第7話:神殺しの初陣
巻の二:神殺し戦記(上)
第7話:神殺しの初陣
左腕の感覚が、完全に死んでいた。
正確には、死んでいるのではないと、イワレビコは肌で知っていた。死んでいれば何も感じない。だがあの腕は、確かに激痛のその先を感じていた。
不帰の森で手に入れた、あの超重量の鋼鉄大剣――フツノミタマを強引に振るい続けた代償。筋肉の繊維がズタズタに断裂し、内出血によって肘の手前まで黒く壊死したその左腕は、戦うための強固な肉質の鱗へと作り変えられているかのように、ドクドクと異様な脈動を刻み続けている。
人であることを捨てる。それは、己の肉体を冷徹な兵器へと変える狂気そのものだった。
「ニニギ」
前を行く無骨な背中に声をかけた。
「怖くないか」
ニニギは足を止めた。振り返るまでに、わずかな間があった。
その背には、不帰の森の八咫烏の鍛冶集団から譲り受けた、高炭素鋼製の無骨な大盾が背負われている。
「怖いさ。お前の左腕が、その重すぎる鉄を振るうたびに黒く強張っていくのを見るのが、死ぬほど怖い」
言いながら、ニニギはイワレビコの前に歩み寄り、黒く変色したその左手を自らの両手で無造作に掴んだ。
熱かった。過酷な肉体破壊に耐える、人間の血の通った激しい温度だった。
「怖いから、俺はここにいる。お前を大和の盾にはさせない」
ニニギはそっと手を離し、また黙々と歩き始めた。
「来るぞ」
森の境界が終わり、乾いた荒野が開けた瞬間、イワレビコはそれを捉えた。
大和の哨戒兵が一人、連れてきた一頭の頑強な軍馬の傍らに傲然と立ち塞がっていた。こちらに気づいた上で、微塵も動じていない。あの黒漆の鉄面を不気味に貼り付かせたまま。
馬――それは、当時大和が独占していた、大陸直系の圧倒的な機動力の象徴だった。
「まだ生きていたか、辺境の不浄なる者よ」
男が感情のない声で告げると同時に、鏡のように磨き上げられた大和の鍛造直刀が引き抜かれた。
こちらの拙い青銅器や粗悪な鉄器を容易く粉砕する、圧倒的な工業力の輝き。
「ニニギ!」
「おおっ!」
ニニギが猛然と地を蹴った。八咫烏の大盾を前に突き出し、まっすぐに突進する。
大和の哨戒兵が、容赦なくその鋭利な直刀を振り下ろした。
――爆音。
激しい土煙。八咫烏の大盾の表面が派手に火花を散らし、焦げた鉄の臭いが空間に広がった。
だが、ニニギの泥臭い足音は途絶えなかった。一歩。また一歩。
大和の直刀の恐るべき衝撃を、その重い大盾で強欲に受け止め、骨が軋む音を響かせながら、彼は前へ出ていた。
「馬鹿な……辺境の盾が、大和の鍛造鋼を受け止めるだと!?」
鉄面の奥の声が、初めて驚愕に歪んだ。
その隙を、イワレビコは待っていた。
ニニギの盾の陰から、地を走るように滑り込む。肉体負荷で黒く壊死した左腕が、フツノミタマの超重量を爆発的な遠心力へと変換する。
呼吸一つ分で間合いが消滅した。
大和の兵が、肉厚の大型鉄盾を構えて完璧な防御陣形を取る。
だが、フツノミタマは止まらなかった。
不純物を叩き出し、極限まで鍛え上げられた漆黒の鋼刃が、大和の鉄盾を、その下の黒漆の短甲ごと、凄まじい質量で容易く両断したのだ。
革紐が千切れ飛び、鉄板が火花を散らして四散する。刃は吸い込まれるように深く、男の肉体へと突き刺さった。
ズブリ、と骨を断つ音がした。
「な……っ」
鉄面の奥から漏れたのは、白い息だった。
黒漆の鎧の亀裂から、どっと滲み出たのは――自分たちと全く同じ、生々しく、ドロリとした「真っ赤な人間の血」だった。
大和の兵が崩れ落ちた。地面に這いつくばり、人間と同じように、痛みで肉体をのたうち回らせて悲鳴を上げている。
「なんだ……」
イワレビコは、返り血で赤く染まった漆黒の刃を見つめた。
「お前たちも、ただの人間じゃないか。殺せる。俺たちの鉄なら、お前たちの首を叩き落とせるんだ」
神話の衣を剥ぎ取られた、冷徹な戦の現実。神兵がただの人間として無様に絶命していくのを、二人は静かに見下ろしていた。
ニニギが大盾を地面に突き立て、猛烈な荒い息をついている。
「勝ったのか……。俺たちは、大和の鉄を、本当に打ち破ったのか」
「ああ」
イワレビコは答え、返り血を散らしながら、大和の兵が遺した軍馬のたづなを、黒く強張った左腕で力強く掴み取った。
「行くぞ。この機動力も俺たちのものだ。マカツへ帰る。俺たちの戦争を始めるんだ」




