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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
神殺し戦記(上)

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第21話:隼人の掟

第2章:出雲東征準備編

第21話:隼人の掟

 泥と血にまみれた敗走は、十日に及んでいた。

 逃げ延びる途中で立ち寄ったマカツの居館は、地下の蔵に至るまでが大和の軍船から放たれた高志の黒油の激しい炎に焼かれ、無残な灰の山と化していた。一行はその灰の底から、かろうじて天の沼矛の残骸――かつて大和盆地の製鉄独占に対抗するために西の大陸から密輸された、超硬度の大矛の黒く錆びついた穂先の部品だけを掘り出し、背嚢へと静かに滑り込ませた。

 武神タケミカヅチの常備軍が焼き払ったのは、マカツの軍勢だけではない。イワレビコの長としての誇り、迅速な反撃への確信さえも、あの無慈悲な重兵器の黒煙の中に跡形もなく蒸発していた。

 一行は南へ、さらに南の、大和の天下の理の及ばぬ未開の山岳地帯へと逃れた。

 追ってくる大和の追撃斥候と、彼らが放った獰猛な猟犬の群れを、ニニギが半死半生の体で、砕けた鉄大盾を掲げて必死に防ぐ。激しい爆震による脳震盪で失調し、意識を失いかけるスイゼイを、イワレビコが残された右腕一本で支え、獣道を這うように進んだ。

 辿り着いたのは、峻険な崖に囲まれ、凶暴な太平洋の潮騒が絶えず牙を剥く南の辺境――「隼人」の里だった。

「……止まれ、死人ども。ここから先は大和の権力も届かぬが、人の情けも届かぬ場所だ」

 濃い潮霧の向こうから、鋭い声が響く。

 現れたのは、赤い樹皮を編んだような頑強な木甲を纏い、山犬の皮を頭から深く被った粗野な戦士たちだった。隼人の民。大和の貢納支配とは異なる独自の流通網を持ち、海と共に生きる、歴史から忘れられた海民だ。

「……マカツの……長だ。……通してもらう」

 イワレビコが、折れた矛を杖代わりに一歩前に出た。

 タケミカヅチの長矛によって根元から叩き切られた左肩の無残な欠損。フツノミタマの鉄毒と泥水に汚れた傷口からは、深刻な敗血症の予兆を示す、鼻を突く生々しい腐敗の熱気が漂っていた。だが、彼の右目に宿る、飢えた狼のような暗い光を見て、隼人の戦士たちは一瞬だけ本能的にたじろいだ。

「マカツの長だと? あの、大和盆地に向かって神を殺すと嘯いた大馬鹿者か」

 戦士たちの緊迫した間合いを割り、一人の大男が傲然と進み出た。

 隼人の長、ツチグモ。その褐色に焼けた全身には、大和へ服属し、その生存を許された証としての、痛々しい服従の割書きが刻まれていた。それは、大和が自らに服属した地方部族を、台帳の数字として識別・納税登録するために肉体へ直接刻み込んだ、冷徹な統治の刻印そのものだった。ツチグモはその屈辱を全身に背負う代わりに、里の数千の民の命を大和の焦土から守り抜いてきたのだ。

「無惨な姿だな。腕を奪われ、民を失い、それでもまだ生に執着しようというのか。……イワレビコよ、教えてやろう。この里の者は皆、知っている。人間は大和には逆らえない。それが、この列島のたった一つの、壊しようのない現実だ」

「……」

「逆らえば、里が焼かれる。抗えば、種が絶える。だから我らは犬の皮を被って獣の臭いを身に纏い、大和の追跡犬の鼻からこの里を隠蔽し、地に這って今日まで生き延びてきた。……お前の通った道には、大和の焦土しか残っていない。この里に、その滅びの呪いを持ち込むな」

 ツチグモの冷徹な言葉は、いかなる大和の槍よりも深く、イワレビコの胸を突き刺した。

 背後で、ニニギが崩れるように膝をついた。肉体の限界だった。スイゼイは、脳震盪の残痛が引き起こす激しい失調に耐えかね、虚空を虚しく掴んでは激しく震えている。

 自分についてきた結果が、この地獄だ。正しいのは、目の前のツチグモの方かもしれない。一族の長として跪き、尊厳を売ってでも、民の命を繋ぐのが本当の仕事ではないのか。

「……それでも」

 イワレビコは、右手の矛を強く握りしめた。右の手のひらの大傷が裂けて痛み、鮮血が折れた柄を伝って、土の上へと滴り落ちる。

「……それでも、俺は……まだ、諦め方を知らない」

「なら、その折れた矛で証明してみせろ、片腕の長よ」

 ツチグモが、大和の金属器に対抗するために鍛え上げられた、巨大な黒い「玄武岩の石斧」を構えた。大和の規格化された薄い掛甲すら、その絶対的な質量と重量で鎧ごと中の肉体を破砕する、辺境の超硬度天然ハンマー。片腕を失い、重心の狂ったイワレビコに、この大地の重力が牙を剥く。

 落ち延びた敗者への歓迎の宴などそこにはない。あるのは、大和の圧倒的な暴力を骨の髄まで知る者同士の、残酷な生存の儀式だけだった。

「俺たちが大和に逆らえないという絶対の道理を……その身に、二度と忘れぬほど刻み込んでやる」

 南の果て。荒れ狂う太平洋の波の音を背景に、全てを失った長の、本当の『人間の試練』が始まろうとしていた。

 その頃、マカツの無機質な焦土には、大和の本国軍の一隊が静かに降り立っていた。

 彼らは大和王権の戦後処理を司る「回収官」たちだった。彼らは無言で戦場跡を歩き、泥の中に深く突き刺さった、あのフツノミタマを無造作に回収した。

 大陸製の最高級鋼鉄で作られたその巨剣が、再び辺境の不穏分子の手に渡るのを防ぐため、彼らは事務的に、かつ極めて厳重にその漆黒の剣体を回収し、木箱に収めて封印した。

 ただ、それだけの軍事上の後処理だった。用が済むと、大和の回収官たちはそのまま船へと戻り、去っていった。フツノミタマが、地上の戦場から完全に回収された。大和という強大な支配システムが、反乱分子の武器を粛々と処理することに、いかなる個人的な感慨も宿してはいなかった。

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