入学式とエトセトラ②
音恋は朝から機嫌が悪い。
道端の電柱に回し蹴りを入れてしまうくらい。
通学途中に鳴るどこか間の抜けた通知音。
スマホ画面に表示された、『寝坊したww』と書かれた幼馴染からのふざけたメッセージ。
高校入学初日、独りぼっちでの登校が確定した。
「高校初日から寝坊て、あり得へんやろ!」
音恋の叫びに、ぎょっとする通勤中のサラリーマン。
荒れる音恋の元にさらに、メッセージが届いた。
『登校時間には間に合うにゃん♪』
『許してにゃん♡』
『怒』
スマホを投げそうになるのをかろうじて踏みとどまり、マリアナ海溝よりも深い深い溜息をついた。
「あいつ……。あとで絶対シバく」
幽鬼のように歩き出す音恋。
学校へと続く緩い坂を力なく上っていく。
「何が悲しくて、独り寂しく登校しなきゃいけないのよ……」
正門を抜けると、乗降口の横は人だかり。
張り出されたクラス表にあった『1年D組 豊雛音恋と衣通柔心』の名前。
音恋は幼馴染の名前をきつく睨んでから、唾を吐いたら怒られるだろうか、と思いながら教室を探した。
教室から聞こえてくる楽しげな笑い声。
「ここかぁ……」と、憂鬱な声を吐き出した音恋。
恐る恐る陰と陽の境界に手をかけた。
(勇気を出して明るくおはようって言うだけ……。おはようって言うだけ……)
深呼吸を一つし、扉を開ける
自分でも驚くほどか細い「おはよう」の声。
小さな挨拶はクラスメイトの囀りにかき消され、泡のように弾けて消えていく。
こうしてかろうじて燃えていた小さな勇気の灯火は、無常にも消え去り、薄汚れた煤だけが残ってしまった。
心挫けた音恋は席を確認して、黙って席についた。
聞こえてくる耳障りなほど陽気な声。
青春を奏でる囀り。
青春アンチになってしまいそうだった。
「私だって……ホントは、ぼっちなんかじゃねぇし……」
誰にも聞こえない負け惜しみ。
初めてのクラス。
そして見知らぬ顔ぶれ。
湧き上がる不安と心細さから自分を守るように身体を小さくする。
(早よ来い、ニコのぶわぁか……)
精一杯の虚勢でアオハルな雑音に鼻を鳴らした。
少し離れた窓の外。
腹が立つくらいに眩しく、澄み渡る蒼。
「がお……」
そんな春の青空にほんのちょっとだけ噛み付いてやった。
◇◇◇
すると────
「おはようー!」
教室いっぱいに響き渡る歌うように軽やかな声。
続いて聞こえてきたのは、包み込むように優しげな声音。
やさぐれた視線を向けると、ちょうど教室にふたりの女子が入ってくるところだった。
自信満々に存在を主張するミルクティー色の髪。
耳を埋め尽くす幾つものピアス。
その隣で、静かに揺れるゆるふわな黒髪。
(出たな……陽の者共めぇ!)
最早自分のキャラさえ忘れ、完全に陰の者と化した音恋は、勝手に結真と兎萌に敵愾心を燃やし始めていた。
アイドルのようにきらきらと星を振り撒くふたりの姿。
視線がふたりの胸元へと吸い寄せられていく。
シャツを内側から押し上げる、圧倒的なまでの『豊かな実り』。
「私だって、Cはあるし!小さくないし!」
無意識に自分のお椀型の膨らみと見比べてしまい───音恋は本気で死にたくなった。
「……あんなん反則!チート!バグ!」
凄まじい敗北感。
音恋は考えるのをやめた。
机に突っ伏し、外に目をやる。
土砂降りの心とは裏腹に、やはり春の空は酷く残酷なまでに青い。
「やってらんねぇ〜」
「ねぇ、何がやってらんないの?」
萎えた顔を覗き込み、無邪気に笑う柔心。
「……」
約束を破ったことを悪びれる様子もない柔心に、呆れて言葉が出てこない。
「だから何がやってらんないの?」
誰のせいで、こんなに落ち込んでいると思っているのか。
幼馴染の顔を見た途端、音恋のフラストレーションは限界を超えた。
気がつくと柔心の顔面に、無言でデコピンをお見舞いしていた。
「いたッ!ちょッ、いたいよ!にゃあ!」
いきなりの衝撃に額をさすり、困惑する柔心。
何故、怒っているのか全然わかっていない風なのが、さらにムカつく。
「あんた、うちがどんなに心細かったかわかってる?」
「あっ、寝坊のこと怒ってる?だって、眠かったんだもん♪ごめんてぇ〜。許してにゃん♡」
「うがー!ふざけんな!」
ついに癇癪を起こした音恋。
我慢の限界を迎え、連続チョップが炸裂する。
「こっちはッ!ニコのッ!せいでッ!ぼっちだったんじゃい!」
「ちょッ、ちょッ、まッ……」
「うちがッ、どんな気持ちで!いたとッ、思ってん!」
柔心が表情を引き締めると、ふざけた空気感が霧散していく。
「────ごめんね」と、緩く振り下ろされた何度目かの手刀を掴み、力を入れずに握りしめた。
「そうやって、いつも……誤魔化されないんだから……」
そう悪態をつきつつも、滑らかな柔心の手を振り払うことができなかった。
音恋は目を逸らし、「がお」と小さく吠える。
「出たな。にゃあの癖」
幼馴染のささやかな抵抗に、無邪気に笑う柔心。
癪だけど、荒んだ心が本来の有り様を取り戻していくようだった。マッチポンプ。
柔心といると調子が狂う。
水面を渡る風のように捉えどころがない。
誰彼構わず、お構いなしに自分のペースに巻き込んでしまう。
「今日は許す……。駅前のカフェ、奢りな」
「あ・り・が・と!でも、こないだジェラピケのモコモコのやつ買っちったからぁ……か・ね・が・ねぇ」
「あっ、やっぱ許すの止めました。もう口きかなーい」
「ねぇ〜、にゃあ様ー!怒んないでぇ〜」
「ふん!」
こうして、ふたりのじゃれ合いは担任の豊島先生が登場するまで続いた。
◇◇◇
自分の順番が近づいてくると、急に緊張で身体が強ばってくる。
自分のことで精一杯で、他の人の自己紹介を気にしてる余裕はない。
(にこの苗字は衣通だから、わたしまでいち、にぃ、さん────)
あと四人。
ふと目に映るふたつ前の席に座る女子の姿。
敗北感を植え付けた片割れ。
(いや、負けてねぇし)
ガス抜きをしたため、ネガティブな感情はもう薄れていた。そして羨望と純粋な興味だけが強く残る。
そうやって眺めていると、スッと姿勢よく彼女が立ち上がった。
「はじめまして。えっと、財田兎萌です────」
小さい身体で一生懸命声を張り、自分の声を届けようと必死な兎萌。
クラス内は応援ムードに包まれる。
声援を受け、くすぐったそうに目を細めていた。
「────ありがとう。えー、好きなことは読書とカフェ巡り、お料理。あと、お菓子作りも!みんなと仲良くできたら嬉しいです!」
「えへへ」と照れ笑いを浮かべ、兎萌は椅子に座り直した。
そのどこかぎこちない背中に当てられて音恋までムズムズしてきたのは内緒だ。
◇◇◇
甘くとろけるキャラメルのような魅力をこれでもかと振り撒く兎萌の自己紹介。
本人は恥ずかしがって、あまり詳しくは教えてくれないが、中学時代には月イチくらいで告白を受けていた。
それを聞かされたときの衝撃は、いまだに忘れられない。
告白された経験はあるが、兎萌の数には及ばない。
(やべっ、思い出したらちょっと涎出た……)
視線を気にしながら口許を素早く拭った。
一方で、モテ具合が少し心配だ。
彼女は異性からの視線にいつも辟易してる。
男子人気を快く思わない女子の陰口にもだ。
自分も晴信たちと話してるだけでビッチ扱いされることあるわ、と結真は遠い目で黒板を見つめる。
考えごとをしていたら何人かの自己紹介がすでに終わっていた。
「やばッ」と小さく呟いて、結真はクラスメイトたちに意識を戻す。
それは、ちょうど音恋が弾かれるように立ち上る瞬間と同じタイミングだった。
「あっ、えー」
何か言わなければと、汗で湿った手を開いたり、閉じたりしながら頭をフル回転させる。
浮かんでは消えていく言葉の数々。
「────あっ、豊雛音恋っていいます……」
そこでまた音恋は黙り込んだ。
それを責める人は誰一人いない。ただ静かに見守るだけ。
だがその沈黙が逆に辛い。
「えっと……」
「豊雛さん、ガンバレー。ゆっくりで大丈夫だよ」
口から自然とこぼれた励ましの言葉。
それが出てきたことに結真自身が一番驚いてた。
「……あっ、急にごめんなさい。どうぞ、続けてください」
「あっ、ありがとう。高校からの入学なんで、知り合いもあんまいなくて、今めっちゃ緊張してて……」
「うち、ずっとダンスしてて、高校でもダンス部に入ろうと思ってます。身体を動かすのが好きです……よろしく……」
最後は少ししりすぼみになりながらも音恋はやり遂げ、席に座ると急いで結真に頭を下げた。
「ありがとう」と「ごめんね」の気持ちを込めて。
朝、あんなに結真のことを目の敵にしてた自分が恥ずかしい。
今の自分と同じように、顔を赤くしながら結真が手を振ってくれた。
◇◇◇
柄にもないことをしてしまった。
パタパタと手で自分の顔を扇ぐ。
仲のいいメンツがチラチラとこちらを盗み見て、ニヤニヤしていた。
さらに、柔心と豊島先生までも。
(きっと揶揄われる。そん時は、まず晴信に腹パンだな)
結真はそう決意を固める。
豊雛、波野、南郷ときて、次は璃羅の番。
結真の順番も近づいてきている。
「二本松璃羅です。陸上をやってます。好きなことは……ランニング。ハイキング。アウトドアに興味があるかなー。漫画の影響で。気軽にりらって名前で呼んでください。よろしく」
「二本松さん、アクティブなんだぁ」と女の子たちは好意的に受け取っていたが、璃羅がアウトドアに目覚めたのは、春休みのこと。
休みの間に、八王子の高尾山や千葉の鋸山をひとりで登ったり、お父さんを引っ張り出して、キャンプをしてきたらしい。
漫画に影響されたからって、本格的な趣味にするまでが早すぎる。
こないだは、『今度、一緒に筑波山に登るから準備しといて』と璃羅からメッセージが来て、運動が苦手な兎萌は獅子に睨まれた兎みたいに戦々恐々としていたのを思い出す。
外に出るのが好き、計画するのはもっと好き。そんなアクティブモンスターだ。
そのうち「富士山に登ろう」とか言い出しかねない。
富士山には付き合えても、「エベレストには付き合えない」と、伝えないといけない日がくるかもしれない。
うららかな陽気に似つかわしくない寒気が結真を襲う。
「───さん、妙見さん」
後ろの席の子が結真の肩を叩いた。
「あっ、はい」
「次、妙見さんの番」
周りを見渡せば、クラス中の視線が結真に集まっている。
「いやぁ、ぼーっとしてて。みんなも熱い視線をありがとう───」
気まずさを何とか誤魔化すために、ちょっとふざけてみたが、先生の目は笑っていない。
みんなは笑ってくれたのにと、引き攣る口角を無理やり上げ、笑顔を作る。
それまで黙っていた先生は、「妙見、寝てた?」なんて、言い出して首を傾げていた。
「寝てませんてぇ。みんなの名前とか覚えてるのに必死で、つい……」
「ほとんど中等部からの付き合いでしょ。物忘れするには若すぎない?春休みボケ?」
表情一つ変えずに理路整然と論破してくる。
言い訳も通じず、結真は盛大に肩を落とした。
「ちょっとからかいすぎちゃった」
先生が目尻を下げて微笑むと、つられた生徒たちからも笑いが込み上げる。
皆に知ってもらうという意味ではもう十分なきがしたが結真は、「改めてまして」と、自己紹介を再開した。
「中学からの人は春休みぶり、高校からの人は初めまして。妙見結真といいます。趣味はカフェ巡りとアクセサリー集めです。よろしくお願いしまーす。あ、あと居眠りは趣味でありません」
そう締めくくると、もう一度笑いの波が起きる。
結真は頬を掻きながら、そっと腰を下ろした。
日が頂点に近づく頃、雲一つない晴天の陽気。
1年D組の教室は、少し暑いくらいだった。




