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氷の死神と紅の火花~宿敵同士の忍びが、地獄の果てで愛を知るまで~  作者: 御子神 花姫


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2話 不本意な共闘と、触れる指先

竹林を抜けた先、断崖の陰に隠れるように建つ廃寺があった。

 かつては修行僧が集ったであろうその場所も、今は蜘蛛の巣が張り巡らされ、仏像の首は落ち、荒れ果てている。

 外では雨が激しさを増していた。叩きつけるような雨音が、追っ手の足音を消してくれる天然の帳となる。


「……っ、痛っ……!」


 陽葵は寺の縁側に腰を下ろし、思わず声を漏らした。

 追っ手の野良忍びたちは、蓮の圧倒的な剣技によって退けられた。しかし、彼らが放った毒入りの手裏剣が、陽葵の二の腕を深くかすめていたのだ。

 傷口から広がる嫌な熱と、じわじわと意識を蝕む痺れ。陽葵は懸命に頭を振ったが、視界がかすかに揺らいでいる。


「騒ぐな。敵に居場所を教えるつもりか」


 蓮は月明かりの届かない堂の奥で、仁王立ちのまま周囲を警戒していた。その姿は、彫刻のように微動だにしない。返り血を浴びた漆黒の装束が、雨に濡れて鈍い光を放っている。


「……誰のせいでこんな目に遭ってると思ってるのよ。あんたがもっと早くあいつらを片付けてくれれば……」

「お前が弱すぎるだけだ。……毒か」


 蓮が音もなく歩み寄り、陽葵の目の前で膝をついた。

 至近距離で見つめられる。冷徹な美貌が間近に迫り、陽葵は思わず息を呑んだ。


「見せろ」

「……っ、いいわよ、自分でやるわ」

「黙っていろ。死なれては、任務ころしが果たせなくなる」


 蓮は強引に陽葵の腕を掴んだ。

 大きな、節くれ立った男の指。だが、その手つきは驚くほど繊細だった。彼は懐から清潔な布と小瓶を取り出すと、手際よく傷口を洗浄し始める。

 蓮の指先が、陽葵の柔らかな肌に触れる。

 陽葵は全身が粟立つような感覚に襲われた。敵であり、殺し合うはずの相手。その男の体温が、傷口の痛みよりも鮮明に意識を支配していく。


「……あんた、どうして」

「何だ」

「どうして、助けたのよ。あそこで私を見捨てて、巻物だけ奪えばよかったじゃない。あんたなら、それが一番効率的だって判断するはずでしょ?」


 蓮の指が、一瞬だけ止まった。

 彼は答えず、ただ黙々と布を巻き直す。

 実際、陽葵の言う通りだった。効率を重んじる「黒鴉」の流儀であれば、負傷した標的など放置して目的物のみを回収するのが正解だ。

 だが、蓮の身体は、彼女が危機に陥った瞬間に、思考よりも先に動いていた。


(……わからない)


 蓮は心の中で自嘲した。

 ただ、この女が他の誰かの手によって、ゴミのように処理されることが――我慢ならなかったのだ。

「……私の獲物を、他人に横取りされるのは不愉快なだけだ」

 絞り出すような答え。それは、彼が自分自身を納得させるための嘘でもあった。


「ふーん。相変わらず、可愛くない理屈ね」


 陽葵は少しだけ唇を尖らせた。だが、ふと、蓮の脇腹に目が留まる。漆黒の装束が、不自然に重く湿っている。


「……あんた、それ。さっきの連中との戦いで……」

「かすり傷だ。気にするな」

「嘘おっしゃい! 結構深いじゃない!」


 陽葵は蓮の制止を振り切り、彼の装束を無理やり捲り上げた。

 そこには、鋭い刃物で横一文字に切り裂かれた傷跡があった。自分を抱えて跳躍した際、無防備になった脇腹を突かれたのだ。


「……貸しなさい。今度は私の番よ」

「不要だと言ったはずだ」

「うるさい! 『望月』の女は、借りを踏み倒して逃げるほど落ちぶれてないの!」


 陽葵は、自分の装束の裾を迷いなく引きちぎり、蓮の傷口に押し当てた。

 蓮の喉が、微かに鳴る。

 女の指先が、自分の肌に触れている。冷え切った彼の人生において、他人の体温を感じることなど、殺し合いの最中以外になかった。

 だが、この温もりは、殺意とは程遠い。


「……くっ」

「痛い? 我慢なさい。冷酷非情な死神様でも、痛みくらいは感じるのね」


 陽葵が顔を覗き込む。その顔があまりに近いことに、蓮は改めて気づいた。

 大きな瞳に、自分を案じる色が混ざっている。自分を殺そうとする敵に、なぜ、こんな眼差しを向けられるのか。蓮の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ始めていた。


「……九条、蓮」


 包帯を巻き終えた陽葵が、ふと静かな声で彼の名を呼んだ。


「何だ」

「あんた、本当は……笑ったり、泣いたりすること、あるの?」


 蓮は無言で、彼女を見つめ返した。その瞳は、やはり氷のように冷たい。だが、陽葵には見えた。氷の奥底で、小さな火が灯っているような、そんな揺らぎが。


「忍びに心はない。あるのは、命令と遂行のみだ」

「……つまんない男」


 陽葵はふいっと顔を背け、膝を抱えた。

 雨音の響く廃寺。二人きりの静寂が、外の世界の喧騒を遮断する。


「……一つ、教えてやる」


 沈黙を破ったのは、蓮だった。


「お前のその巻物。中身は、今の望月では扱いきれぬ劇薬だ。幕府がそれを狙うのは、平和のためではなく、戦を始めるためだ」

「……えっ?」

「今、それを渡せば、お前だけは逃がしてやれる。組織には『仕損じた』と報告しよう」



 それは、冷酷な蓮が示した、最大限の――そして初めての「情け」だった。

 だが、陽葵は悲しげに首を振った。


「ダメよ。これを渡したら、死んでいった仲間たちに顔向けできない。……あんたに、私の命を預けることはできても、誇りを渡すことはできないわ」

「命を、預ける……だと?」


 蓮の目が見開かれた。殺し合う相手に、命を預ける。その言葉の矛盾に、彼の理性が激しく揺さぶられる。


「そうよ。……どうせ殺されるなら、あんたの手がいい。他の誰でもない、あんたにね」


 陽葵は微笑んだ。死を覚悟した忍びの、美しくも残酷な笑顔。

 蓮はその瞬間、確信してしまった。自分は、この女を殺すことができない。それどころか、彼女を失うことを、何よりも恐れ始めているのだと。


「……勝手にしろ。だが、明日の朝までは、私の目が届く範囲にいろ」


 蓮は再び堂の奥へと身を引いた。

 冷たい雨の音に紛れて、二人の心臓の音だけが、不器用に重なり合っていた。

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