第5話「二度目の選択――代償が増えるとき」
その夜、私は再び王立図書館を訪れた。
閉館後の静けさの中、私は書架の奥へと足を進めた。心臓が激しく打っている。もう一度、契約の書を使う。その決意を固めて、ここに来たのだ。
父の失脚を防ぐため。
セルゲイとの婚約を守るため。
そして——自分自身の未来を取り戻すため。
「来ると思っていたよ」
書士の声が、闇の中から響いた。
振り返ると、黒いローブを纏った書士が立っている。その瞳は、哀れみと理解が混じった複雑な色をしていた。
「本当に、やり直すのかい?」
「ええ。もう、決めました」
私ははっきりと答えた。
「このままでは、全てが終わってしまう。父も、婚約も、全て。だから、もう一度——」
「代償を理解しているかい?」
書士が問いかける。
「前回は、セルゲイ・アルノの記憶の一部だった。今回は、もっと大きなものになる」
「それでも構いません」
「そうか」
書士は静かに頷き、手を翳した。
すると、宙に黒い本が現れた。契約の書だ。
本はゆっくりと私の前に降りてきて、ページが自然と開かれた。そこには、金色の文字が浮かび上がる。
『二度目の契約を望むか、リアナ・ヴァレンティア』
『代償は、さらに重く』
『覚悟はあるか』
私は深く息を吸い、答えた。
「覚悟はあります。契約します」
瞬間、本が激しく光り始めた。
前回よりも強い光。図書館全体が揺れ、本棚の本が一斉にざわめく。まるで、世界そのものが悲鳴を上げているかのように。
『二度目の契約成立』
『汝の選択を、再び変更する権利を与える』
『代償として——』
次に現れた文字を見て、私は息を呑んだ。
『婚約者セルゲイ・アルノとの、絆の記憶を納めよ』
『彼が汝を愛した理由を、この書に捧げよ』
「愛した……理由?」
それは、どういう意味なのか。
セルゲイの記憶が失われるのではなく、彼が私を愛した『理由』が失われる?
「待って、それって——」
問いかける間もなく、視界が真っ白に染まった。
身体が浮き、時間が逆流していく感覚。
そして——。
気がつくと、私は自室のベッドの上にいた。
窓の外は朝日が差し込んでいる。カレンダーを確認すると、日付は婚約破棄の五日前。前回よりも、さらに前に戻っていた。
「戻った……」
私は起き上がり、部屋の中を見回した。
全てが元通り。父の失脚もなかったことになっている。リオン侯爵の陰謀も、まだ起きていない。
今度こそ、未来を変えられる。
今度こそ——。
だが、私の胸には不安が渦巻いていた。
代償として失われた『セルゲイが私を愛した理由』。
それは、一体何を意味するのだろう。
午後、私はセルゲイの屋敷を訪ねた。
応接室で彼を待っていると、扉が開き、彼が現れた。
「こんにちは、リアナ様」
彼の声は、いつもと同じ。冷静で、丁寧で、距離感のある声。
だが——何かが違う。
「こんにちは、セルゲイ様」
私は挨拶をして、彼の表情を窺った。
彼の瞳には、以前のような温かさがなかった。いや、温かさというより——何も感じられなかった。まるで、私を見ているのではなく、ただの『婚約者という立場の人間』を見ているような、そんな視線。
「今日は、何のご用でしょうか」
「いえ、特に用事があったわけではないのですが……お話がしたくて」
「そうですか」
彼は淡々と答えた。
会話が、続かない。
前の世界線では、もう少し親しみのある態度だったはずなのに。二人で本の話をしたり、庭園を散歩したり——そんな思い出があったはずなのに。
「セルゲイ様、最近……私たち、あまり会っていませんでしたね」
「ええ、公務が忙しくて」
「そうですか。では、今度一緒に——」
「申し訳ありませんが、当分は時間が取れそうにありません」
彼は事務的に答えた。
心臓が、冷たくなっていくのを感じた。
これが、代償の影響なのか。
彼が私を愛した『理由』が失われた。
だから、彼の中に私への愛情がない。
婚約者としての義務は果たすが、それ以上の感情はない。
そういうことなのか。
「リアナ様?」
「あ、すみません。ぼんやりしていました」
私は慌てて笑顔を作った。
「それでは、私はこれで」
「ええ。また、夜会で」
彼は軽く会釈をして、私を見送った。
その背中は、あまりにも遠かった。
屋敷を出て、馬車に乗り込む。
御者が行き先を尋ねるが、私は答えられなかった。どこへ行けばいい? 家に帰っても、この虚無感は消えない。
「王立図書館へ」
気がつけば、そう告げていた。
図書館に着くと、私は書架の間を彷徨った。
本を手に取るが、文字が頭に入ってこない。セルゲイの冷たい態度が、脳裏に焼き付いている。
私は、何をしてしまったのだろう。
婚約を守ろうとして、彼の愛情を失ってしまった。
これでは、意味がないじゃないか。
「困っているようだね」
声がして、振り返る。
書士が、本棚の影から現れた。
「代償の重さを、実感したかい?」
「あなた……知っていたんですね。こうなることを」
「ああ。契約の書は、常に皮肉な代償を要求する。あなたが最も大切にしているものを、最も残酷な形で奪う」
書士は哀れむような目で私を見た。
「セルゲイ・アルノは、あなたのことを今も婚約者として認識している。だが、愛してはいない。何故なら、彼があなたを愛した理由——おそらく幼い頃の思い出や、共に過ごした特別な時間——が失われたからだ」
涙が溢れそうになるのを、必死で堪えた。
「じゃあ、私は……どうすれば」
「まだ、契約は残っている。あなたには選択の権利がある」
「選択?」
「もう一度やり直すか、このまま受け入れるか」
書士は静かに言った。
「だが、三度目の契約となれば、代償はさらに重くなる。それでも、やり直すかい?」
私は唇を噛んだ。
もう一度やり直せば、今度は何を失うのだろう。
セルゲイの命? 私の記憶? それとも——。
「考える時間は、ある」
書士は本棚の影に消えながら、そう言った。
「だが、あまり長くはない。夜会まで、あと五日。その間に、答えを出すことだ」
一人残された私は、床に座り込んだ。
周囲には本が積まれているが、どれも今の私を救ってはくれない。
私は、間違えたのだろうか。
契約の書を使ったことが、そもそもの間違いだったのだろうか。
でも、もう後戻りはできない。
その時、図書館の入口から足音が聞こえてきた。
誰かが、こちらに近づいてくる。
顔を上げると、そこには見知らぬ青年が立っていた。
茶色の髪に優しげな瞳、質素だが清潔な服装。年の頃は二十代半ばといったところだろうか。
「すみません、大丈夫ですか?」
青年が心配そうに声をかけてきた。
「あ、ええ。大丈夫です」
私は慌てて立ち上がった。
「この辺りの書架は、少し暗くて足元が危ないんです。怪我をされていませんか?」
「大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
青年は安堵したように微笑んだ。
「僕はリュート。元宮廷書記官で、今はこの図書館で写本の仕事をしています」
「リュート……」
どこかで聞いたことがあるような名前だと思ったが、思い出せなかった。
「あなたは、よくここに来られるんですか? 何度かお見かけした気がして」
「ええ。本を読むのが好きで」
「それは良いことです。本は、人生の良き友ですから」
彼の言葉に、少しだけ心が軽くなった。
そうだ。私には、本があった。
どんなに辛い時も、本だけは裏切らなかった。
「あの……もしよければ、お茶でもいかがですか?」
リュートが提案してきた。
「図書館の裏に小さな茶房があるんです。気分転換にどうぞ」
「でも、私はそんなに……」
「いえいえ、困っている人を放っておけない性分なんです。それに——」
彼は優しく笑った。
「あなた、泣きそうな顔をしていますから」
その言葉に、私は思わず目頭が熱くなった。
誰かが、私の苦しみに気づいてくれた。
それだけで、救われたような気がした。
「……お言葉に、甘えます」
図書館の裏手にある小さな茶房で、私たちは向かい合って座った。
リュートが注文した紅茶は、ほんのりと甘い香りがした。
「何か、辛いことでもあったんですか?」
彼が優しく問いかけてきた。
「あまり立ち入ったことは聞きたくないのですが、もし話したければ、聞きますよ」
私は少し迷ったが、話すことにした。全てを話すわけにはいかないが、少しだけなら——。
「私には、婚約者がいるんです。でも、最近……距離を感じるようになって」
「距離、ですか」
「ええ。以前はもっと親しかったはずなのに、今は冷たい。まるで、私のことをどうでもいいと思っているような——」
言葉にすると、余計に悲しくなった。
リュートは静かに頷いた。
「それは辛いですね。大切な人に、心を閉ざされるのは」
「でも、それは私のせいなんです」
私は紅茶のカップを見つめた。
「私が、間違った選択をしたから。取り返しのつかないことをしてしまったから」
「取り返しのつかないこと……」
リュートは少し考え込むような表情を見せた。
「でも、本当に取り返しがつかないんでしょうか?」
「え?」
「人の心は、変わります。今は冷たくても、また温かくなることもある。諦めるには、まだ早いんじゃないですか?」
その言葉に、私ははっとした。
そうだ。セルゲイが私を愛した理由は失われた。でも、また新しい理由を作ることはできないのだろうか。
もう一度、彼の心を掴むことは——。
「あなた、名前を教えてくれませんか?」
リュートが尋ねてきた。
「リアナです。リアナ・ヴァレンティア」
「ヴァレンティア……侯爵家の」
「ええ」
彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「実は、僕もあなたの家のことを少し知っています。元宮廷書記官でしたから」
「そうなんですか」
「ええ。それで、少し気になることがあるんです。最近、リオン侯爵が、あなたの家に関して色々と調査をしているという噂を聞きまして」
その名前を聞いて、私は身を乗り出した。
「リオン侯爵が?」
「ええ。何か陰謀を企んでいるようです。僕は既に宮廷を離れていますが、昔の同僚から情報を得ることができます。もしよければ——」
「お願いします!」
私は思わず声を大きくしてしまった。
周囲の客が振り返ったが、気にしている余裕はなかった。
「詳しく教えてください。リオン侯爵が、何を企んでいるのか」
「分かりました」
リュートは頷いた。
「ただし、情報を集めるには少し時間がかかります。明日の夕方、また図書館で会えませんか? その時に、分かったことをお伝えします」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
この青年が、私を助けてくれるかもしれない。契約の書に頼らずとも、未来を変える道があるかもしれない。
茶房を出た後、私は少しだけ希望を取り戻していた。
セルゲイの愛情は失われた。でも、リオン侯爵の陰謀を暴けば、少なくとも父の失脚は防げる。そして、時間をかけて、セルゲイとの関係を修復することもできるかもしれない。
契約の書に頼るのは、最後の手段にしよう。
まずは、自分の力で戦ってみる。
その夜、私は自室で一人、考え込んでいた。
明日、リュートから情報を得る。
そして、リオン侯爵の陰謀を防ぐ。
父を守り、婚約を守り、未来を守る。
それが、私の使命だ。
窓の外では、星が瞬いていた。
まるで、私を励ましてくれているかのように。
私は拳を握りしめ、決意を新たにした。
もう、逃げない。
もう、後悔しない。
自分の力で、未来を切り拓く。
「セルゲイ様……今度こそ、あなたの心を取り戻してみせます」
呟いた言葉は、静かな夜に溶けていった。




