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(20)人の痛みを感じられる心


「……は?」

「もう、止めろ。止めてくれ、仙。お前が苦しむのをこれ以上見ていたく無いんだよ……!」


 胸が苦しくなって、それでも震える指を動かして治療を再開する。

 いつの間にか手を止めてしまっていたらしい。胡二郎は尾坂の傷だらけの脚にそっと薬を塗りながら、ぎゅっと唇を噛んで吐き捨てた。


「そこまでしなくったって、お前のことを認めてくれる人はいるだろう? 少なくとも、僕はそうだよ。お前がどれだけ努力をしてきたのか、痛いくらいに良く判るよ……!」

「は?」


 ふ、と。部屋の気温が一気に下がった気がした。もちろん、実際に下がったというわけではない。尾坂が纏う空気に不穏なものが混ざり始め、それに伴って空気が急速に凍り付いていったからだ。


 ───気を付けて続きを言え。という声が聞こえてきそうだった。


 まるで、怒り狂う狼が唸るような低い声。いいや、今の彼はまさしく手負いの狼なのだろう。

 会う人会う人に悪意無く傷つけられた末に猜疑心の塊と化し、警戒心を露にしながら威嚇するよう唸る狼だ。

 怖い、と思ったがそれでもここで引っ込む訳にはいかなかった。薬を塗り付けた脚の傷にガーゼを乗せて、新しい清潔な包帯を巻きながら胡二郎は勇気を出してそれ(・・)を口に出す。


 ───それが、最悪の悪手であることに気付かずに。


「もういい、止めてくれ……!! たとえ世界中の全てが敵になっても、僕は、僕だけはお前の味方だから。だから頼むよ、仙 。もう頑張るのを止めてくれ。お前の頑張りは見ているだけで辛い……!」

「いきなり何を言い出すのですか……兄上?」


 おそらく尾坂自身も何を言われているのか判っていないのだろう。

 声は小さく震え、シーツを掴む指先も白くなってしまっている。それだけ強く握りしめているのだ。

 瑠璃色の瞳を限界まで見開いて、信じられないような思いに表情をひきつらせながら問い質す。

 

「話を、聞いていましたか? 言いましたよね。私は、おおよそ全てに対して完璧でなければ、存在する価値さえ無いと……っ」


 感情の高ぶりを否定し、押さえ込み。なるべく冷静な話し合いをと心がけながら、尾坂は必死になって言葉を選びながら応対する。

 その白い両足に包帯を巻き終えて、胡二郎はもう辛抱ならぬとばかりに叫んだ。聞いているだけでも苦しくて、どうにかしてやりたいと思ったから。だから───


「ああ、聞いていた!─────だから、頼むから止まってくれ、仙!!お前がそんなに苦しむくらいなら、頑張らなくったって良い!完璧じゃ無くて良い!できて当たり前のことなんて無いんだよ。なあ、仙。自分で自分を傷付けるまで追い詰められるくらいなら、|逃げても良かったんだよ《・・・・・・・・・・・》!!」

「────」


 ぶつ、と何かが切れる音が聞こえた気がした。


「今……なんと仰いましたか? 私の耳が可笑しくなっていなければ、確かに『逃げても良かったのに』と聞こえてきたような気がするのですが?」

「言った、確かに言った。逃げ道なんか、探したらいくらでもあっただろ?辛いんだったら辛いって言えば良かったんだよ。苦しいのなら、苦しいって口に出せば良かったんだよ。どうしても我慢できなかったら、僕の所に来れば良かっただろう? お前がそんなに苦しんでいるのだって、知っていたら……僕だって、打てるだけの手は打ったよ………」

「それがどうしたというのです……? 知っていたら、打てるだけの手は打った……?何を馬鹿なことを……そこまでして、医者としての体面に拘られるというのですか……!」

「違う、僕は、お前のことを救いたいだけなんだ!頼む、どうかもう、これ以上頑張るのを止めてくれ!! お前の頑張りが見てて辛いんだよ!!だから……」

「っ、私は………私は、ただ、事実をお伝えしただけです………! っ、……誰がっ─────誰が救ってくれなどと言った!!!!?」


 激昂。一泊の間を置いて、その言葉が瞬時に思い浮かんだ。

 いったい、今の何が弟の逆鱗に触れてしまったのだろうか。胡二郎はてんで判らず、困惑するしかない。


「何をそんなに怒っているんだよ………!仙、こっちはただ、お前のことを救いたいだけなんだ……」

「っ───、─────!」


 何を言って良いのかまったく判らないらしい。言いたいことはたくさんあったが、それらが処理しきれる前に次々とあふれでて、尾坂はその白い頬を紅潮させながら怒りに顔を歪めて薄く開いた唇を震わせるしかできなかった。


「頼むから、僕にお前を救わせてくれ………どうか、一度で良いから立ち止まって、冷静になって周りを見てくれよ、仙………お前の味方は、お前が思っている以上にいるから……なあ………」

「…………」


 が、次の瞬間。まるで燃え盛っていた炎に水をかけたがごとく、黙っていても判るような怒りが鎮火していくのが見てとれた。

 いったいどうしたというのだろう。先程までの火のような危うさは何処へ行った。まるで蝋燭の火がふっと吹き消されるがごとき急激な変化だ。

 怒りによって歪められた表情から一転、いつもの人形のような無表情に戻ってしまっている。


「仙……判ってくれるか………?」

「──もう良いです」


 もう結構。これ以上の話し合いは無駄だ。言外に、そんな台詞が含まれていた。尾坂は、胡二郎の思いを理解したわけではない。

 ───拒絶したのだ。完全に心に壁を作って、二度と入ってくるなと閉め出されたのだ。

 気付いた時にはもう遅い。彼の心は今のでトドメとばかりに完全に閉ざされてしまった。


「……貴方は、努力をすればそれだけ報われる世界しか知らない。それがどれだけ幸運なことなのか、自覚さえしていらっしゃらない。いいえ、いいえ。そもそも、努力ができる環境が与えられたこと自体が、貴方の人生においての最高の幸福だったと、なぜ気付かないのです。貴方の知らぬ世界には、努力さえさせて貰えない者などごまんといる。むしろそちらの方が大多数を占めています。努力したら報われるのが当然だと、なぜそんなにも根拠も悪意も無く、平然とした顔でのたまえるのですか。報われない努力をするくらいなら逃げても良いのだと、なぜそのように簡単に口にできるのですか」


 ───貴方の常識が、世界の常識などと思っているのなら大間違いだ。


 言葉の裏に悲痛な叫び声を隠して、尾坂は続く言葉を紡ぐ。


「私には百か百しか無いのです。零も五十もありません。どう頑張っても一人前にはなれないのですから、他人よりも十倍二十倍努力して努力して。それでやっとこさ皆と肩を並べられる。やっと人間(・・)として扱ってもらえる。それが、千年続いた名門一族に産まれた、混血の子が見てきた世界です」


 暗に「純血の日本人(・・・・・・)で、侯爵の本妻の子供である貴方には一生理解などできない」と示唆しながら、尾坂はまるで独り言のようにポツポツと呟き続ける。

 そこには何の感情も挟まれていない。あるのは事実だけだ。


「逃げる場所など、この地球上のどこにもありませんよ。混血に対する偏見は、何もこの国の者だけではありません。どこの国も同じです。あの、人種の坩堝(るつぼ)とさえ言われている米国だって例外ではない」


 口の端にはいつものような皮肉げな笑みが貼り付けられている。だが……それは、いつもよりもずっと力無く、まるで疲れ果てたように覇気の無いものだった。


「私が、フェンシングの大会で優勝した後に……彼らから何と言われたか教えて差し上げましょうか。彼らは悪意など無く……本当に悪意など無く『君が瑞典に産まれていたら良かったのに』と私に言いました」


 まるで───君が亜細亜人であることが残念だ。と、暗に言われているようで。日本人として産まれて日本人として育ってきた己の人生全てを否定するその一言で、尾坂はようやく夢から覚めることができた。現実を真っ向から見ることができた。


 結局、この世界は灰色の曖昧な存在を認めてくれない。どっちつかずの半端者(・・・)は、擂り潰されて誰も見向きもしない隅に追いやられて、そのまま踏みにじられながら生きるだけ。

 ……どちらからも、混血の醜い家鴨の子(・・・・)として扱われて、白鳥となって湖から飛び立つことさえ許して貰えないのだ。


「米国と日本とどちらがマシ(・・)だったかと? そんなものは意味の無い論争です。どちらも肥溜め(・・・)みたいなものでしょう。そんなもののために態々時間を割いて真面目に議論することなどありません」

「……ごめん」

「謝らないでください。ですが、どちらか選べと言われれば、私はこの国(日ノ本)を選びますよ」


 脱ぎ捨てられた股下と軍袴をそっと手にとって、ごそごそとそれを身に付け始める。長靴を履くために脹ら脛の部分を細く仕立ててある軍袴の、脹ら脛の生地に着いている釦を閉めながら尾坂は思い出したようにポツンと付け加えた。


「………愛国心……って奴か………?」

「愛国心? はっ、まさか。そんな綺麗事でやっていけるほど、世は甘くはありません」


 それはどういう意味だったのだろう。

 帝国の軍人ならば必ず暗記させられるという軍人勅諭(ちょくゆ)の一節にもある通り、軍人は軍学校に入校した頃から愛国心を叩き込まれる。国家への忠誠を誓うようにと数え十四の頃からこの勅諭を薫陶として心に刻み着けていた生え抜きの陸軍軍人ならば、愛国心故に日本を選んでもなんらおかしくない。

 だが、尾坂はそんなことはないと鼻で笑って一蹴した。


「ここは私の産まれた国で、私が育った国。ならばこの国を守ることは、私にとっての義務です。違いますか?」


 そこには愛国心などない。国家への忠誠さえもない。

 ただの義務(・・・・・)───それが正解なのだろう。尾坂は単に、自分には国家に対して貢献する義務があるからこの国を見捨てていないだけだ。


 だが……そこまでされておいて、これだけ愚直に国家に尽くすなど。本当に義務感だけでできるのだろうか。


「ええ、だって。それほど疎まれようとも、どれほど貶されようとも───私の祖国はここ以外にはありませんから」


 ぎゅっと、胸が締め付けられるような気がした。


 彼は、どんな気持ちでこんなことを言ったのだろうか。

 尾坂は胡二郎のことなどまるで知らぬと、長靴を履いてひょいと立ち上がった。


「胡二郎さま、貴方は医者です。これから先、貴方はきっと、そんなご自身の常識が通じない存在を相手にする機会が多々あるでしょう」


 ───そしてその時こそが、私と今日ここで会話した内容を真に理解する時だ。


 コツコツ、と靴音を響かせながら、項垂れる胡二郎の前を通りすぎて。尾坂は寝台の反対側にあった窓の鍵を外して、きぃ、と音を響かせながら開けてみた。

 途端に身を切るような冷たい空気と、柔らかい牡丹雪が室内に滑り込んでくる。

 夜になっても、雪はまだ止んでいなかった。もう辺りは一面真っ白だ。夜だというのに、ほんのり明るくなるくらいには。


「……白鳥というものは、自分が水面下でどれほどの努力を重ねていても。それを決して顔には出さず、優雅に湖面を進んで行くだけです」

「……」

「たとえ私が───家鴨でさえない黒い羽の(カラス)でも。白鳥であれと望まれたのならば、黒い羽を白く染めて、その細い脚で優雅に泳いでみせましょう」


 たとえいつかは溺れ死ぬことが判りきっていたとしても────その瞬間まで、誇り高く躍り続けましょう。


 行く先にあるのが破滅の道だったとしても、ほんの少しの後悔も無い。


 ……少しだけ間を置いて、胡二郎はスッと立ち上がった。


 彼の弟は、救われることなど望んでいない。人には時に、命よりも大切な矜持(プライド)というものがあるのだ。

 尾坂には、尾坂なりの矜持がある。それを守るためならば……救済など、いらぬお節介だったのだろう。


 冷たい風を受けながら、真っ直ぐ前を向き続ける尾坂を置いて。やがて胡二郎は彼の元から去っていった。


 ……十二月の帝都の寒い風だけが、そんな二人をじっと見ている。






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