三十二
そんな中である日、私は意を決してお父様のいらっしゃる温室に向かった。土の匂いと独特の蒸した匂いが嫌になって、大きくなってからはあまり入ったことが無かったのよね。中ではお父様は霧吹きで苔たちに水を上げていた。
「やあ、ジェシーちゃん。ご機嫌いかがかな? マリアンヌちゃんも良い感じだね」
中には座れるようにところどころベンチも置いてあるのでそこに座って苔に話しかけるお父様を黙って眺めていた。
小さい頃はここに入り浸っていたわね。一緒に苔に話しかけたものよ。
「おや、アーシアがいるじゃないか。どうしたんだね。ここに入って来るなんて珍しいね」
「……お父様。では無くて、侯爵様。お話がありますの」
「アーシアが小さい頃はそこでよくダンゴ虫を転がしていたなぁ」
くるくるっと丸めてねなどとお父様はしみじみお話するものだから、言い出しにくいわ。
「あの頃は可愛かったなあ。天使のようだったよ。……あ、いや今も天使のように可愛いよ。アーシアは」
お父様は目じりを下げてそんなことを言いながら他の苔や植物に水を掛けている。可愛いと言われて私は続く言葉がどうしても出なかった。だけど深呼吸をしてから私は口を開いたの。
「……あの、私、お父様の子ではないのです」
やっと言えたわ。お父様。いえ、侯爵様はきょっとんとしてこちらを見ているわ。目をぱちぱち瞬いている。
「また、ルークの悪戯かい? まだそんなことを言ってるなんて。アーシアもデビューして大人になるといってもまだまだ子どもだねぇ」
「お兄様、いえ、ルーク様の命令とかではありません」
「そうかい? 昔、ルークに樹の下で拾われた子だと言われて大泣きしていたじゃないか。あはははは」
お父様、侯爵様はゆったりとした動作で作業を続けていた。
「それに私の子じゃないなら大変じゃないか、マデリンが不貞をした子なんて冗談でも言ったらまた夕食抜きにされるよ。いやおやつも抜きだな」
「お母様の、いえ、侯爵夫人の不貞の子では無くて、取り違えられて……。おやつは困りますわ」
全く取り合ってくれない上にもっととんでもない誤解を生んでしまったようだった。そのとき温室のドアが開いて風と共に草花がざっと揺れて誰かが入ってきた。
「アーシア。お帰り! 兄のお帰りだよ。さあ、顔を見せてごらん」
後光が差しそうな明るさでルークお兄様が足早に私達の方に駆け寄ってきた。
「おかえり。ルーク。今回も大丈夫だったかい? 聞くだけ野暮だったかな」
「おかえりなさい。ルーク様」
私はルークお兄様に向き直って挨拶をした。いよいよ断罪の時よ。私は大きく息を吸い込んだ。
「ええ、父上。首尾は上々ですよ。おや、アーシア……。大事な兄が抜けているじゃないか?」
「……」
「ああ、アーシアは拾われっ子ごっこをしているんだよ。まだまだ可愛いねぇ」
「お父……、侯爵様。違いますわ。拾われでは無く取り違えです……」
そう言いかけるとルークお兄様の目がきらりと光った。
「ごっこ……。そんな暇があるなら、ダンスの練習はどうなっているのだ? 当日、ステップを忘れたり、奏上の言葉を忘れたりしたらどうなるのか分かっているのだろうな?」
「は、そ、それは勿論準備は怠らず……」
「この兄が帰ったからにはデビューまできっちりと仕上げてみせようじゃないか。アーシア。気合を入れ直すのだぞ」
「は、はいっ」
私はルークお兄様に会うと蛇に睨まれた蛙のようになってしまうの。今も直立不動で返事をしたわ。そして、ルークお兄様の言葉通りしごき……、いえ、レッスンは強化されてしまったせいで、取り違えをリークするなんて気力は無かったわ……。
あっという間に大舞踏会の日はやって来た。私は真新しいローブデコルテに身を包みしずしずと王宮に入った。お父様にエスコートされてね。お兄様とお母様は後ろからついていらっしゃるわ。
ひそひそと遠巻きに噂されている。ルークお兄様はその美貌から女性陣からは羨望の眼差しと男性陣からは妬みとやや尊敬の入り混じった感じの視線を受けていた。そして、私には……。あれが新たなとか興味津々の言葉が耳に入ってきた。デビューするだけなんです。私の方は嫌がっているの。あまり目立ちたくないんですからね。
今日までに何度か王宮には練習にきていて、この大舞踏会の始まる直前には別室で両陛下からデビューするものは特別にお言葉を頂けるのよ。勿論伯爵家以上の子女に限るんだけどね。
私は無事お言葉も頂いてお父様達と大広間に向かう。そこにはこの国の貴族が大方集まっていた。国王陛下の開会のお言葉のあと、王妃様とお二人で始まりのダンスを踊られる。それから、今年デビュー者達が踊り出すのだけど私のパートナーはお兄様の筈だった。何度も練習したし。だけど今私のお隣には何故か王太子様が! 周囲からは突き刺さるような視線が痛い。これは何かの間違いではないでしょうか?
だけどね。無情にも国王陛下のあと、私は王太子様と踊り始めたのよ。それも広間中央の一番目立つところでね!
「ルークに頼まれて驚いたよ。それにしても緊張してるね。デビューだから仕方ないかな。私もダンスは下手な方では無いので心配ないよ」
王太子様がお相手だと超緊張するわよ。でもダンスはオートモードだから大丈夫な筈。大丈夫じゃないのは私の心の中だわ。よりによって何故に王太子様のエスコートでデビューしなくちゃならないのよ。目立って仕方ないじゃない。
私の内心の怒りと動揺とは関係なく、曲が始まると身体はオートモードになる。ええい。もうどうにでもなれよ!
「ほお、ステップが軽いね。とても上手だ。さてはルークがしごいたな?」
「はい。ルークお兄様は完璧主義ですのでしっかりと。畏れながら、申し上げるに殿下に私のデビューのパートナーにお願いしたとは思ってはおりませんでした」
知っていれば全力で逃走したのに。今は全力で踊っているけどね。オートモードだから便利ね!
「このステップも……。驚いた。君はあまりというか、今まで王宮に来ることが無かったからまさかここまで上手いとはね」
アベル王太子様はそうおっしゃると真剣な表情をなさっていた。ステップはオートモードだけど猛特訓しましたわ。ルークお兄様のスパルタでね。
でも、本来は国王夫妻のあとは王太子様とジョーゼットのダンスが入る筈よね。私は視界の隅でジョーゼットを探した。ジョーゼットを見つけると他の男性と踊っていた。お身内方かしら? 王太子様を取っちゃってごめんなさい。これはルークお兄様の陰謀なのです。私は無実なんです。王太子様などとは恐れ多いわよ。ましてや、王太子様妃の座など狙ってません。ルークお兄様は狙ってるらしいけど……。
私はアベル王太子様のお言葉は何れは糾弾される結末を思うと気が晴れなかった。ジョーゼットのこともあるし。
「私と踊っていて他のことを考える余裕があるとは、これでどうかな?」
どうしようと思う間もなく、くるりとアベル王太子様に大きくターンをさせられてしまった。だけどそこはオートモードなこの体。もっと映えるようにとさらに手を優雅に広げて周囲にアピールしていたわ。恐るべし。
周囲の称賛の眼差しから王太子様の驚きの表情は見ものだったわ。踊り終わるとその場で挨拶するのだけど王太子様が私の手をもって素晴らしいデビューである旨のことを宣言されたのよ。お分かりでしょうね。その後、話しかけてくる方々の多さに何度も逃走しかけたことか。両隣にルークお兄様とお母様がいなければ潰されていたわ。
「モードレット侯爵家のお嬢様は素晴らしい方ですわ」
「まるでダンスの妖精が舞い降りたかのようでしたな」
そんなことを口々に皆様は仰っていた。私は微笑をしてお礼を言うマシーンと化した。でもジョーゼットを見つけたので微笑もうとしたら、視線を逸らされてしまった。それに彼女の表情は酷く青ざめていたの。もしや、誤解してないでしょうね。
「それにしても、ローレ公爵家のご令嬢のデビューのときは王太子様のエスコートは無かったと言いますし、これはアーシア様の方がアベル王太子様も……」
いやいや。それは違うわ。私もお兄様、もといルーク様の予定と聞いておりましたよ? ジョーゼットを悲しませるようなことはしないわよ。そもそも、私はユリアン様一筋だし、庶民ですしね。
なんだか庶民になる筈がどろどろの宮廷絵巻に巻き込まれそうなんだけど。




