4話 孤立無援の逃避行
陽葵に袖を掴まれた蓮の背中が、わずかに強張った。
朝焼けの光が廃寺の境内に差し込み、二人の影を長く引き伸ばす。先ほどまでの激闘が嘘のように静まり返った空気の中で、陽葵の手の温もりだけが、蓮の皮膚を通して深く染み込んできた。
「……手を離せと言っている」
蓮の声は、相変わらず冷たかった。しかし、そこには最初に陽葵を追い詰めた時のような、刃物のような鋭利さはもうなかった。
陽葵は掴んだ袖にさらに力を込め、彼の背中に向かって言葉を叩きつける。
「離さないわよ。あんた、今ここで私を逃がしたとしても、組織に戻ればどうなるか分かってるんでしょ? 同胞を斬って標的を見逃したのよ。『黒鴉』の掟なら、待っているのは切腹か、さもなくば暗殺じゃない!」
蓮は、ゆっくりと陽葵の手を振り払った。そしてようやく、彼女の方を振り返る。
その顔は、いつもの無機質な鉄の仮面を被っているように見えた。だが、わずかに乱れた前髪の隙間から覗く瞳には、隠しきれない苦渋の色が混じっている。
「……私の心配など不要だ。それよりも自分の身を案じろ。一度でも私という『盾』を失えば、お前など一刻(約二時間)も持たずに闇に消える」
「だったら、盾のままでいなさいよ!」
陽葵の叫びが、境内に響き渡った。
彼女自身、自分が何を言っているのか分かっていなかった。敵対する男に、自分を守れと言っている。それは忍びとして、いや、人間としてあまりに身勝手で無謀な願いだ。
けれど、昨夜の雨の中で触れた彼の指先の震えを、陽葵は忘れることができなかった。
「あんたはもう、普通には戻れない。……私も、この巻物がある限り追われ続ける。だったら、一緒に地獄まで行くしかないじゃない」
蓮は、ふっと自嘲気味に口角を上げた。それは陽葵が初めて見る、彼の「感情」の断片だった。
「……地獄、か。忍びには相応しい終着点だな」
その時、上空から一羽の鴉が舞い降りてきた。
黒鴉の連絡用の忍鴉だ。その足には、紅い紐が結ばれている。それは組織における「最高レベルの抹殺指令」を意味していた。
鴉は蓮の肩に止まると、一度だけ短く鳴き、そのまま息絶えた。毒を煽ってまで主人の元へ届ける、文字通りの死の伝令。
蓮は鴉の足から文を取り出し、一瞥して握りつぶした。
「……やはりな。私への処罰が決まったようだ」
「なんて書いてあったの?」
「『九条蓮を反逆者と認定し、即刻、全隠密をもって誅殺せよ』。……お前という道連れのおかげで、私の首には今、天下で最も高い懸賞金がかかったというわけだ」
蓮の言葉に、陽葵は一瞬だけ顔を青ざめさせたが、すぐに不敵な笑みを浮かべて見せた。
「光栄に思いなさいよ。私一人じゃ寂しかったところだわ。……さあ、行くわよ。死神さん」
こうして、二人の奇妙な逃避行が始まった。
もはや「幕府の隠密」でも「望月の再興者」でもない。ただの、組織から捨てられた二人の男女。
蓮は先を歩き、陽葵はその後ろを必死についていく。時折、蓮が立ち止まっては陽葵の足取りを確認し、無言で歩調を緩める。そのたびに陽葵は、「もっと早く歩きなさいよ!」と憎まれ口を叩きながら、胸の奥がくすぐったくなるような、奇妙な感覚を覚えるのだった。
昼近くになり、二人は街道を外れた深い森の中へ入った。
湧き水が流れる岩陰で、蓮が足を止める。
「ここで少し休む。……陽葵、腕の傷を見せろ」
「えっ、あ、う、うん……」
急に真面目な顔で、しかも名前を呼ばれたことで、陽葵は顔を赤らめた。
蓮はそんな彼女の反応を無視して、慣れた手つきで陽葵の腕を取り、包帯を解いていく。毒は抜けているようだが、傷口はまだ生々しい。
蓮は自分の懐から取り出した薬草を口で噛み砕き、それを直接、陽葵の傷口に塗った。
「……ひゃっ、冷たい……!」
「我慢しろ。……お前が死ねば、私の反逆も無駄になる」
蓮の指先が、再び陽葵の肌に触れる。
最初の時よりも、その触れ方はどこか優しく、労わるような重みを持っていた。
陽葵は、黙って自分の腕を処置する蓮の横顔をじっと見つめた。
冷酷だと思っていたその瞳の下には、どんな過去が隠されているのだろう。どうして彼は、自分のような敵を助けるためにすべてを捨てたのだろう。
「……九条、蓮」
「何だ」
「ありがとう。……それだけは、言っておこうと思って」
蓮の手が、一瞬だけ止まった。
彼は顔を上げず、ただ低く呟いた。
「……礼を言われる筋合いはない。私はただ、自分の意志で決めただけだ」
その言葉の裏にある「意志」が何なのか。
それを問い詰める勇気は、今の陽葵にはまだなかった。
二人の間には、まだ言葉にできない感情が霧のように立ち込めている。けれど、その霧の向こう側に、確かに何かが芽生え始めていることを、二人は無自覚に感じ取っていた。
森の奥で、静かに時間が流れる。
だが、安らぎは長くは続かない。
風に乗って、再び「黒い影」の匂いが漂い始めていた。




