欠だ。持って参れ≫
「……女性? いえ、魔力の塊だと習いましたが、『ゼルヴァナ・アカラナ』は人格を有しているのですか」
≪無論。彼女は思考を巡らし、感情を持ち、意思を宿している。乳房と心臓と子宮を持っている。特に心臓は、この世にふたつと無い美しい角で作られておるのだ≫
「角で、出来た、心臓」
わたしが意図しないで吐いた単語の断片には、砂利じみた不快感があった。
言葉を呟いているのか、砂利を吐いているのか、分からない。
どうしてか自分の胸に触れてしまう。
≪その角を持ってくるがいい≫
「心臓を奪ったら『ゼルヴァナ・アカラナ』は死んでしまうのでは?」
≪さて、それはワシのあずかり知らぬことよ。だが娘、決意あらば行くがよい。ワシなら時間障壁の彼方、『ゼルヴァナ・アカラナ』の棲む根城『永久回廊』までそなたを飛ばせる≫
「永久回廊に統べるもの、それは『夢魔の女王』では?」
≪ほう。知っておったか、彼女のまことの名前を。無窮神性『ゼルヴァナ・アカラナ』とは、千年前に砂漠に棲んでおった魔術師たちが勝手に名付けたもの。彼女自身は『夢魔の女王』と名乗っておる≫
クリア後ダンジョンのボスだ。
賢者カマユーがわたしを『夢魔の女王』と呼んでも、ただの偶然だと思った。オリジナリティのある二つ名ではない。むしろ中二病を患っていたら、物足りないくらいの使い古された肩書だ。
『夢魔の女王』の心臓は、角製。
そう。ボスを倒した初回にだけ、一角獣の折れた角が手に入るのだ。
わたしは自分の胸に触れる。
心臓がないのに血液と魔力を巡らしている。
この薄い乳房の下には、一角獣の折れた角が心臓代わりに脈打っていた。
背後から雪の落ちる重い音がした。
クワルツさんだ。苦しそうに雪に蹲っている。
「………その声は…なんだ?……きみは、一体、なにと、会話している?」
「このお方が、古代竜ラーヴさまです」
≪娘よ。狂いを知らぬものに、ワシの声は届かん≫
ラーヴさまが声を発した途端、クワルツさんが口許を抑えた。病的な咳き込に、彼の背が撓む。
≪狂っていても届かん。狂っておらずとも届かん。狂いの深淵より正気の岸に還ったものだけが、ワシの紡ぐ振動を声として聴くことが出来る。その青年は多少、狂いの縁に近づいたことがあるようだのう。平気そうだ≫
「平気そう? これでですか?」
死にかけの間違いだろ。
≪ワシの意思ある振動を耳にしておきながら、発狂しておらんではないか。口から血を吐いてもおらん、鼻から脳漿を垂れ流してもおらん。天晴よ。魔法使いとしての素質は高いようだのう≫
ラーヴさまは笑う。
大気と大地の震動に、クワルツさんが咳きをひどくする。全身を使って、肺腑から空気をすべて嘔吐するように、震えながら咳いていた。肋骨が折れるんじゃなかって勢いだ。
ラーヴさまはちょっと黙ってほしいな。
わたしから話しかけておいて、黙れってほしいってのはないだろうって我ながら思わなくもない。
古代竜たるラーヴさまが、個人を案じることはなさそうだ。
人類に慈悲をかけているだけで、人間に対しての慈愛は皆無だな。
「ラーヴさま。わたしは永久回廊に参ります」
わたしは恭しく膝をついて、頭を下げた。
辺りは溶岩色に照り輝き、月の光を掃うほどだった。
「ミヌレくん。どこへ行くのだ、あの教師を置いて」
咳きながら、クワルツさんが問う。
「先生を救う呪符を作るため、土星の向こう側まで素材採取です!」
「土星とはまた遠そうだな。あまり遅くなるとオンブルが心配するのだが、帰りはどのくらいになる?」
「時間障壁を越えたところだから、時間の干渉を受けないんです。過去でも未来でもない。現在ですらない場所なんです。だから戻ってきたとき、時間は経過していないんですよ」
「それは単純に喜んでいいのか?」
「デメリットですか? 分かりません、人類未到の地ですから」
「それは良いな。吾輩の誉れのひとつになりそうだ」
「付き合ってくれるんですか?」
思わず驚きの叫びが出る。
帰りの時間を聞かれたのは、岩室で待っててくれるって意味だと思ってた。
「ハッハッハッ! ここでミヌレくんを見捨てては、吾輩が怪盗たる資格を失う。怖れてないとは言わんが、それでも吾輩は己の怪盗倫理と犯罪哲学に従うまでよ!」
胸を張って、不敵に笑うクワルツさん。
≪ではその青年も、ともに飛ばせばよいのだな≫
ラーヴさまの声で、クワルツさんがふたたび咳き込んだ。
咳きの隙間で、予告状って呻いている。たぶん『永久回廊』には出せないと思うよ、予告状。
≪地球に還りたくばワシの名を叫ぶがよい。娘よ、そなたの限りなき魔力が籠った声は、ワシの耳によく届く≫
「ありがとうございます」
≪では魔法をかけよう≫
世界が溶岩色に輝く。
いや、もっと淡くて黄金めいている。これは黄昏色だ。世界が終わるときの色だ。
≪時空の果てにあるものは何ぞ≫
「それは受肉した女王」
わたしの唇から、勝手に声が出る。
なんだこれは?
≪かってありしものは何ぞ≫
「それは夢みる胚胎」
ラーヴさまの問いに、わたしが答えている。
知らないはずの単語、知らないはずの回答。これは一体わたしのどこから生じているんだ? 否、わたしからではなく、もっと深いところから引き出されている。
わたしがわたしになる前の知識。
今生と前世の狭間。あるいは今生と来世の狭間か。
≪いづかたより来たりて、いづかたへか去るものは何ぞ≫
「それは大いなる息吹」
正しい式が正しい数を産むように、正しい問いがわたしでないわたしから答えを引き出している。
ここにいるわたしは、真理の通過点に過ぎない。
これが真の魔法か。
大きいのではなく、深い。底のない奈落を見下ろしている感覚だ。
≪では、その三つは永遠であるか?≫
「否、それは永遠であるが、ひとつのもの。ただ唯一のもの。すなわち『夢魔の女王』!」
肺腑の空気すべて使い果たし、答えを発す。
その瞬間、ラーヴさまの魔法が、わたしたちを包み込んだ。




