第22話:牙を貸せ
第2章:出雲東征準備編
第22話:牙を貸せ
――朝日の昇らぬ隼人の里。
里を囲む峻険な断崖の下、荒れ狂う黒潮が岩を噛む汀が、生存の決闘の舞台となった。
容赦なく叩きつけられる太平洋の潮飛沫が、イワレビコの生々しい左肩の欠損傷に塩を塗り込んでいく。焼けるような、肉の焦げるような激痛。だが、その物理的な激痛こそが、タケミカヅチの圧倒的な重兵器の衝撃波によって麻痺しきっていた彼の全身の神経を、強引に呼び覚ましていた。
「……来い、マカツの生き損ない」
ツチグモが、身の丈ほどもある巨大な黒い玄武岩の石斧を分厚い肩に担ぎ、獰猛に砂を蹴った。
その巨体からは到底想像もつかぬ踏み込みの神速。
石斧が空気を引き裂き、イワレビコの頭上から、絶対的な破壊の質量となって振り下ろされる。
「……ッ!」
イワレビコは右手の長矛を横に払い、石斧の腹を叩いてその軌道をわずかに逸らした。だが、左腕がない。重心を支える対の手を持たぬ肉体は、直撃を避けてもなお生じる強烈な遠心力の衝撃を逃がしきれず、無様に砂の上を転がった。
「どうした。大和を破ったというあの不敵な誇りは、その吹き飛ばされた左腕と一緒に焦土に置いてきたか」
ツチグモの容赦なき追撃。石斧が地表の岩を砕き、飛び散る石の破片が鋭い弾丸となってイワレビコの頬を切り裂く。イワレビコは必死に矛を杖にして立ち上がった。
右腕一本で長矛を操る。それは、左右の連動を前提とした従来の武術の常識をすべて捨て去った、あまりに不格好で過酷な棒振りに過ぎなかった。
「……ツチグモ。お前は犬として大和に跪くのが……そんなに、誇らしいのか」
「誇りなど、腹の足しにもならん! 俺は、この里の赤ん坊が、明日も目覚める権利を守っているだけだ! お前のような、大和という巨大な国家に甘き夢で逆らい、焦土を連れてくる長と同列にされてたまるか!」
ツチグモの悲壮な咆哮。巨大な石斧が水平に円を描き、イワレビコの退路を完全に塞ぐ。
イワレビコは、あえてその石斧の内側、死地へと自ら踏み込んだ。
――がちり。
長矛の木柄を、自らの右脇に深く、固く挟み込む。
重心を支える左腕がないのなら、全身を矛の軸にすればいい。右脇で固定し、自らの背骨と腰の回転を矛の突進軸へとダイレクトに連動させる。全身を一本の突進装置へと変える。それが、彼がこの十日間の地獄の放浪で辿り着いた、極限の「片腕矛術」だった。
石斧の柄と、鉄矛の柄が激しく噛み合い、至近距離で二人の泥臭い視線が激突する。
ツチグモの目に、初めて明確な驚愕が走った。イワレビコの濁っていた灰色の左目が、全身の血行の激化に伴い、海の民特有の驚異的な空間認知を取り戻し、ツチグモの僅かな重心のブレを先読みしていた。
「……大和は、倒れない。そうだな、ツチグモ。俺も、あの日……すべてを失った荒野でそう思ったよ」
イワレビコは、矛を支えにツチグモの分厚い胸元へ泥塗れの蹴りを叩き込んだ。体勢をわずかに崩した長に対し、彼は矛の石突きを砂に突き立て、しなる鉄の穂先を強引に跳ね上げる。
「だがな……俺の背後で物言わぬ灰になった奴らが……『諦めろ』とは……一言も、言わねえんだよッ!!」
全身の体重と背骨のねじれを一打に乗せた、渾身の一突き。
――一閃。
鉄の矛は、ツチグモの喉元を貫く……そのわずか寸前で、ぴたりと静止した。だが、その突きに込められた凄まじい質量と速度は死なず、ツチグモの真横にあった潮風で脆く風化した玄武岩の巨岩を、物理的な激しい衝撃をもって木端微塵に粉砕し、深い破壊の穴を穿ち抜いていた。
静寂が戻った。荒い息をつく二人の間に、ただ太平洋の激しい波の音だけが響く。
「……なぜ、外した」
ツチグモが震える声で訊ねた。イワレビコは矛をゆっくりと下ろし、血と汗に塗れた顔で力なく笑った。
「……殺すために、来たんじゃない。あんたのその、大和の目を欺いて民を生き永らえさせてきた『生き抜くための牙』を、貸してもらいに来たんだ。大和という絶対の鎖を……噛みちぎるための、牙をな」
イワレビコの身体が、ついに敗血症の熱気と肉体の限界を迎えて崩れ落ちる。ニニギが駆け寄り、その満身創痍の体をしっかりと抱きとめた。
ツチグモは、目の前で粉砕された玄武岩の凄絶な破壊の余韻を見つめ、やがて、ひび割れた大和の支配が覆う空を仰いだ。
「……馬鹿な男だ。大和に逆らえば、骨も残らぬというのに」
だが、ツチグモの顔からは、先ほどまでの諦念という名の仮面が完全に剥がれ落ちていた。彼は石斧を砂に深く突き立て、里の戦士たちに向かって叫んだ。
「この死に損ないを、奥の寝所へ運べ! スイゼイとかいう技術司もだ! 隼人が誇る金属毒を制する生薬と……奥の熱気浴を、持てる限りすべてぶち込んでやれ!」
南の果て。人間は大和に逆らえないという絶対の宣告は、一人の片腕の長の執念によって、今静かに塗り替えられようとしていた。




