続・LHR
音恋は朝から機嫌が悪い。
道端の電柱に八つ当たりで回し蹴りを入れるくらいに、だ。
通学路途中に、間抜けな通知音とともに自分のスマホ画面に現れた『ごめん。寝坊したww』という幼馴染からのメッセージ。
高校入学当日、独りぼっちでの登校が確定した音恋は叫ばずにはいられなかった。
「高校初日に寝坊って、にこぉ、あり得へんぞ!」
そんな音恋を見て、ぎょっとするサラリーマンのおじさん。
荒れる音恋の元に『登校時間には間に合うにゃん♪許してにゃん♡』と、柔心からのメッセージ。
もう一度、マリアナ海溝よりも深い溜息をついて、音恋は幽鬼のように力なく歩き出した。
張り出されたクラス表にあった『1年D組 豊雛音恋と衣通柔心』の名前。
音恋は幼馴染の名前をきつく睨んでから、唾を吐いたら怒られるだろうか、と思いながら教室を探した。
「ここかぁ……」と憂鬱な声を吐き出した音恋は、陰と陽の境界に手をかけた。
教室から聞こえてくる楽しげな笑い声。
(勇気を出して明るくおはようって言うだけ……)
深呼吸を一つ。音恋が囁くように「おはよう」と言って、扉を開けた。
だけど、その音は小さな挨拶と一緒にクラスメイトの囀りにかき消され、泡のように弾けて消えた。
こうしてかろうじて燃えていた小さな勇気の灯火は、無常にも消え去り、薄汚れた煤だけが残った。
挫けた音恋は黒板を見て席を確認して、黙って席についた。聞こえてくる耳障りなほど陽気な声。青春を奏でる囀り。
「私だって……ホントは、ぼっちなんかじゃねぇし……」
誰にも聞こえない負け惜しみ。初めてのクラス。知らない顔ぶれ。
音恋は湧き上がる不安と心細さから自分を守るように身体を小さく丸めた。
(早く来い、にこのぶわぁか……)
頬杖をついて、アオハルな雑音に鼻を鳴らした。
少し離れた窓の外。
腹が立つくらいに眩しく、蒼く澄み渡っていた。
「がお……」
そんな春の青空にほんのちょっとだけ噛み付いてやった。
◇◇◇
すると────
「おはようー!」
教室いっぱいに響き渡る歌うように軽やかな声。続いて聞こえてきたのは、包み込むように優しげな声。
そちらへやさぐれた視線を向けると、ちょうど教室にふたりの女の子が入ってくるところだった。
自信満々に存在を主張するように広がるミルクティー色の髪。
耳を埋め尽くす幾つものピアス。
その隣で、静かに揺れるふわふわな黒髪の子。
(出たな……陽の者共めぇ!)
完全に陰の者と化した音恋は、勝手に結真と兎萌に敵愾心を燃やし始めていた。
アイドルのようにきらきらと星を振り撒く、ふたりの姿をみんなが見ている。
音恋の視線は吸い寄せられるように結真と兎萌の胸元へと固定された。
シャツを内側から力強く押し上げる、圧倒的なまでの『豊かな実り』。
「私だって、Cはあるし!小さくないし!」
無意識に自分のお椀型の膨らみと見比べてしまい───音恋は本気で死にたくなった。
「……嘘でしょ……あんなの育ちすぎでしょ」
凄まじい敗北感。思考を放棄し、現実逃避気味に音恋は机に突っ伏して首だけを少し動かして、外を見る。
音恋の心は完全に土砂降りだったが、やっぱり春の空は酷く残酷なくらい青かった。
「やってらんねぇ〜」
「ねぇ、何がやってらんないの?」
音恋の顔を覗き込むと、柔心は無邪気に笑った。
約束を破ったことを悪びれる様子もない柔心に、呆れて言葉が出てこない。
「……」
誰のせいで、こんなに気分が落ち込んでいると思っているのか。
幼馴染の顔を見た途端。音恋のフラストレーションは限界を超えた。
気がつくと柔心の顔面に、音恋は無言でデコピンをお見舞いしていた。
「いたッ!ちょッ、いたいよ!にゃあ!」
会うなり、いきなりの衝撃に額をさすり、困惑する柔心。
何故、音恋が怒っているのか全然わかっていない風なのが、さらにムカつく。
「こっちはッ!にこのッ!せいでッ!ぼっちだったんじゃい!」
追撃とばかりに、ポカポカと音恋の連続チョップが炸裂する。
「ちょッ、ちょッ、まッ、ごめんてぇ〜。許してにゃん♡」
「うがー、うちがどんな気持ちで───」
「───ごめんね」
温かい。柔心の滑らかな手が、頭に乗る。
ふざけた空気はどこかに飛び去って、急に真剣な声色に変わるから、音恋はついドキリとしてしまった。
「そうやって、いつも……」
「誤魔化されないんだから……」
音恋は顔を赤くして、「がお」と小さく吠えた。
「あはは、出たな。にゃあの癖」
幼馴染のささやかな抵抗に、破顔する柔心。
癪だけど、荒んだ心が安らぎを取り戻していく。マッチポンプ。
こいつといると、どうにも調子が狂う。
水面を渡る風のように捉えどころがない。
いつも柔心は誰彼構わずお構いなしに自分のペースに巻き込んでしまう。
「今日は許す……。駅前のカフェ、奢りね」
「あ・り・が・と!でも、こないだジェラピケのモコモコのやつ買っちったからぁ……か・ね・が・ねぇ」
「あっ、やっぱ許すの止めた。もう口きかなーい」
「ねぇ〜、にゃあ様ー!怒んないでぇ〜」
「ふん!」
こうして、ふたりのじゃれ合いは担任の豊島先生がやってくるまで続いた。
◇◇◇
順番が近づいてくると、急に緊張で身体が強ばる。
自分のことで精一杯で、他の人の自己紹介を気にしてる余裕は、音恋にはない。
(にこの苗字は『そ』からだから、わたしまでいち、にぃ、さん────)
あと四人。
そうやって現実を噛み締める音恋の瞳に、ふと映るふたつ前の席に座る兎萌の姿。
自分に敗北感を植え付けた女の子。
(いや、負けてねぇし)
柔心と戯れてガス抜きした。
さっきまで渦巻いていたネガティブな感情はもうない。
今あるのは、羨望と純粋な興味。
そうやって兎萌を眺めていると、スッと姿勢よく立ち上がった。
「はじめまして。えっと、財田兎萌です!───」
小さい身体で一生懸命声を張り、自分の声を届けようと必死な兎萌の姿が愛らしい。
頑張れぇ、とクラス内は応援ムードに包まれていき、兎萌はくすぐったそうに目を細めていた。
兎萌が人気な理由が音恋にも伝わってくる。
(これが『萌え』か)
「どうも、どうも。自己紹介の続きをしますね。好きなことは、読書とカフェ巡り、お料理と、あと、お菓子作りも!みんなと仲良くできたら嬉しいです!」
自己紹介をしめくくった兎萌は、「えへへ」と照れ笑いを浮かべ、椅子に座り直した。
その背中はどこかぎこちない。
音恋までムズムズしてきたのは内緒だ。
◇◇◇
実に兎萌らしい自己紹介だ。甘くとろけるキャラメルのような魅力をこれでもかと振り撒いていた。
兎萌は恥ずかしがって、あまり詳しくは教えてくれないが、中学時代には月イチくらいで告白されていたと記憶している。
それを聞かされたときの雷に撃たれたような衝撃はいまだに忘れられない。
(やべっ、思い出したらちょっと涎出た……)
視線を気にしながら口許を素早く拭った。
結真も告白された経験はあるが、兎萌の数には及ばない。
兎萌には人に好かれる才能があるのだろう。
でも、そのモテ具合はちょっと心配になることがある。
兎萌はどちらかというと異性のことが苦手だし、恋愛に積極的でもない。
自分に向けられる異性からの視線に、いつも辟易していた。
男子人気を快く思わない女子たちからの陰口にもだ。
自分も晴信たちと話してるだけで、ビッチ扱いされることあるわ、と結真は遠い目で天井を見つめる。
人気があるということは、敵も生まれやすい。
天井の染みを数えて遊んでいる間に、何人かの自己紹介が過ぎ去っていった。
「やばッ」と小さく呟いて、結真はクラスメイトたちに意識を戻した。
それは、ちょうど音恋が弾かれるように立ち上がった瞬間だった。
「あっ、えー」
汗で湿った手を開いたり、閉じたりしながら考える。
何か言わなければ。
音恋の頭の中で浮かんでは消えていく言葉たち。
「あっ、豊雛音恋っていいます。高校からの入学なんで、知り合いもあんまいなくて、今めっちゃ緊張してて……」
そこで音恋は黙り込んだ。
しかし、それを責める人は誰一人いない。
ただ静かに見守るだけ。
「豊雛さん、ガンバレー。ゆっくりで大丈夫だよ」
きっと周りの子を応援する柔心の姿を眺めていたからだろう。
結真の口からは自然と、励ましの言葉がこぼれていた。
結真自身が一番びっくりしている。
でも、向こうも同じくらい目を真ん丸にしている。なんでだろう。
「あっありがとう。うちはずっとダンスしてて、高校でもダンス部に入ろうと思ってます。身体を動かすのが好きです……よろしく……」
最後は少ししりすぼみになりながらも音恋はやり遂げ、席に座ると急いで結真に頭を下げた。
「ありがとう」と「ごめんね」の気持ちを込めて。
朝、あんなに結真のことを目の敵にしてた自分が恥ずかしい。
今の自分と同じように、顔を赤くしながら結真が手を振ってくれた。
◇◇◇
柄にもないことをしてしまった。
パタパタと手で顔を扇ぎながら、結真はそう思っていた。
親友たちがチラチラとこちらを盗み見て、ニヤニヤしている。
さらに、柔心と豊島先生まで。
(璃羅たちには、きっと揶揄われそうだなぁ。そん時は、まず晴信には腹パンだな)
結真はそう決意を固めた。
豊雛、波野、南郷ときて、次は璃羅の番。結真の順番も近づいてきている。
「二本松璃羅です。陸上をやってます。好きなことは……ランニング。ハイキング。アウトドアに興味があるかなー。漫画の影響で。気軽にりらって名前で呼んでください。よろしく」
「二本松さん、アクティブなんだぁ」と女の子たちは好意的に受け取っていたが、璃羅がアウトドアを好きになったのは、春休みのことだ。
休みの間に、八王子の高尾山や千葉の鋸山をひとりで登ったり、お父さんを引っ張り出して、キャンプをしてきたらしい。
漫画に影響されたからって、本格的な趣味にするまでが早すぎる。
こないだは『今度、一緒に筑波山に登るから準備しといて』と璃羅からメッセージが来て、運動が苦手な兎萌は獅子に睨まれた兎みたいに戦々恐々としていた。
璃羅はアクティブオバケだ。
外に出るのが好き、計画するのはもっと好き。
そのうち「富士山に登ろう」とか言い出しかねない。
富士山には付き合えても、「エベレストには付き合えない」と、そのうち伝えなければならない日がくるかもしれない。
そう考えると、うららかな陽気に似つかわしくない寒気が結真を襲う。
「───さん、妙見さん」
後ろの席の子が結真の肩を叩いた。
「あっ、はい」
「妙見さんの番だよ」
周りを見渡せば、クラス中の視線が結真に集まっている。
椅子を鳴らして立ち上がった結真は頬をかいた。
「いやぁ、ぼーっとしてて。みんなも熱い視線をありがとう───」
気まずさを何とか誤魔化すために、ちょっとふざけてみたが、先生は笑っていない。
みんなは笑ってくれたのにと、引き攣る口角を無理やり上げ、笑顔を作る。
それまで黙っていた先生は、「妙見さん、寝てた?」なんて、言い出して首を傾げていた。
「寝てませんてぇ。みんなの名前とか覚えてるのに必死で、つい……」
「ほとんど中等部からの付き合いでしょ。物忘れするには若すぎない?春休みボケ?」
表情一つ変えずに理路整然と論破してくる。
言い訳も通じず、結真は盛大に肩を落とした。
「ちょっとからかいすぎちゃった」
先生が目尻を下げて微笑むと、つられた生徒たちからも笑い声が上がる。次第にクラス内が笑いの渦に包まれていく。
皆に知ってもらうという意味ではもう十分目立ったが、結真は「改めてまして」と自己紹介を再開した。
「中学からの人は春休みぶり、高校からの人は初めまして。妙見結真といいます。趣味はカフェ巡りとアクセサリー集めです。よろしくお願いしまーす。あと、居眠りは趣味ではないでーす」
そう締めくくると、もう一度笑いの波が起きる。
結真は頬を掻きながら、そっと腰を下ろした。
先生に弄られるのは予想外だった。
日が頂点に近づく頃、雲一つない晴天の陽気。
1年D組の教室は、少し暑いくらいだった。




