第13話:海の血、天の矢
巻の二:神殺し戦記(上)
第13話:海の血、天の矢
大和盆地の奥深く。幾重もの濠と堅牢な柵で囲まれた、大和王権の最高居館――高天原。
そこでは、列島西岸の勢力図を巡る冷たい合議が支配していた。
豪奢な絹布の敷かれた円卓を囲むのは、王権の主導権を握る巨大豪族の首長たち。その中心で、一人の伝令兵が深々と頭を下げた。
「……アメノカグヤマ将軍が討たれ、北の鉄塞が陥落しました。相手はマカツの残党。中心にいるのは、イワレビコと名乗る小首長です」
ざわめきが走る。将軍の死と補給砦の陥落は、大和の「支配統治機構」に生じた致命的な反乱の発生を意味していた。
「なぜ辺境の不穏分子が将軍を殺せる。木と石の武器しか持たぬ民が、我らの掛甲を破るはずがない」
老首長の問いに応じたのは、冷徹な外交を司る技術司だった。
「……血筋です。イワレビコの奥底には、かつて我らが恐れた海の民の血が流れている」
「ワタツミの血だと?」
「左様。瀬戸内から九州、朝鮮半島南部までの海域を自在に操った反逆の民――海神の部族。彼らの航海技術と海民の縁の残滓が、日向で細々と受け継がれていたようです」
ワタツミの血。大和の陸上歩兵が立ち入れぬ急潮流を熟知し、潮汐を秒単位で読む海上武装集団。
「道理で、不帰の森の大陸直系の鋼鉄剣を引き抜けたわけだ。あれは大和の支配を拒む者の意志にしか呼応せん」
「……放置できぬ。タケミカヅチ本隊を動かすまでもない。アメノワカヒコ、貴様に日向の反乱軍を調略し、あるいは息の根を止める権限を与える」
若き貴種が静かに立ち上がる。その手には、大陸製の最新鋭金属弩――天の羽羽矢の射出器。
高天原の動きを知らぬまま、地上ではイワレビコが肉体の限界と戦っていた。
北の鉄塞で超重量剣を限界まで振るった代償。左腕は筋肉繊維の断裂と壊死で骨格が変形し、黒い皮膚が顎まで這い上がっている。
「……っ、がぁッ!!」
膝をつき、岩盤を砕くほどの力で左拳を叩きつける。
「イワレビコ! 意識を奪われるな!」
ニニギが駆け寄ろうとするが、スイゼイが冷たく制した。
「近寄るな。今触れれば、お前も復讐の狂気に引きずり込まれる」
「狂気だと……?」
「血だ。大和の海を拒む記憶が目覚めかけている。あれはもう優しき長ではない。大和を噛み殺すために肉体を兵器へ変えた復讐者だ」
イワレビコは地鳴りのような声で漏らした。
「……聞こえる。日向灘の潮の音が……あいつらの巨大な船を、すべて海の底へ引きずり落とせと……叫んでいる」
顔を上げたその左目は、もはや人間の慈悲を完全に失っていた。
霧の向こうから、一隊の精鋭を率いた男が歩み出る。
「――やはりここにいたか。大和の支配に逆らう不穏分子よ」
大和の調停官、アメノワカヒコ。黒漆の掛甲を纏い、天の羽羽矢の照準をイワレビコの心臓へ定める。
引き金が引かれた。
――風を裂く神速の鉄矢。
イワレビコは動かない。ただ黒く強張った左腕を突き出した。
――ばぢぃィィィんっ!!
鉄矢は叩き落とされ、泥に踏み潰された。
左腕から凄絶な火花が散る。ニニギは呆然と立ち尽くす。
イワレビコはゆっくりとワカヒコを見上げた。
怒りではない。ただ、大和の支配を破壊するための純粋で残酷な殺意だけ。
「……大和からの使者か。ちょうどいい、首が足りぬところだ」
一歩踏み出すたび、壊死した足から流れる血が灰を黒く汚す。




