──この世界に生まれてから その1
気が付けば私の目の前には、美しい女性がいた。大粒の汗を額に浮かばせ、天使のような微笑みを私に向けて見せてくれている。一瞬ここは天国で、この人は天使なのだと、そう思った。
だって、死んだと思ったらキレイな青い瞳と、金色のふわふわの毛が目の前にあるんだよ。どう考えたって、この人は天使だ。
でも、あんな死に方をした私が天国に?ありえないと、自分ですぐさま否定した。
「あ、あぅ……あー、ああー!」
あれ?おかしい。声が上手く出せない。それどころか、私の耳に聞こえたのはまるで赤子のような声だった。その声を出したのは間違いなく私で、だけどそれは私の声ではない。
『ふふ。可愛い。ほっぺ、ぷにぷに』
天使の女性が、何かを呟きながら私の頬を突っついてきてくすぐったい。やめさせようと手を伸ばしたけど、その際に目に映った自分の手は、とても小さく赤子のようだ。
赤子のような声に、赤子のような手……。おかしい。絶対に、おかしい。
私は半ばパニックになって暴れようとするけど、天使の女性が私をしっかりと抱っこしていて、自由がない。というか、力が上手く入らなかった。
『よしよし。大丈夫よ。大丈夫』
私は身体をゆすられながら、天使の女性に頬ずりをされた。頬に当たる、天使の頬。そしてキスもされ、私は暴れるのをやめた。
『ああ、か、可愛すぎるっ。まるで天使のようじゃないか!オレ達の、天使!宝物!オレにも抱かせてくれ!』
『慌てないで。優しく、丁寧に、ね』
声がした方向へと目を向けると、男の人がいた。こちらも男前の男性で、でも天使のように見えない。
普通の、いや普通以上の、カッコイイ男性だ。私に対しての敵意は感じないし、怖がる必要など全くない。はずなのに、私の身体はその男の人を見て震えだした。男の人の手が近づいて来る。そして優しく、頭を撫でた。怖い。怖くて、汗が出る。
「あ、あぅー!ああー!あー、あー!」
私は恐怖に耐えられず、声を出して泣いた。まるで赤子のように、涙まで流して全力で泣いた。
『どうしたの?大丈夫、パパだから怖くないよー。よしよし』
『そ、そうだぞ。パパだから、大丈夫だ。だからそんなに泣かないでくれ』
「あぅー!あああー!」
2人が私をあやしながら何かを訴えかけているけど、私は泣き続けた。全力で男の人を拒否し、その手を跳ね除ける。そして、必死に天使の女性の方に抱き着いた。抱き着いたのは、その豊満な胸だ。柔らかな膨らみにしがみつくと、手が埋まるのが面白い。初めての感触に、ちょっと感動した。
『あらら。そんなにママが好きなのね』
『ど、どうしてだ?オレ、なんかした?もしかして、臭いのか!?』
『ううん、大丈夫。たぶん、機嫌が悪かったんじゃないかな。それか、生まれて初めて男の人を見て怖かったのかも。だから、そんなに落ち込まないで』
『て言ってもなぁ……オレも抱きしめたいぞ』
『それじゃあ、私を抱き締めて。それで今は満足して、また時間を置いて抱っこしてあげてね』
『あ、ああ……!』
男の人は私に手を伸ばすのをやめると、天使の女性を抱き締めた。近いし、間接的に抱きしめられてとても居心地が悪い。でも、不思議と暖かかった。心も、身体も……感じた事のない温もりに包まれ、とても気持ちが良い。
その温もりに包まれながら、私は襲い来る眠気に勝てず、眠りについてしまった。コレはたぶん夢だけど、できればもうちょっとこのままでいたいな……。
夢ではない。そう思い始めたのは、再び目が覚めた時、またあの天使のような女性が目の前にいたからだ。
『あ、起きた。お腹減ってない?おっぱいの時間にしよっか』
「あ、あぅ……」
私を胸に抱いている女性の言葉は、相変わらず分からない。聞いたことのない言語だから、断片的にも分からないので理解しようがない。ついでに私の身体も、小さなままだった。言葉も出せない。身体も不自由だし、混乱するばかりだ。
1つだけ、仮定をたてるとしたら……もしかしたら私は、赤ん坊に生まれ変わってしまったのかもしれない。そんなバカなと思うかもしれないけど、今の状況を客観的に見るとそう考えるのが妥当だと思う。信じられないよね……まぁ仮定の1つだ。まだここが夢の中という線は残っているし、もしかしたらもっと別の何かかもしれない。
でももしここが現実で、私が生まれ変わってここにいるのだとしたら、この女性はもしかして、私のお母さん……?生まれてすぐに母親を亡くした私にとって、母という存在がどのような存在なのか、よく分からない。
「あぅ!?」
興味深げに母親かもしれない女性を観察していたら、女性が自分の胸部の布をめくり、私にその胸を押し付けてきた。な、なにしてるの、この人。私に胸を差し出して……近づけて、どうするつもり?もしかして、痴女なのだろうか。
拒否しようとしたけど、しかし身体は違った。身体はそれを、どうすべきか知っている。ふと気が付くと、私はそれにしゃぶりついていた。
「んん……!?」
そしてその先端から出る液体を吸いだし、胃におさめていく。不思議とその味は美味しくて、蕩けてしまいそう。
ああ、そうだ。赤子に母親がおっぱいをあげるのは、普通の事だ。そしてコレが、この世に生まれたばかりの私にとって、命の糧になる。本能がそれを理解していて、私の身体は勝手に動き出したのだ。
私は本能に従い、夢中で乳にしゃぶりつく。必死に吸い出しながら、たまに舌で転がしたりすると出がよくなる。お腹が減っている私は、その甘美な液体をお腹一杯になるまで堪能して、それから我に返った。
いい年をして、なんて事をしているのだろう。必死におっぱいに吸い付いて、これではまるで赤ちゃんだよ。
『んっ……。もういいの?いっぱい食べたね、偉い偉い』
私がおっぱいに吸い付かなくなると、女性は私から胸を離した。そして優しく頭を撫でてくれる。とても心地よくて、天国にいるような気持ちになる。だけど、このまま流される訳にはいかない。私は自分の置かれている状況を確認するため、必死に周囲を見渡す。首が上手く動かないので、ほとんど目線だけ送って見渡すかっこうとなった。
私がいる建物の中は、木だ。壁も床も天井も、木でできているのでここで木造住宅の中だという事が分かる。私の感覚で言えば、ビンテージな別荘風な作りに見える。家具も基本木で出来ていて、目で見える範囲にはタンスや机にイスがあるけど、よく見れば全体的にビンテージというか……洋風の古臭いデザインの物に見えてしまう。
いや、そうではない。古臭く見えるのは、私の感覚でそう見えてしまうだけだ。実際には家も家具も作られたばかりで、何も古いなどという事はない。この家では、これが普通なのだ。
でもコレが普通とか、あり得るだろうか。この人たちが身に着けている服も妙に時代を感じるし、もしかして貧しい国に生まれてしまったとか……にしては、物が古いわけではない。
まとめて仮説をたてるとしたら、もしかして私、過去にきてしまったとか?だとしたら、益々あり得ない事態である。小説や物語ではよくある話かもしれない。でもそんな事が実際におきるなんて、考えた事もない。やはりコレは、夢だ。
「うあ、うー……あー?」
『ふふ。何?もっと飲みたい?』
「あー……」
とりあえず、この女性から情報を得よう。そう思って話しかけてみたけど、言葉が通じそうにない。というか、その言葉が出ない。ジェスチャーで伝えようにも、どうしたら伝わるの。
女性に私の意図が通じる事はなく、手を掴んで軽く振られ、遊ばれてしまった。
『おお!起きてるじゃないか、シェスティア!よーし、今度こそパパが抱っこしてやるからな!』
「あー!うー、あー!」
そこへ、突然現れた昨日も見た男の人が私に向かって突進してきた。それを見て、私は全身から汗が噴き出して暴れずにはいられなくなる。もう考察している場合ではない。とにかく今は、男に近づきたくない。そのために私は、本物の赤ん坊のようになるのだった。




