──この世界に生まれる前 その2
その日私はいつも通り学校にいて、いつも通り簡単すぎる上に内容のない、くだらない授業を受けていた。そしていつも通り1日の授業を終えて、帰ろうとしていた時だった。
「こんにちは、お嬢様。お久しぶりですね」
私の前に、私がクビにしたあの男が現れたのだ。
廊下でバッタリと出くわしたその男は、見慣れたスーツ姿ではなく作業着姿だった。手には工具箱を持っているので、何かの仕事でこの学校を訪れたのだと思う。
当初よりだいぶ痩せて……いや、やつれていると言った方が正しいかもしれない。目の下には大きなクマができているし、声もしゃがれている。まるで別人のようだけど、間違いなく運転手のあの男だ。
「こ、こんにちは。お久しぶりですね」
「おや、私のような者の事を、覚えていていただけましたか。これは光栄です」
「ええ、勿論覚えていますとも。新しいお仕事が見つかったようで、良かったですね」
「おかげさまで。今の仕事は前の仕事よりもやりがいがあって、上司も良い人でとても働きやすいんですよ。皆優しいし、誰も私を怒鳴ったりもしてきません。本当に、良い職場にありつけました」
「……」
ニコニコとしながら、男は今の職場を褒め称えた。
それではまるで、前の仕事環境が悪かったみたいではないか。私の運転手なんて大役、相当良い給料を貰っていたはずなのに良く言うよ。
こんな恩知らず、案外クビにして正解だったのかもしれない。
まぁ新しい職場で元気にやっているようで、良かったよ。心配していた訳ではないけど、それが分かって私は心の中でどこかホッとした。
「そう。では次はその職を失わないよう、せいぜい頑張る事ですね。失礼します」
「……待て」
「いっ!?」
男の横を、通り過ぎて立ち去ろうとした時だった。男が突然、私の肩を掴んで来たのだ。男の手が肩に食い込み、私は痛みに声を上げてその手を振り払おうとしたけど、ビクともしない。
子供と大人の筋力差では、敵うはずもなかった。
「私はね、頑張ろうと思っていた。新しい職場で、皆に支えられながら新しい人生の道筋が開けてきた所だ。今日この日、この学校に来る用事なんてなければ、こんな事考えなかったと思う。でも運命の悪戯っていうやつは、あるんだ。あったんだよ。神様が私を、ここに導いてくれたんだ」
「はっ。離せ!」
「離したら、お嬢様がどこかへ行っちゃうだろう?だから、ダメだ」
「いっ、いたっ!痛い!」
相変わらずニコニコとしながら、男は私の肩を掴む手に更に力をいれて、食い込ませてきた。
周囲の生徒たちが、そんな私たちの様子を見てようやく異変に気づいてくれた。小さく叫び声をあげる者や、慌ただしく駆けてどこかへと去っていく者もいる。恐らく先生や警備員を呼びに走り出したのだろう。
「そんなに痛いかい?」
「こんな事をして、タダでは済みませんよ……!で、でも、今すぐこの手を離せば赦す事ができます」
「はは。お嬢様の気に入らない事をして、タダで済んだ事なんて一度もないだろう?お前の我儘をきき、殴られようが怒鳴られようが我慢し続けていたのに。なのにお前はあんな事で私をクビにして……だから、この手は離してあげないからね」
「こっ……のっ!」
私は意を決して、男の手に噛みついた。でも、男は何の反応も示さない。その代わり、私の頭に衝撃が走った。衝撃と同時に大きな音がして、私の意識は遠ざかる。
でも、高く大きな悲鳴が響き渡った事により、意識がつなぎとめられた。悲鳴をあげたのは、私と男のやり取りをみていた生徒たちだ。
一体何がおこったのか、周囲を見て状況を確認しようとするけど、視界が赤く染まってよく見えない。コレは……血?どこから流れてくるの?頭が痛い事と、何か関係があるのかな。
「あ……」
男の手に噛みついていた口からは自然と力が抜け、立っていられなくなって倒れそうになるけど、肩を掴まれているのでそれはできない。
「お嬢様は、いけない子だ。誰も叱ってくれないから、こんな子になってしまったんだよね。だから私が叱ってあげます」
「……」
そういう男の手には、血の付いた道具箱が握られていて、それを私に見せつけるように目の前に持って来た。
そうか。私はこの男に、工具箱で殴られたのか。工具箱は重そうで、しかもたぶんアルミか何かでできてるよね。そんなので殴られて、私の頭は無事なんだろうか。大丈夫じゃないから、頭が痛いんだね。分かってる。
「……こんな、事をして……娘さんはどうするつもり……?」
私は声を振り絞り、家族の話題を出してこの男を説得する事にした。
この男は、壊れている。私を殺すつもりで、私の前に現れたのだ。なんとか思いとどまらせなければ、本当にそれを実行に移されてしまう。私の、完璧な人生が終わってしまう。こんな壊れた男に終わらされるなんて、冗談ではない。
「娘?娘は私が仕事がクビになったのが原因で、妻に連れられて出て行ったよ。妻とは元々上手くいってなかったからね。仕事のクビを理由に、離婚を迫られてしまったんだ。私にはもう、何もない。だから心配しなくていいよ、お嬢様。最後まで、ちゃんとするから」
そこで初めて、ニコニコと笑っていた男の笑顔が崩れた。眉間にシワがより、歯を食いしばって憎悪を隠そうともしない。目は瞳孔が開き、正気を失っている。
これが、この男の本当の表情だ。
直後に、私の顔面に男の拳が飛んできた。口の中に血の味が広がり、痛みは後から追ってやってきた。肩を掴んでいた手はいつの間にか胸倉を掴んでいて、倒れる事を許さないどころか地に足がついていない。苦しくて、自然と涙があふれてきた。
「怖いかい?大丈夫。私はもっと怖くて、痛かったんだ。こんなの、痛いうちにも入らないんだよ」
更に、何発も顔面を殴られた。それでも意識を保っていたのは、死にたくないと言う意思があるからだ。私の人生は、ここで終わったりなんかしない。私は死なない。私は生きていく。お父様の跡を継ぎ、立派な大人になる。
「たす、けっ……」
私は殴られながらも、ギャラリーの生徒に手を伸ばし、助けを求めた。でも彼らは皆目の前の光景に恐怖して、誰も動いてくれそうもない。その目を見て、私は悟った。
誰も、恐怖に打ち勝ってはくれない。恐怖に打ち勝つ程の価値が、私にはないのだ。自分の今までの態度、言動を考えれば当然だ。この男にしてきた事と同じような事を、彼らにもして来ている。彼らはもしかして、私が殺される事を望んでいるのではないかとすら思えてきた。
「──おい、何をしている!」
それでも、慌ただしい様子で駆けつけてきた警備員と教員の姿を見て、助かったと思った。
「……本当はもっと痛めつけたかったけど、残念だよ」
男は警備員たちの方をみて、諦めたように振り上げた拳を下ろす。どうやら、壊れたように見えるこの男にも理性は残っていたようだ。私は助かる。顔と頭は痛いけど、死んでしまう事と比べればなんて事はない。
今はとにかく、この手を離してほしい。私を解放して、どこかへと行ってほしい。それだけだ。
「早いけど、とどめだ」
けど、私の期待はすぐに打ち砕かれた。
男は工具箱を片手で開くと、その中から包丁を取り出し、何の躊躇もなく私の胸に突き刺して来たのだ。何がおこったのか考える間もない。男は近づいて来る警備員達を気にする事もなく作業を続け、そして私を廊下の窓から放り投げた。
宙に浮いた私の身体は、すぐに重力に引っ張られて落下していく。ここ、何階だっけ。それより、胸が燃えるように熱い。
「っ……」
もしかして、もしかしなくとも、私は死のうとしているのではないだろうか。ようやく追いついてきた思考が至るのは、死ばかり。
──死にたくない。私は生きるんだ。生きて、素晴らしい人生を歩んでいく。
心の中で願ったその願いが、もしかしたら誰かに届いたのかもしれない。落下しながら意識を手放そうとしている私に向かい、どこからともなく声が聞こえてきた。
──共に行こう。私たちの世界へ。




