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(23)自分を捨てる奉仕の精神


 たとえその言葉を言ったことで、今までの自分達の関係が完全に崩壊しようとも良かった。

 芙三の気持ちは、もう兄妹という繋がりでは抑えきれない所まで来ていたのだから。


「……旦那さまと上手く行っていらっしゃらないのでしょうか」


 無表情のまま、彼が放ったその答えにまた泣きたくなった。ここまでハッキリと言っているのに、彼はこの期に及んではぐらかすつもりだ。


「酷い方ね……これだけハッキリと申し上げたのに、まだそのような戯れ言を仰るおつもり?」


 苦しくてたまらない。彼のことを恨んでしまいたくなる。

 これほど辛い思いをするくらいならば、恋などしなければ良かった。


「夫はとても良くしてくださいますわ。わたくしが深窓のご令嬢などではなく、本性は跳ねっ返りでじゃじゃ馬な我儘な女なのだと知っても、何も言わず理解を示してくださいましたので」

「なら、余計にこのような真似はお止めください。これは、貴女のことを信頼してくださった、来栖伯爵家令息に対する裏切りに他なりません」

「その夫がお許しになったので、今回のことを企てたのですよ」


 予想外の答えだったのか、尾坂が目を円くする。まさか、芙三の夫までもがこの一件に絡んでいるとは思ってもいなかったのだろう。

 あくまで、芙三の夫が知っているのは尾坂が九条院の家に行かざるを得ない状況を作るところまで。その後にある芙三の真の企てのことは何一つ把握していないと思っていたから。

 元からイマイチ考えが読めない苦手な人種だったが、この件で今後はなるべく避けたい人間の一人になったことは言うまでもない。なんとなく、尾坂が米国留学中に出会った英国人と似たようなキナ臭さを感じ取ったから。


「……私の何が良いのですか」


 安月給な上に嫌われものの陸軍の中でも、特に泥臭い現場仕事が主な任務の工兵将校。これがまだ騎兵であったらステェタス感覚でお近づきになりたいのだと、少しは納得できた。しかし、砲工学校を首席卒業した恩賜組だと言っても、留学から帰ってきて半年経った今も中央三官衙に呼ばれる気配さえ無い自分と付き合ってなんの旨味(メリット)がある。

 それをたった一言で表して、尾坂は異母妹の答えを待つ。


「むつかしい質問をされますわね……」


 そっと目を伏せて、考える。いったい、自分は彼のどこに惹かれたのだろうか。


 洋琴からいとも容易く綺麗な音を奏でている姿に、だろうか。

 それとも日本人離れした彫りの深い端正な顔立ちに、だろうか。

 はたまた自分達とはまったく違う青灰色の瞳に、だろうか。

 もしくは子供らしからぬ一人前の紳士としての振る舞いに、だろうか。


 思い出せるだけ思い出してもキリがない。そしてそのどれも、ストンと腑に落ちる答えではなかった。


 ……それでも惹かれた。自分ではどうしようもできないくらいに。恋に落ちるとはよく言うもの……まさしくその通りだったのだ。


 たった一目見ただけで、彼は芙三が今まで生きてきた人生──そしてこれからの人生をもひっくり返して変えていったのだから。


「……そうですわね。ふふ……ならばこうお答えしましょう。貴方を見た瞬間───それまでくすんでいたわたくしの世界が、極彩色に変わったと」


 もう、そうとしか答えようが無い。理由などそれだけで充分だった。


「貴方はわたしくしを狂わせた唯一無二のお方。なのに、どれほど頑張って手を伸ばしても、この手は……この想いは、貴方の元へは届かないのです」


 貴方はまるで天に散りばめられた星のよう。

 どれほど美しくても、どれほど手に入れたくとも。まるで宝石のように見えても、伸ばしたその手が決して届くことなどない。

 手に入らぬものに焦がれ、葛藤し……そしてやがては狂っていく。


 それを『恋』と呼ばずに何と呼ぶのだろうか。


「わたくしはただ、貴方の心に消えない傷を残したかったのです。たとえ貴方がこの先結婚しようとも、いつも心のどこかでわたくしの存在が引っ掛かってさえいれば、それで良いの」


 彼の心の中で、一生残って抜けない楔になりたかった。

 たとえ彼の隣に見知らぬ女が立つこととなっても、たとえ彼がいつか永遠の伴侶を手に入れることとなっても。その心だけは……独占させるつもりなど無い。そう誓ったつもりだった。


 しかし現実はいつだって、早々上手くはいかないもの。

 どれだけ我儘を言って振り回しても、どれだけ真っ直ぐ自分の気持ちを伝えようとも、彼の心に傷を残すことなどできなかった。

 氷のように硬く冷たいその心に、楔を打ち込むことはできなかった。


「お兄様。ねえ、お兄様。わたくしのことをどうか存分に罵ってくださいませ。貴方の気がすむまで軽蔑してくださいまし。わたくし、酷い女でしょう? そうまでして、貴方の心にわたくしという存在を刻み付けたかったのです。たとえわたくしが貴方より先に果てたとしても、一生消えない呪いとなりたかったのです」


 堪えて堪えて、耐えられなくなった。頬を温かい水滴が伝う。

 どうしようもなく嫌だった。彼が自分の知らない女を連れて歩いているという事実が。彼のことを良く知りもしない女が、たったの一夜限りでも彼の寵愛を受けていることが。そして───


「貴方とわたくしは、たとえ半分だけの血の繋がりとはいえ実の兄妹。これほどまでに一番近くにいるのに……どれだけ努力しても、貴方と添い遂げることなどできません。だから──だから、一夜限りでも良い。貴方の恋人になりたかっただけです」


 涙はもう止まらない。なぜ、自分だけがこんな目に合うのだろう。

 血の繋がりというのはある意味での呪いであり足枷だ。

 ……好きになってしまったのに、その想いは永遠に心の底に封じておかなければならないのだから。


「貴方はいつかご結婚なさるのでしょう。今から口にすることは、貴方と一生を添い遂げられぬわたくしからの呪いだと思って、どうか拝聴してくださいまし」

「……」

「止められぬというのなら、せめて……せめて、そのお相手だけは……貴方のことをしっかり思いやれ、貴方のために心を砕くことができる女性(ひと)であってほしい。それだけが、わたくしに残された最後の願いです」


 彼が、その瞳の奥で激情を向ける存在はいったいどんな女性なのだろう。

 共に円舞曲(ワルツ)を踊っている際に垣間見た、炎のように燃え上がる激しい感情と執着。それらは全て、芙三に向けられたものではない。どこの誰とも知れぬ相手に向けられたものだった。それがどれだけ芙三の心を抉ったか。


 自分はどう足掻いても彼に傷一つ残せなかったというのに、その存在はあっさりと彼の心に一生解けない呪いをかけていったのだから……


 相手がどんな()なのか、芙三には判らない。だが、これだけは判る。相手は尾坂のことなど気にも止めない軽い存在として扱ったのだと。


 手に入れられぬものにこそ、人は惹かれるもの。

 それを身に染みて理解していたからこそ、芙三はやめてほしかったのだ。


「……残念ながら」


 ふう、と溜め息。身を捩って椅子から降り、音も立てずに床に立った尾坂は、ぼんやりと吹き抜けの天井を見上げながら言葉を探す。


 沈黙がかなり居心地の悪い空気を作る。気まずい、なんてものではなかった。


 それを感じ取ったのだろうか。尾坂はゆっくりと芙三の方を振り返って、そしてその瑠璃色の瞳をまっすぐ向けてこう答える。


「生憎、私は独身主義者でしてね。今後とも、結婚するつもりはありませんよ」


 驚愕のあまりに声さえ出なかった。この時代に自らの意思で一生独身を貫くなど、異端の考えでしかないというのに。


「軍人に妻子など不要です。家族の待つ家があることが最高の幸せ? はっ……馬鹿馬鹿しい。そんなものはただの幻想です。家族など、ただ血の繋がりがあるだけの他人が集まってできた共同体でしょうに」


 せせら笑って嘲笑するその一方で、その瞳の奥には……胸をかきむしりたくなるほどの寂しさが宿っていた。強がっているだけなのだろうか、それとも……


「第一、軍人に対してこれほどまでにしつこく妻帯を勧めてくるのなんか日本くらいですよ。それだけ家族というものに対して、馬鹿のような幻想を抱いているということでしょうけど。私は、誰かと一生を添い遂げるつもりなどありません。もう既に、人生をかけて守るべきものは見付けているのでね」


 人生をかけて守るべきもの。

 今までの話から考えると、それは間違いなく家族ではない。

 では、なんだというのだろう。彼がその命を賭けても守りたい存在というのは、いったいどこの誰なのだろう?


「……それはいったい、どこの誰ですの?」

「個人ではありませんよ」


 ほんの少しの期待を込めて、震える声で囁いた疑問は、呆気なく粉砕されてしまった。

 個人では無い。とすれば、軍人である彼にとって、守るべきものとは、つまり……



「───私が一生を賭けて守るべきものは、この国です」



 ほら、やっぱり。彼は一度だって、芙三ただ一人に向けて心を開いてくれるわけではないのだ。いつだって……これからも、ずっと。


「正確に言えば、この国で暮らす全ての人を守る。私の命を捧げる理由など、それで充分でしょう」

「お兄様……」

「ええ、ですから。お守り致しますよ、貴女のことを─────貴女が、この国の人間である限り」


 トドメを刺されて、今度こそうちひしがれた。

 彼は守ると言ってくれた。この国を……この国で生きる民を。だが、芙三個人を守るとは一言も言ってはくれなかった。

 確かに彼のそれは、紛れもなくこの国への『愛』から来るものだったのだろう。

 だが……それは『恋』では無い。芙三が望んだような、たった一人のためだけの恋ではないのだ。


「……私が貴女に、これだけ触れあうことを許しているのは────ひとえに、貴女が私の妹だから(・・・・)ですよ」


 尾坂は守ることはすれども、決して寄り添うことなどない。

 先に彼が寄り添うことを拒絶して、石を投げたのはこの国の人間だ。白人との混血、自分達とは毛色の違う異端者として。

 たとえ後の世に自分の名前が残らずとも構わない。自分は自分にできることを愚直なまでにやり続けるだけだ。その一生に他人を巻き込むことなど、決してできるわけがない。

 だから、と彼は言葉を繋いだ。



「その恋は───少女の(ユメ)のままで終わらせなさい」



 その恋は侯爵令嬢の自分と共に、この家に思い出として残して行き───二度と戻らぬ輝かしき日々の一欠片として、いつまでも色褪せぬ宝物として大切にしまえばいい。

 無かったことにしなくても良いのだ。その想いを、消してしまうことなど無いのだ。

 芙三の気持ちに応えることは出来ないが。


「……ずるい」


 そんな事を言われてしまったら──と、納得してしまう自分がいる。それが堪らなく嫌だった。


「本当にずるい方です、お兄様。貴方はずるい方です」

「ええ、そうですね。私はとてつもなく卑怯な男でしょう」

「酷いです、酷いですわお兄様。そんな、そんなの……そんなこと、言われてしまったら────」


 侯爵令嬢(少女)としての恋と、伯爵令息夫人()としての恋。そのどちらにも完全に敗れたのだと、認めるしか無いではないか。


 初恋は実らない、と。誰かがそう嘯いた。

 確かにそれは正しかった。それを否定しながらも、心のどこかでは……微かに、もしかしたらという可能性を考えていたのだ。


 どうしようもなく醜い感情だとは判っている。だからこそ、だからこそ──せめて朝露のように清らかな存在であろうとしていたのに。

 自分は彼に遠く及ばない。彼はどこまで行っても完璧な存在で、自分はどこまでも足りない所だらけ。釣り合うはずなどないのだ。


「……どうされますか?」


 不意に、彼がそんな言葉を投げ掛けてきた。えっ、と声を上げて伏せていた顔を上げる。


「|私の靴を隠しに来られた《・・・・・・・・・・・》のでしょう?」


 十四年前のあの日のように。

 ああ、と力なく項垂れる。思い出したのは十四年前のあの日のこと。

 彼がこの家を出ていくその前日にこっそりと忍び込んで───そして彼の靴を隠したこと。


「……御存知でしたのね、わたくしが…………十四年前のあの日に、貴方のお靴を隠した犯人だということに………」


 これほど完膚無きまでに叩きのめされたことなどあっただろうか。

 幼かった頃の自分が犯した悪戯が、とうの本人にあっさりバレていたなど。そして……犯人を判っていながら、何も言わずに新しい靴を下ろして平然とはいて、芙三に何かしらの罰が与えられるのを慎重に避けてくれたなど。

 芙三の考えなど、尾坂には手に取るように判るのだろう。だから……もう、完全に敗けを認めるしかなかった。


「………踊りましょうか」

「……えっ?」

「貴女の気持ちにはお答えできませんが、一曲だけなら踊って差し上げますよ」


 今度はあの夜会のように見せ付けるためではなく……芙三が楽しんで踊れるように。そう────九条院侯爵令嬢としての最後の思い出になるように。


「レコードがあった筈です。それに合わせて踊りましょう。それで、今夜ここであったことは全てお忘れになるよう……お互いに、元の生活に戻りましょう」


 尾坂は広島で工兵連隊の中隊長として。芙三は来栖伯爵家令息夫人として。

 それぞれ、もう交わることのない人生を歩みましょう。


「………ええ、そうね」


 それにふわりと微笑んで、芙三は軽くスカートの裾を摘まんで会釈する。


「もう一度だけ、わたくしと踊ってくださらないかしら? ───尾坂大尉」

「ええ、私でよければお相手いたしましょう。来栖伯爵家令息夫人───芙三さま」


 今夜ここであったことは、二人の胸の内に留められるだろう。そして、二度と日の光を見ることなどない。


 この想いは永遠に、歴史の中に埋もれて消えていく。


 全てが終わる最後の瞬間まで、侯爵令嬢としての彼女と共に……




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