(22)真実と理想の追及
────恋は人を狂わせる。愛は人を引き戻す。
昇華させることのできなかった狂気は、やがては汚泥となって我が身を蝕んでいくのだ。
身を切るような寒さに抱かれて、優しく頬をなぞる風と雪を受けてそっと目を閉じる。
夜会に出ていたときのイブニングドレスの上に軽くストール一枚を羽織った姿で、芙三は屋敷の敷地内にある林の小道を歩いていた。
ここを歩くのも久し振りだ。異母兄がいなくなって以来、長い間この辺りには近寄らなかったから。
(……あら?)
身長が低いのを気にして、それでも優雅に歩けるようにといつもより高めのヒールの靴をはいていたためか、うっすらと積もった雪は靴の中に入ってこない。それ以前に今の芙三にとってはそれよりも最も高い関心事があったので、気にもならなかったが。
初めてこの道を通って、あの離れ座敷に行った日のことは今でもよく覚えている。ちょうど、今日のように雪が降り始める寒い冬の日だった。
遠い外国の御伽噺に出てくるような、その存在全てが完璧の王子様。その概念が生きている人間となって飛び出してきたかのような彼と出会って、芙三の人生は全てひっくり返って変わってしまった。
旧清華の流れを汲み、千年続いた名門の公家華族、九条院侯爵家に産まれた令嬢。
千年という時間に相応しく、九条院家には様々なしきたりが存在している。髪の結い方から、箸の持ち方まで。九条院侯爵家の令嬢という肩書きは、芙三にとって窮屈でたまらないものだったのだ。
侯爵家の令嬢として恥じぬ行動を心がけなさいと口煩く言われ、少しでもそこから外れたらたちまち厳しい叱責が飛んでくる。九条院家の姫君として傅かれ、多くの使用人から「姫さま」と呼ばれる生活を多くの人間が羨ましそうな目で見ていたが、当の本人である芙三にとっては堪らなく嫌な時間であった。
まるで自分という存在を削り取られて、無理矢理型に嵌められていくようで。じわじわと自分が自分で無くなっていくのをまざまざと見せ付けられる度に、どうして自分だけと不貞腐れて。その反発は収まるどころか年々悪化し、学習院の女学部に上がる頃には、皆が望む姿とは真逆の校内一の問題視となっていた。
だが彼と、仙と出会って全てが変わったのだ。
彼は正しく本物の紳士で、そんな彼の隣に立っても恥ずかしくないような淑女になりたくて頑張った。
今まではサボタージュしがちがった琴の稽古も書道も茶華道も、今までやりたくないと駄々を捏ねていた我儘娘が嘘のように芙三は熱心に取り組むようになったのを見て、関係者は全員諸手を上げて喜んだのを覚えている。
彼のためにやっていたのだと、思っていた。だが、現実には違ったのだ。
芙三は彼のためでは決してなく、自分の自己満足のために頑張っていた。
それを突き付けられたあの日のことを……彼女の異母兄が、九条院ではなく尾坂になったあの日の絶望、今なお戒めとして心に刻み付けている。
(もう着いた……)
鮮やかに息づく懐かしい思い出に浸っていたら、ふとした違和感を覚えて立ち竦む。
この道は、こんなにも狭く短いものだっただろうか?
いつの間にか、目の前には白く染まった更地が広がっていた。
いいや、違う。よくみたら白いのは積もった雪。目を凝らして良く見れば、その下で確かに咲いている椿の花。
芙三が立ち寄らなくなって久しくとも、ここにある椿は今でも変わらず紅白の花を木々に付けていた。そう、何も変わらずに……
変わったのだとすれば、それは自分だ。数え十にも満たなかった幼い少女の足では永遠に続く迷宮のようだったあの林の小道も、大人の女性になった今ではお遊びで作られたにも等しい秘密の庭への入口のよう。
成長、したのだろう。それだけの年数。その変化は嫌でも時間の流れを感じさせる。
(嫌ね、わたくしったら……)
侯爵令嬢から、伯爵令息夫人になった今でも───心は、少女のまま。
時間だけが過ぎ去っていき、成長を止めた体は確実に老いへと向かっていっているのが日に日に実感できるというのに。それでもその心だけは、自分の人生を狂わせた出会いの日から何も変わっていない。まるで置いてけぼりを食らったようで、追い付きたくて必死になって頑張った。
なのに……どれほど頑張っても、上手くいかない。芙三の美しい異母兄は、彼女の心の中で消えない傷となってしまっている。
───それを人は「呪い」と呼ぶのだ。
「……?」
気配を殺して椿の回廊を歩いていくと、離れ座敷の中から物音が聴こえてきた。どこかで聞き覚えがある、特徴的な甲高い音。
そうだ、洋琴だ。洋琴の音が聴こえてくる。
滑り込むように体をぴったり玄関の扉に寄せて、そっと目を閉じ聴き入った。
……ショパン作曲、夜想曲第二曲 9-2。
ショパンの夜想曲と言えばまず思い浮かぶ曲だろう。妙に物悲しいが、それなのにどうしようもなく暖かい。
音楽はそれを弾く者そのものを表す鏡だ。同じ曲を同じ楽器で弾いても、演奏する者によって印象は大きく変わる。ひとつとして同じものは存在しない。
彼が、弾いているのだというのはすぐに判った。だって、これはあの日聴いた夜想曲だったから。
歳月を経て、音の奥行きがさらに増したように思える。経験が彼の存在に苦味を与えてそこはかとない艶を贈り、一瞬で引き込まれそうなほど濃厚な色香と化す。それを普段はおくびにも見せず、淡白そうに見せかけておいてふとした瞬間その大人の男の色気を香らせるのは反則だ。
純粋無垢さとはまた違った魅力は、芙三を再び夢中にさせそうだった。ただし今度は、幼く無邪気な少女の恋とは違って……苦さと酔いがほのかに混ざる大人の恋である。
少女の恋と、女の恋。
似ているようで、まったく違う。少女の恋は狂気の周りに憧れと切なさが添加されている儚いものだが、女の恋とは……狂気の中に妄執と性が絡み付く確固たる呪い。
共通点があるとするならば、それは無垢なる狂気というだけ。
(……兄さま、仙兄さま)
───初恋は実らないと良く言うけど、二度目の恋ならどうなのだろう。
そんなことを思考の片隅に追いやりながら、芙三はそっと扉を開けた。
途端に、洋琴の音が止まる。
「────ノックもせずに客人の宿泊する部屋に入るのはどうかと思いますよ」
きゅう、と。心臓を鷲掴みにされたような気がして、思わず胸の辺りをきゅっとその手で掴んだ。
音は立てないように気をつけたはずだったのに、どうしてバレた。念のために気配を殺して、呼吸もか細くそながら足音を忍ばせてここまで来たのに。
「軍人をあまり嘗めないでいただきたい。戦場で生死に関わりますので、我々は幼い頃から音にも気配にも過敏に反応するよう訓練されるのですよ」
素人が付け焼き刃の知識で隠した気配など手に取るように判る。
低く掠れた、甘い声は広い空間によく響いた。声をよく使う職業だからか、それとも単純に荒くれ者揃いの工兵科の将校なので怒号を飛ばすのは日常茶飯事なのか。彼の声は見た目に反して掠れていて、しかし妙に艶麗な声だ。腹の底に良く響いて、ゾクゾクと熱くさせる。
「………」
「無視、ですか」
私の声は聞こえているでしょう。洋琴に備えられた椅子の上に座ったままで、振り返りもせずに淡々と告げる。
それに、どうしようもなく胸を掻き乱された。やっぱり────異母妹のことなど眼中にも無いのか、と。
「……いえ、これはそれ以前の話ですね。夫ある身の淑女が、いくら異母兄とはいえ妙齢の独身男性が泊まっている部屋に無断で侵入するのはどうかと」
「…………兄さま……」
降参だった。いや、そもそも同じ土俵にさえ上がらせて貰えなかった。
脱力し、長く詰めていた息を深々と吐き出す。
結局、彼にとっては妹である芙三など烏合の衆の一欠片。
……彼が相手にもせずに足蹴にした親戚たちより、髪の毛一本分程度でも存在を認識されている分マシだっただろうけど。
それでも───彼の『特別』にはなれないのだと思い知らされて、その事実に心を深く抉られた。
しかしそれでも───告げなければいけない思いがある。
「お兄さま。ねえ、仙お兄さま」
洋琴の鍵盤に手を乗せたまま、じっと固まる彼の背にそっとしなだれた。
室内だからか、上着を脱いで軍刀を吊り下げるための革帯も外した彼は、その下に着ていた白い襦袢と黒い革で作られた軍袴吊りだけという格好だ。身体の線に添うようにぴったりと誂えられた上衣が無いと、また違った印象を受ける。
着痩せをする質であるだろうか。男装の麗人に見えるほど細身で、軍服をかっちり着込んでいる姿はとてもじゃないが陸軍軍人───それも肉体労働が主な仕事である工兵将校とは思えない。
軍服を着込んでいるのに軍人に見えないというのは何か矛盾している気がするが、その表現が一番似合う。
しかし、上衣一枚脱いだらただ細いというわけではないことをハッキリ見られる。
将校と言えども技術屋だからか、尾坂の身体は細身ながらも骨や筋肉の密度が桁外れなのだ。
細い分、ギチギチに詰め込むしかなかったのか。彼はその麗人然とした上品な出で立ちと相反して、服の下は十四の頃から軍人として鍛え上げられた素晴らしい肉体を持っている。
薄い襦袢の生地ごしに小綺麗な顔に反した男の身体の想像を掻き立てられ、思わずごくりと息を呑んだ。
触れてみるとよく判る。指を滑らせていくと、筋肉の繊維一本一本が強靭で、骨と繋いでいる腱も柔軟性と弾力性を兼ね備えていると。それにその骨自体も太く、折れそうなほど細く儚い印象を払拭していった。
「……兄さま」
男らしく大きくて、安心する背中。そっと頬を寄せて、耳を付ける。
心臓の音と、呼吸の音。規則正しく鼓膜を震わす二つの音は、彼が人形ではなくまぎれもない人間だということを証明していた。
それだけ近いと、必然的に相手のにおいも特に意識していないが嗅ぎ取れてしまう。
先程、パーティーで共に円舞曲を踊った時と何も変わらない。機械油と燃料の微かながら存在感のある特徴的なにおいに、爽やかな柑橘系の香水を被せてあまり目立たないようにしているというもの。
しかし、先程とは少し違う。何か、別のにおいが鼻を突いた。何かと思って合致するものが無いか、記憶を底から浚ってみる。
(これ……)
思い出した。これは、医療の現場で使われている消毒用アルコールの臭いだ。つい先程はこんな臭い、しなかったのに。
「……芙三さま」
はあ、と溜め息。ドキッと心臓が止まりそうになって息を詰める。
非常に冷淡な声だ。まるで「近付くな」と言われているようで、明らかに尾坂から拒絶されていることを悟った芙三は悲しくなった。
いったい何が彼を変えてしまったのだろう。
十四年の間に彼は、おっとりとした素朴な優しさを振り撒く少年から、仕事以外に心を動かされることのない冷徹な男へ変貌してしまった。
芙三が尾坂と会わなかった間に、彼がどんな世界を見てきたのだろう。
どれだけ考えても、答えなんか見付からない。何も、教えてもらえない。
なぜなら芙三は女だったから。たったそれだけで、それは知ってはいけないことですと潰されてきた。ただひたすら殿方に従順であれと幼い頃から教えられ、疑問を挟むことさえ許されない世界に──そもそもその発想すら思い付かない世界で生きてきた。
軍隊のことなど、男の世界など、女は知らなくて良い。それが世界の『常識』だった。
常識の壁は分厚く、芙三の細い腕ではどんなに頑張っても壊すことなど叶わない。
これが幼い頃に読んだ物語の中だったのならば、なんて。なんど空想したのか判らない。
芙三が御伽噺の主人公だったのならば、今頃は多くの障害を乗り越えて───恋に落ちた殿方と、誰も自分達のことを知らない遠い所で幸せになれていたのだろう。
「……もう一度、忠告させて頂きます。夫ある身で他の男にそのような行為をされるなど、はしたないにも程があります。もし、貴女が一人前の淑女だというのなら、そのような風紀に反した行いはこれ以降、一切改めるように」
「兄さま───もしかしたらお怪我をされていらっしゃいますの?」
質問にはあえて何も返さず、逆に別の疑問を投げ掛けて封殺する。ピクリ、と鍵盤の上に置かれた指が跳ねた。上衣や帽子は脱いでいるというのになぜか手袋を着けたままの手は、その下がどうなっているのか見せてもくれないことを示唆している。
一瞬だったので見逃しそうになったが、確かに彼は今動じたのだ。
「……貴女が心配する必要はありません」
「胡二郎お兄様が手を打たれた後ですか?」
「判っているのならわざわざ聞かなくとも良いでしょうに」
今、この屋敷にいるものの中で侯爵に秘密を悟られずに尾坂を治療できる者がいるとすれば、消去法で考えると胡二郎しかいない。そしてその予想は見事に当たっていた。
「ねえ。御存知ですか、仙お兄様」
「他人の噂話を口にする前に、貴女にはやるべきことがあるのでは」
声に微かだが苛立ちが混ざり始めた。暗に「さっさと離れろ」と言われているのは判っていたが、あえて真逆の行動を取る。
そのままさらに身体を密着させ、指を彼の肩から腕の方に滑らせていく。固く盛り上がった筋肉の線をゆっくりと、精一杯の誘惑を乗せてなぞりあげると息を詰めて表情を強張らせていくのが感じ取れた。
緊張しているのだ、自分の行動で。
それを思うと、どうしようもなく興奮する。何にも興味がないとばかりにつんとしている尾坂仙という男を、仕事以外のことで動じさせたということが。
ころころと鈴を転がしたような笑い声を上げ、芙三はとうとう尾坂の後ろから抱き付いた。伸ばされた指先は鍵盤の上にある彼の手の甲に重ねられる。
殿方の手だ。男装の麗人のようだと騒がれていても、やはり彼は男なのだと伝わってきて、少し嬉しくなった。
「胡二郎お兄様、帝国大学に通っていた頃に海軍の軍医様と親しくなられたそうですよ」
「───芙三さま」
ふ、と。声の温度が急激に下がった。
ぞわっと肝が冷えるような思いをした芙三は、ビクッと身を震わせて細い身体を硬直させる。
「……私の目の前で、海軍の話を口にするのは止めて頂きたい」
低く、狼が唸るような声。なんとか平静を保とうと必死になっているのは見て取れるが、それでも完全には隠しきれていない。
今の会話の何がいけなかったのか。理由は明白だ。
───海軍。
その単語が彼にとっての禁句だというのは本当のことだったのだと悟り、芙三は密かに嗤った。
「あら、お嫌いですの? 海軍のことが」
「……お止めください、レディ。貴女の口から海軍の話など聞きたくもない」
スッと振り返った彼の瑠璃色の瞳には、底冷えするような光が宿っている。それはまるで、怒りに震える狼のよう。
「どうして? わたくしが海軍のお話をすると、何か不都合でも?」
「レディ、高貴な身分であられる貴女様は存じ上げないでしょう。海軍という所は下士官を使って兵を棒で殴らせ、それを黙認している野蛮人の集団です。それに明治建軍以来、我が陸軍は海軍とは幾度も衝突してきたのです」
思春期の多感な時期に海軍の悪口を聞かされ続けていたら、海軍嫌いになってもおかしくはないだろう。別に不自然な話ではない。
言外にそう告げ、尾坂は目を伏せて憮然とした態度を取る。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
「そうですの? 本当は別の理由があるのではなくて?」
「……坊主憎ければ袈裟も憎い」
えっ、と聞き返しそうになった。それはいったい、どういう意味だ。そんなの聞いていない……と。
「貴女、もしや東京で『鷦鷯』と呼ばれる探偵に出会いましたか?」
「!」
思ってもいなかった名前をボソッと口に出され、驚いた芙三は思いっきり後ろに飛び退いてしまった。
鷦鷯というのは鳥のことではない。東京の片隅に事務所を構える探偵が名乗っている名前を指すのだ。
当然ながら本名では無いだろう。どうもあの探偵、表で当たり障りの無い個人調査等をやりつつも、裏家業の人間と何やらよろしくやっているようだから。
今回、芙三はこの計画を立てるに当たってまず情報を集めることにした。そして、学習院時代の友人の伝を使って紹介されたのが、その鷦鷯という探偵だったというわけだ。
探偵を使ったのはこれが初めてだったが、あれは良い仕事をしてくれた。でなければ、芙三は今でも彼の瞳をくすんだ青灰色だと勘違いしたままだっただろう。
まるで醜いと言われていた灰色の家鴨の子が、純白の翼を広げて天を舞う白鳥に変身したように。幼かった頃は少し青色かかった灰色だった彼の瞳は、時を経て年月を積み重ねたことによって深みのある瑠璃色へと変化していたのだから。
彼が士官学校に通っていた時に再会した時と、まるで別人のようだった。地味で目立たないように気を配っていた彼が、短期間であんなお洒落なモダンボーイに変身するなんて、と。驚きすぎて逆に笑いたくなったほどだ。
とにもかくにも、優秀な働きをしてくれた鷦鷯には感謝している。
だが、問題が発生した。なぜ、その調査対象だった尾坂が、鷦鷯のことを知っているのだ?
「……無言は肯定と見なします。会われたのですね、鷦鷯に」
「ええ……そうです。貴方のことを調べるために」
悪戯がバレたような気分になって、芙三は苦笑する。
十四年───それはあっという間に過ぎ去った、あまりにも長い年月だった。
探偵を使って調べるまで、尾坂に関する芙三の記憶は十四年のあの日で止まってしまっていた。だからこそ、最新の情報を手に入れるために策を労したのだ。
「………レディ。あの男に何かご自身の知られたくない秘密を漏らされたりしましたか?」
「いいえ」
「なら良かった。では、あの男にはもう二度と関わらぬようになさってください。そして、私のことも今後一切お調べにならないように」
私からは以上です。そっけなく返して、尾坂は芙三のことをじっと見つめる。
その瑠璃色の瞳で見詰められると、まるですべてを暴かれているような気になってしまう。
……彼女がひた隠しにしてきた、異母兄への邪な想いも。全て。
「なぜですの、お兄様。なぜ、貴方の近況を知ってはならぬのですか」
「どうしてもです。私にだって、誰にも見せたくない汚い側面くらいございますので」
「いいえ、いいえ。何度言われたって、わたくしは貴方のことを知りたい。もっと、もっと知りたい」
「芙三さま。私は貴女が思っているほど綺麗な存在ではありません」
むしろ、と前置きを置いて。そして一泊溜め込んだ後で、尾坂はそっと囁くような事実を口にする。
「……どれほど外面を美しく取り繕っても、中身は腐り果てて蛆が湧いている。私はそういう男です………そうならなければ生きていけぬ世界で生きてきた男です。この手套を外して、貴女に直に触れることさえできない。貴女を穢してしまいそうになるのが忍びないから…………」
随分と力なく呟かれた一言だった。
まるで……その一言に、彼が今まで歩んできた人生全てが詰まっているような。
「そのようにご自分を卑下なさらないでください。軍人ですもの……ある程度なら何があったのか察して差し上げることができます。ですがお兄様、謀略渦巻く軍という組織の中であっても、貴方の輝きは少しも損なわれておりません。貴方はとても美しいお方です。わたくしはそんな貴方のお力になりたいだけでございますの」
「………」
そっと、目を閉じる。そうすると長い睫毛が頬に影を作って、思わずどきりとするような色香を作っていた。
「芙三さま……貴女は何も知らない」
少しでも『普通』から外れた者に対し、世間が向けてくる冷たい眼差しも。どっち付かずの半端者として産まれた者に、一生付きまとう苦労も。そして………陸軍という組織が抱える、本当の闇というものも。何も、知らない。
知らない───それがどれほど幸福なことなのか、まったく知らない。
どこまでも、どこまでも。彼女は井戸の中の蛙。深窓の令嬢、世間知らずのお嬢様でしかないのだ。
「……無知というものは、人を最悪の愚か者にします。でも、その一方で最高の幸福も与えてくれる」
私の持論です。ふ、と尾坂はその視線で真っ直ぐ芙三を射抜きながら、静かに……だが良く響く声で諭した。
「その無知は、貴女にとって最高の幸福です。どうか───どうか、貴女は何も知らぬままでいてください」
知ってしまって苦しむくらいなら、いっそ知らぬままであったほうが良い。そうやって産まれる歪みや憎しみは全て、自分が引き受けるから。
それが、彼の答えだった。
「……酷い方。わたくしは結局、最初から最後まで蚊帳の外ですのね」
予想はしていた。だが、実際に言われると……覚悟していたよりも、ずっとずっと心が痛い。
それを感じて、またズキズキ痛む心臓とツンとなっていく鼻の奥が辛い。
彼の心に傷を残したかった。だけど、気が付いたら傷付いているのは自分だけ。それも、自分で自分を傷付けているだけの、独りよがりの自己満足で。
それでも芙三は───自分の全てをかけた、自分のためだけの恋をする。
「───恋慕う殿方の苦しみを少しでも理解したいという想いは、間違っているのでしょうか?」
そうやって思わず、口を衝いて出てしまった言葉は───芙三の本音であった。




