第八十六夜 ―― 葡萄の血と、消えぬ毒 ――
第八十六夜 ―― 葡萄の血と、消えぬ毒 ――
王宮の回廊。壁に掛けられた松明の炎が、銀の杯に満たされた深紅の液体を不気味に照らし出している。
ザルカ王は、その杯を口元に寄せようとして、ふと動きを止めた。
「……サフィア。この葡萄酒の色、あまりに鮮やかすぎて、まるで今しがた流されたばかりの『血』のようではないか。人はなぜ、これほどまでに禍々しい色をした飲み物を、喜びの象徴として愛でるのだ」
サフィアは、熟した葡萄の房を指で一粒潰し、その滴る汁を見つめながら、第八十六夜の語りを始めた。
◆ サフィアの語り 第八十六夜 ――「起源の雫と、三つの顔」
遠い昔、世界で最初に実った葡萄の木は、乾いた大地に流された聖者の血から芽吹いたと言い伝えられています。ですから、葡萄酒には三つの顔があるのです。
一つは、人々の心を解き放ち、宴を彩る**「喜び」の顔。
二つは、神に捧げられ、魂を浄化する「供物」の顔。
そして三つ目は、その色が示す通り、命そのものである「人の血」**の象徴としての顔です。
かつてある国では、同盟を結ぶ際、互いの指を切り、その血を葡萄酒に混ぜて飲み干したと言います。それは「裏切りは死を意味する」という、最も重い契約の証でした。葡萄酒を飲むということは、他者の命を、あるいは自らの誓いを飲み込むことと同じなのです。
しかし、もしその美しき深紅の液体の中に、憎しみという名の「毒」を混ぜた者がいたとしたら。その葡萄酒は、喜びでも供物でもなく、永遠にその者の喉を焼き続ける「呪いの水」へと変わり果てることでしょう。
サフィアは語り終え、王の持つ銀の杯を静かに見つめた。
「王様。あなたの喉を潤すその雫は、今、どの顔をしておりますの?」
ザルカの手が、微かに震えた。彼は杯を机に置き、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……サフィア。余の喉は、もう長いこと乾ききっている。どんな名酒を流し込んでも、この渇きは癒えぬのだ」
王は顔を覆い、絞り出すような声で初めて自らの闇を口にした。
「……かつて、余はこの手で葡萄酒に毒を盛った。余の王座を脅かすと信じ込んだ、無実の忠臣にだ。彼は余を信じ、微笑みながらその杯を飲み干した……。その時の彼の瞳、あの深紅の輝きが、今も夜ごとに余を責め立てるのだ。余の王座は、血に塗れた毒杯の上に築かれているのだ!」
王の告白は、冷たい石床に重く響いた。
サフィアは何も言わず、ただ震える王の背中に、そっと温かな手を添えた。
「サフィア。余の罪は……この身を焼くような後悔は、いつか終わる時が来るのだろうか」
夜の帳が、王の啜り泣きを包み隠すように、静かに、そして慈悲深く降りてきた。




