船出
朱音が祖父母の部屋へ駆け込んだ時には、布団の上でわかは小刻みに痙攣していた。VR眼鏡は外され、畳の上に転がっている。父が傍らで、ステルスフォンで救急車を頼んでいた。
父は、隣の部屋で一人淋しくVR眼鏡のマニュアルを読んでいたらしい。そうしたら、掲載されていた警報が聞こえてきたのだ。
眼鏡使用中、ユーザーの身体が使用に耐えられない状態になった場合の緊急警報。
朱音が祖母の枕元に膝をつくと、入れ代わりに立ち上がった柾高が、素早く文机から保険証や財布を整え出す。
「ワカちゃん――祖母ちゃん……っ」
呼びかけたら、つと、痙攣が止んだ。祖母ちゃんっ、と朱音が繰り返せば、ぎごちなく顔がこちらへ向く。瞼が震えて持ち上がり、ぐるりと動いた瞳が朱音を映した。「だっ、大丈夫……っ?」
裏返った声で問うと、父も祖父も屈み込んでくる。祖母はぼんやりしていたが、笑い皺を深めた。
「じゃあ、おやつ食べようかぁ」
朱音と柾高は一瞬目を見交わす。わかは次いで、ちょっときょとんとした様子で、身を起こそうとした。柾高が止める。
「大丈夫なのか、わか」
「……あれ、いつログアウトしたんだっけ」
祖父は大きく息をつく。朱音は涙が溢れそうになって目を擦った。父が、垂れ目でも厳しい顔つきを見せた。
「おかしかったのは間違いない。救急車来るから、病院には行ってね、母さん」
「え、え? ヤダよぉ、こんな恰好で」
ぎろりと三人から睨まれ、祖母は情けなさそうな顔になった。のろのろと化粧を始めようとするので、それもみんなで止める。
ともすれば震えそうになる手で朱音が髪だけ梳いてあげていたら、救急車のサイレンが聞こえてきた。
「まったくもう。俺の居ない所で、みんなでおやつなんて狡い……」
ぶつぶつと父が言って、玄関へ向かった。
わかは、一過性脳梗塞と診断された。
本人は少し記憶が飛んだとしか認識していない程の、軽度。
幸い後遺症も一切無く、診察された日に自分の足で帰宅できた。服用を続けるように勧められた薬が一つ増えてしまって、しょんぼりしていたけれど。
朱音達が心配したし、それからの祖母は『青春Playing』へのログインを控えるようになった。
ゲーム断ちして三日で、つまんない、と拗ね出し、祖父が日課の散歩へ祖母も連れ出すようになった。途端に機嫌が直った辺り、わかは解り易い。
朱音はその三日目の夜に、ログインした。
体育祭イベントは終了していて、桜競技場周辺は閑散としていた。
時刻バーは昼Ⅲを示している。幸い休日だ。
体操服は消えていて、アカネは桜高校の制服を着ていた。
とにかくも、スカートのポケットからコバルトブルーのどこでもフォンを引っ張り出す。
わかに頼まれたのだ。文通しているDiana17への言伝を。二度とログインできない状況ではないが、もう少し様子を見た方がいいだろうし、テスター期間終了までのイン頻度は確実に落ちる。早めに事情を伝えておきたい。
登録されている〝オミ〟が青色で、アカネは安堵した。
Diana17に正確に説明するとなると、日本語より英語の方がいい筈で。ここは桐臣に助けてほしい。
電話をかけたら、ややして出た。図書館に居たらしい。
あれからの事を手短に話せば、心底ホッとしたようだった。
〔あー、やべ、泣きそう。ホント良かった〕
実際鼻声になってきている。アカネまで貰い泣きしそうになって焦った。口早に伝言の件を頼むと、諒承を返してくれる。
十分後ぐらいに、ショッピングモールに入っているドーナツ屋で落ち合った。今回はアカネの奢りである。
安心したから腹減った、と桐臣は遠慮無く次々トレーに盛っていく。仮想空間でどれだけ食べようと胃は満たされないが、そこは気分の問題だ。アカネの財布からは、イベント参加賞の二千Vがあっと言う間に飛んで行った。
二階席には何組かプレイヤーが居るようだったが、一階席は誰も居なかった。二人は窓辺の隅に陣取る。
チェック柄の赤いシャツを腕まくりして、いっただきまーす、と桐臣は目を細めてショコラフレンチを頬張る。
向かいでアカネもチュロスをつまみながら、メモ帳を開いた。連絡しておきたい事を書き連ねていく。
「これをさ、英文にしたらどうなるの」
アカネがメモ帳の向きを変えながら問うと、もぐもぐ口を動かしていた桐臣は手を拭く。ミルクティーを飲んでからペンを催促した。
「ふんふん」
日本語より綺麗に見える筆跡で、するすると英文を書き始める。失礼ながら意外の一語に尽きる光景だ。
(急に年上に見えるな)
0601などは割と早い内から年長者の気配がしていて、実際そのようだ。しかし桐臣は、学校だの宿題だのと、雑談の折も共通ワードが多い。多いが……
(実は大学生くらいだったり……変なおじさんだったり?)
知らず、じっと見ていたらしい。気づいた桐臣が、ちょっと耳元を赤らめた。
「何その〝ワタシのドーナツ返せ〟的な睨み――ていうか、ウッチには知らせた? ウッチも随分心配してたぜ」
「あ、まだ」
ハタとしてアカネはどこでもフォンを手にする。只今〝ウッチ〟は灰色だ。ワカの無事をしたため、メールを送信する。
アカネがコバルトブルーのプレートをテーブルに置いたら、桐臣がメモ帳を向けてきた。
「こんな感じかな」
「おぉお、ありがと。助かる」
アカネの書いたメモと桐臣の書いた英文を照らし合わせ、なるほどこうなるのかと感嘆しながら、Diana17へ一字一句間違わないようにアルファベットを打っていく。
全文入力し、慎重に見直しもしてから送信ボタンを押す。
ふぅ、と息をついて目を上げたら、まともに桐臣と視線が合った。慌てたように目を泳がせるので、アカネは半眼を閉じる。
「何いまの〝もっと食べたいんだけど〟的な顔」
「そっ、そんな顔してないだろ!」
桐臣は瞬く間に紅潮した顔を腕で隠す。しかしながら、彼の前にあったドーナツ八個は既に無くなっている。
「後一個なら奢れる」
「いや、もう、いい」
色が白めだからか、染まると早々褪せないようだ。桐臣はポットを掴むと、ほっぺたと似た色の紅茶をカップへ注ぐ。珍しくミルクも砂糖も加えないで、ごくごく飲む。
この三日間張り詰めていたモノがほぐれる心地に、アカネは頬を緩めた。
「泣くほどオミが無事を喜んでくれたって、ワカちゃんに言っとくね」
「ん。無理しないで、って伝えて」
応じてから、桐臣は一旦口をつぐんだ。
女の子が二人、明るい声音で話しながらカップを手に二階から来ていた。現実では午後九時に向かっている今、食べても太らないこの空間は楽園かもしれない。
アカネがチュロスの残りを食べ始めると、少年はジーンズのポケットから出した銀色のどこでもフォンを、見るでもなくゆらゆらさせる。コーヒーを入れて少女達が二階へ戻ると、桐臣はためらいがちに口を開いた。
「あのさ……」
何、と目で促した時、風呂の時間を知らせる父の声が降ってくる。
アカネの意識が一瞬逸れたことを、桐臣はすぐ気づいた。小さく肩をすくめる。
「落ちか」
「んー、うん」
「リアルの学校あるしな。オレも落ちよ」
銀のプレートをポケットに突っ込んで、桐臣は席を立つ。トレーを手にしながら、ごちぃ、と笑んだ。
「や、こっちこそ、ホントありがと」
何を言いかけたのか、いささか気になったけれど。
そのまま一緒に店を出て、二人はそれぞれの現実世界へ戻った。
十月に入って中間テストが終わると、宮園高校では文化祭の準備が始まった。
この学校は体育祭より文化祭に力を入れているようで、三年生以外は何もやらないわけにはいかないらしい。
一年四組は何の出し物をするかという初歩の段階で、早くもつまずいている。〝面倒くさい〟と書かれた顔が多く、大した案も出ずにLHRは膠着していた。
まるきり他人事の口ぶりで、担任の佐藤先生が述べた。
「生徒会がやるのは劇みたいだよ」
眼鏡の委員長が、教壇脇で椅子に腰かけている先生を、困ったように見る。
「僕らも劇にしろってことですか」
「えーと、決まらないみたいだから……」
要領を得ない喋り方で、先生は椅子の背にもたれる。「生徒会は協力クラスを募集してるよね。言ってなかったっけ?」
「聞いてませんっ」
委員長が叫ぶように応じ、眼鏡仲間の副委員長が頬を引きつらせ、メタリックレッドのフレームをそっと指先で押さえる。
(禿げそうだな、二人とも)
睡魔と闘いながら、朱音は眉間をつまむ。
あれぇ、と先生はファイルをめくる。プリントを一枚選り出し、首の後ろを掻いた。
「ごめん、お知らせここにあった。端役や裏方になると思うんだけど、それでいいならコネで一の四を内定させちゃおう。抽選は明日だから押し込めるね」
「佐藤先生、コネとか押し込めるとかさらっと言っちゃわないでください」
副担任の女性教諭が、小声でツッコミを入れていた。彼女も禿げ予備軍かもしれない。
生徒達は呆れたような顔をしていたけれど、他にどうしてもやりたい事があるわけでもなかった。担任の影響だろうか。割合、枯れているクラスだ。
一年四組は生徒会を協力すると決定し、朱音はちょっとだけ気が軽くなった。生徒会には川辺先輩が居たから。
委員長と副委員長は上手いこと案件が片づいて晴れ晴れとした様相だったが、数日すると傍目にもやつれていった。
協力というのは、劇に関してだけではなかったのである。
一年四組の面々は、文化祭の影の実行役として、こき使われる羽目になったのだった。
「え……今日遅いの?」
土曜日の朝食の席で、隆紀がしょげた。
「多分」
朱音は御飯の上にスクランブルエッグをこんもり乗せて、醤油を回しがける。
隆紀は垂れ気味の眦を益々下げた。近日、再び長期航海へ出る父は淋しん坊になっている。実家暮らしが相当居心地良かったのだろう。
箸ですくい上げた炊き立て御飯が、ほこほこと湯気を漏らす。息を吹きかけてから、朱音は約束した。
「明日は、ちゃんと一緒に御飯食べに行くから」
出国直前だ。父が旅立ったその週末には文化祭が来る。目まぐるしい。
「何処の店、予約しようかな。母さんも親父も、やっぱり和食?」
「隆紀、しばらく食べられないだろうからねぇ」
「好きにしろ」
そんなやり取りを聞きながら、朱音は急いで食べ終え、学校へと家を出る。
生徒会に協力する一年四組は、当初、帰りのHRで委員長が有志を募っていたけれど、二日でそんな悠長なやり方は通用しなくなった。
元々あまりやる気の無いメンバーの集まりだから、当然と言えば当然だ。
生徒会の二年生副会長が結構キツイ性格の人らしく、協力じゃなく足を引っ張りに来たのか、と眼鏡委員長に厭味を言ってきたそうだ。
そんなパワーハラスメントに晒されていた委員長に、書記のトーマ先輩が救いの手を差しのべた。
『もうね、君の権限でクラスに四、五隊と小廻り可能な遊撃隊を一つ作っちゃいな』
男子と女子で二隊ずつ、男女混合で一隊、残りが遊撃隊。
委員長は生徒会との連絡役で、役員達や他のクラス、クラブから来る要望や苦情処理。ステルスフォンで、男女混合部隊を率いる副委員長や他の隊長へ指示を出す。
男女混合隊は劇のモブをやることになったらしく、空き教室で専ら練習に参加。舞台道具の作成や準備も担当。
男子隊は看板設置やテント設営、女子隊はパンフレット制作や備品買い出しを任されている。
朱音は、委員長と他二人の男子と共に、遊撃隊へ放り込まれていた。
本日土曜と来週前半は授業が半日。後半二日間は授業も無く、本格的な準備に充てられている。
そうして始まった午後は、予想外に忙しかった。
朱音の役割は委員長と似たような感じという話で、副委員長から生徒会室へ向かうよう言われた。
恐る恐る会議室風の部屋へ入ると、いきなり神経質そうな上級生の男子に呼び止められる。後から知った事だが、件の副会長だった。
朱音が一の四だと知るや、頼んできたのが、利用教室が重なっているクラスとクラブの調停。
(こんなこと初心者にさせるなぁああ)
内心で喚きつつ、その教室へ向かう。生徒会が承認印を捺してしまっている二枚の利用申請書を見比べ、しどろもどろになりながらクラブの代表に別教室を提案したら、文句を垂れ流された。
朱音が一年生なのに気づいた人が途中で宥めてくれて、なんとか納まる。ステルスフォンのメモ機能で、決まった事を急いで書き込んでおく。これ以上のダブりは御免だ。
これで昼御飯に入っていいのかな、と小首を傾げて生徒会室に戻ったら、みんなのおべんと取ってきてーっ、と川辺先輩がごつい電卓片手に駆け寄ってくる。
「ウチのお父さんが校門まで持って来るから――サービス価格になってるけど領収書忘れないでね!」
「俺が行きますよ?」
「トーマ君は目の前のポスター仕上げる!」
「ハーイ、やりまーす」
ポスターカラーで大人しくポップを書き出すトーマ先輩を横目に、教室に関する連絡をしてから、朱音は踵を返す。
隅っこに居た眼鏡の委員長が、ごめん、と言いたげに片手を立てた。すぐに、もう一方の掲げた手に向かって、口早にぺこぺこと何か頼んでいる。ステルスフォンで通話中だったらしい。彼も絶賛下僕中のようだ。
遊撃隊は、正に雑用係だった。
トーマ先輩が喜々として遊撃隊専用の真っ赤な簡易腕章を拵え、ソレを嵌めて校内を走っていると、教師陣や上級生から生徒会室への届け物や連絡を押し付けられるようになってしまった。暗黙且つ恒例の代物だったようだ。
ここまでにして帰って、と佐藤先生がのっそりと生徒会室に現れ、午後六時半になろうとする頃、お開きとなった。
生徒会プラスα以外は早めに切り上げたのか、帰宅する生徒の姿は少なめだった。
朱音は体育祭の日のように、バス停の近くで川辺、トーマの両先輩と一緒になる。今日は夕焼けでなく、辺りは薄闇だ。
やって来たバスは席が空いておらず、三人は中程で並んで立った。居心地悪かったが、朱音は今日も真ん中。
吊革に余裕で手を引っ掛け、トーマが目線を下げて笑った。
「ヘルパーちゃんは、ちっこいな」
座席からのびている細い支柱を掴んで、朱音は軽く肩をすくめて見せる。川辺先輩が、顔を傾けこちらを見た。
「えー、森さん、そこまで低くはないよ」
「諦めません」
大いに頷いて朱音が言うと、あはははは、とトーマが笑う。無理、と言いたげでムッとした。
川辺先輩は一五七cm、トーマ先輩は一七六cmあるらしい。高校に入ったら伸び出したと、トーマは語った。やはり諦めるのはまだ早い。
じゃあねー、と川辺先輩が降りていく。
次の停留所が近づく。
バスのライトに照らされ、ひょろりとした姿があって、朱音は思わず洩らした。
「父さん」
「え――親父さんは、ちっこくないね。というか、若いね」
「四十五ですよ」
朱音は笑って応じ、お先します、と先輩に会釈する。
車内の娘に気づいた父は、お疲れさま、と手を振るトーマをじっとりと見ていた。何か勘違いしていそうで、朱音は口を曲げる。
朱音を下ろしたバスが発車するや、先に言っておいた。
「ただの先輩だからね」
「た、タダノ君か……よし」
「何がヨシなの。単なる先輩」
「あ、なんだ。よ、良かった……」
朱音は、鼻で息をついて家へと歩き出す。
「父さん、気にし過ぎは禿げるって祖父ちゃんが言ってたよ」
「いいよ。毛根より朱音が大事だよ」
「毛根と娘を天秤に掛けるのはよそうよ」
照れ隠しにぶっきらぼうな口調になったら、暗がりを並んで歩く父は、しょぼんと俯く。
「俺、また朱音と離れちゃうけど……何処に居ても、俺は朱音の味方だよ」
唇が、無意識にほころんだ。
これまで一度も言えなかった気持ちが、素直にこぼれ出る。
「わたし、父さんを疑ったことは一度も無いよ」
弱い街灯の光の下で、父は泣きそうな顔で微笑んだ。
互いの肩と背中を抱き合い、二人は家路を辿った。
四日後、朱音が学校へ行っている間に、父は日本を後にしたのだった。




