第1話
【第一石板:天地開闢】
※欠損率三七%。原文は未確認の固有線刻文字。一部に渦巻状の特殊記号が混在。以下、現代語訳――。
【原文(古写本)】
天、未だ裂けず。
地、未だ沈まず。
光も影も名を持たず、
海は胎のごとく濁りて眠る。
高き者、まず息を吐きて空を押し広ぐ。
その息、雷となりて大地を穿つ。
低き者、血を啜りて地を固む。
その血、河となりて境を定む。
高き者、影を落とす。
影、百の民を屠りて国の礎となる。
低き者、骨を積む。
骨、山となりて道を分かつ。
天地ここに裂け、
高き者は天を踏み、
低き者は地を抱く。
かくして、初の国、影より起こる。
【現代語訳(前野)】
『――世界には、まだ空も海もなかった。神ですら、生まれていなかった。その混沌たる暗闇の中に、三柱の神が生まれる。(……後続の数文字、不自然な損壊。判読不能)ただ――アメ、ミナ、カ……とだけ、かろうじて読み解くことができた』
【前野の読解シーン】
前野は一度背もたれに体を預け、こめかみを強く指で揉んだ。無意識にポケットから愛用のパイプを取り出し、マッチを擦る。
シュッ、と小気味よい音がして、小さな炎が地下室の闇を揺らした。
未報告の重要出土品を目の前にしての喫煙など、学者としては致命的な自殺行為であり、一発で学会を追放される狂気だ。だが、安物ながら独特の強いコクを持つ葉の紫煙を肺腑に滑り込ませでもしなければ、脳の過熱を抑えられなかった。
ゆったりと立ち上る煙の向こうで、前野は思考を鋭く研ぎ澄ます。
「アメ、ミナ、カ……この先が『ヌシ』と続くなら、天之御中主か。だが、なぜ肝心の末尾だけが削られている? そもそも天之御中主は、八世紀の記紀編纂時に、中国の宇宙観(太極)を模して抽象的に創作された神のはずだ。それが、四世紀の石板に『実在の記録』として刻まれているというのか……!」
『古事記』の記述が頭をよぎる。記紀において、これら最初に現れた神々は「すぐに身を隠した(独神となりて、身を隠したまひき)」と、素っ気なく記述されている。
だが、この石板が示しているのは、そんな神話的なロマンではない。もっと泥臭い、勝者による徹底的な「記録抹殺」の跡だ。
【現代語訳(続)】
『――その後、地上世界はまだ未成熟であり、水面に浮いた脂のごとく、あるいはクラゲのように漂う状態であった。その泥濘のなかに、葦の若芽のごとく萌えあがるものによって出現した神は、(意図的な削り取り)、ついで(同様に抹殺)であった。ここまでの五柱の神は、いわゆる――他と区別された、特別な(以降、激しいチゼル痕により判読不能)』
【前野の考察】
そこまで一気に読み解いた前野は、パイプを灰皿に押し付け、ゾクリと背筋を震わせた。
間違いない。誰もが知る『別天神』の記述だ。しかし、決定的な違和感がある。
経年劣化による欠損ではない。周囲の石肌が千数百年の歳月で滑らかに摩耗しているのに対し、神名が刻まれていたはずの凹みだけが、奇妙に角張っている。
ルーペの倍率を最大まで上げると、結晶の潰れ方がはっきりと見えた。これは青銅器の鏨ではない。極めて高度な技術で鍛えられた「鉄の鏨」で、文字の骨組みごと文字通り叩き潰した、生々しい「チゼル痕」だ。
四世紀前半。大和朝廷がまだ揺籃期にあり、鉄器が金の重さにも匹敵した時代に、これほどの鉄器を動員して「文字を物理的に抹殺した」勢力が存在する。
神話が、血の通った歴史に変わる瞬間だった。
つまり――高天原の神々とは、最初から概念としての神などではなく、文字通り、歴史から名をもぎ取られた「敗北した王たち」の引き写しだったのではないか。




