湯上がりの熱が冷めるまで
淡いブルーの湯船に身体を預け、結真は天井を眺める。
上から降る電球色の灯り。
姫翠が先に上がってしまったせいでお風呂は妙に静かだった。
ひとり取り残され、あんなに狂ったように騒がしかった心臓も今は落ち着いている。一定のリズムを刻みながら大人しくしていた。
「冷たっ」
上から滴った雫が顔に当たり、悲鳴を上げた。
お風呂ではしゃいだ罰かもしれない。
さっきよりも広く感じるバスタブにさらに深く身を沈め、深呼吸。
「はぁ、独りで寂しかったから来たのにさぁ。ゆまちゃんを独りにすんなよ。ひーちゃんのバカ……」
今、どんな顔を浮かべているのか自分自身にもよくわからない。
備え付けの鏡も湯気に覆われ、くもっていた。
「ふぁあ、このお風呂。めっちゃ足伸ばせる」
◇◇◇
逃げるように部屋に戻ってきたバスタオル姿の姫翠は、乾ききらない髪のままベッドに倒れ込んだ。
調子に乗って長湯したせいで頭がクラクラする。
お風呂から立ち去る自分の背中に向け、かけられた結真の声色が恐ろしく事務的に聞こえてならなかった。
結真はまだお風呂から戻ってこない。
頭を抱え、つい悪い想像をしてしまう。
「怒らせた?やりすぎた?」
百面相している姿を親に見られたら、何を言われるか。今日ほど部屋を防音仕様にしておいて良かったと感じる日はない。
「この部屋なら何かしてもバレない───」
浮かんでくるのは、結真の柔らかい感触やボディソープのいい匂いばかり。
「───ぁぁあああ!!」
思ってる以上に自分は変態だったらしい。顔から火が出そうだ。
絶叫を繰り返し、ベッドの上を転げ回る。
「誰か殺して……」
羞恥心で死にたくなっていると、ガチャリと開く部屋のドア。
声にならない悲鳴を上げ、飛び上がった姫翠はベッドの上に正座して折り目正しく三つ指をついた。
「ドライヤー貸してほしいんだけど……。何してるの……」
「ゆっゆっ結真さん!?」
「何で敬語なの?」
髪を拭きながら部屋に戻ってきた結真の怪訝な顔。冷ややかな視線がメンタルにクリーンヒットする。
「うっ……なんでもないって!ドライヤーね!ドライヤー、どこに置いたっけ」
キョロキョロと周りを見回すとドライヤーは猫脚の白い化粧台の上にあった。
変に意識しているせいで、何もかもがぎこちない。ゼンマイの切れかけた人形のように動きがカクつく。
「はっはい。これ」と言って、姫翠はバタバタとさっきまで使っていたドライヤーを結真に手渡した。
その衝撃でリップや香水といった小物が床に散らばってしまう。
「あぁ、あっ。やばっ」
「やっぱひーちゃん、なんか変だよ。動きがおかしいもん」
「だからそんなことないってー」
「もしかして……」
「……もしかして?」
「私の身体をオカズに慰めてた?」
「なっ……」と小さく唸り、姫翠は動かなくなった。
一体どうしたというのか。恐る恐る顔を覗き込むと、何やら凄まじい葛藤を滲ませている。
心配になった結真は、小刻みに震える彼女の背にそっと手を添えた。温もりを伝えるようにしてゆっくりさすってやる。
「大丈夫?」
「……」
「ひーちゃん?」
「……してない」
「えっ?」
「オカズなんかにしてない!」
犬歯を剥き出しにして吠える姫翠と唖然として固まる結真。
「えっ、そこ?ただの冗談だって。やだなぁ」
「でも、私はそんなことしない!結真とは清い関係でいたいの!!」
「……私のおっぱい、嬉しそうに弄んでたくせに」
「うっ……」
「柔らかかった?」
「はい……」
「気持ちよかった?」
「大変とても……」
「やっぱり、エッチじゃん。ひーちゃん、髪の毛乾かしてよ」
姫翠が戸惑っていると、「いいから、は・や・く!」と言って、ドライヤーを押し付けてくる結真。
「わかりました……」
大人しくドライヤーを受け取り、結真をソファーに座らせると、しっとりと水気を含んだミルクティー色の髪を片手で掬い上げる。
毛束が多く、染めているのにダメージが少ない。
しかしボリュームがある分、乾かすのは大変そうだ。
ドライヤーをONにし、上から下に流れに沿って丁寧に、丁寧に風を当てていく。
「ねぇ私に髪を触られるの嫌じゃないの?」
「なんで?」
「いやー、だって……さっきのこと」
「嫌じゃない。ひーちゃんにしてもらいたかったの!」
「でも……」
「でも、じゃない!手を動かしなさい」
風が当たるたびに靡く髪。
口元をへの字にして前を睨む結真。
反対に姫翠はへにゃりと顔を緩ませた。
「結真の髪ってふわふわだよね。ゴールデンの仔犬の毛並みたい」
「それって獣臭いってこと?」
「なんで!?ほめてるのに」
今度はゆっくりと温風を当てる。
不意に広がるお揃いのシャンプーの香り。
匂いに刺激され、紐づけられたお風呂での記憶が蘇る。
「あっ、えっと。なっ、なんか観たい映画ある?」
結真にたずねると、少し考えたあとに、「アクション」と答えが返ってきた。
「アクションね。じゃ、じゃあ面白いの探そうね」
「うん」と、足をブラブラさせて頷く結真。こういう仕草が妹のようで本当にかわいい。
姫翠はメロメロになりながら髪を乾かし続ける。自分の髪はまだ湿ったままなのに。
「よし終わり」
「ありがと」
このあと姫翠の生乾きの髪を見た結真はため息をつき、ドライヤーを手にする。
ふたりの夜がだんだんと更けていく。
◇◇◇
テーブルに置かれたお菓子の山。
部屋の電気を消し、お菓子をつまんで映画を観る。
スクリーンの向こうのマッチョが銃をものともせず拳一つで敵を殴り倒している。 またひとり黒服が壁に叩きつけられ、意識を失った。
重機のように突き進むマッチョと華麗な体術を駆使する相棒。フィジカルとテクニックの合わせ技で敵のアジトはてんてこ舞い。
またひとり敵が絞め落とされた。
ふと隣を見ると、こちらも落ちそうになっているではないか。
「結真、眠いの?」
「う〜……」
「ベッド行こうか」
「うぅ」
鑑賞会はそろそろお開きらしい。
リモコンの停止ボタンを押すと半分、夢の中にいる結真を立たせ、手を引いてベッドへ。
「ひーちゃん、ぎゅってして……」
「うん、プロジェクター消してくるからちょっと待っててね」
「うー……」
寝ぼけ眼で甘えてくるこのかわいい生き物はなんなのだ。姫翠は目尻を下げて頭を撫でたあと、プロジェクターの電源と部屋の電気を切る。
灯りは小さな常夜灯のみで、急に暗く静かになった姫翠の部屋。
自分の寝場所に違う誰かが寝ているというのは何とも不思議な光景だ。
今日は色々あった。ベッドはセミダブルサイズだからふたりでも横になれるが、密着した状態で寝られるか心配だった。
床で寝たら結真は怒るだろう。なんとなくだがそんな気がする。
いつまでも寝姿を見下ろしているわけにもいかないので、そっと横にお邪魔し、すやすや寝息を立てる結真をそっと包み込んだ。
漂ってくる香りは自分と同じようで少し違う。ほのかに甘く、危険だ。
砂糖菓子のように頬張りたくなってしまう。
「あぁ。私、結真のせいでおかしくなっちゃった」
洩れ出た言葉の意味は自分でもよく分からない。
抱えている思いも。
ただ、この感情に名前をつけるのはもっと先でいい。
やがて、抱き合いながら姫翠も夢の国に旅立っていく。今はこれでいいと心の底から思えた。




