(16)依存心の強い寂しがり─追想、大正四年─
─────大正四年、四月。
(……なんだ?)
胡二郎が学習院から帰ってくると、屋敷が妙に騒がしかった。特に、仙が住んでいる離れのある方向が。
何か事件でも起きたのだろうかと首を傾げた。しかしなぜだろう。妙な胸騒ぎがするのだ。
今日は弟である仙が府立一中に入学する日だったはず。
昨年の誕生日に仙は父である九条院侯爵に外の学校に入りたいという願いを申し出て、それで入試で全科目満点を取ることを条件として仙が府立一中に入学することを認めたのだ。
侯爵はさすがの仙といえども府立一中の入試を全科目満点で合格できるわけがないとたかをくくったのか、それとも彼ならこれくらいできて当然だという自信からハンデを付けてやるつもりでそんな条件を出したのだろうか。真相は判らない。
だが仙は見事にその条件を満たし、府立一中へ入学することが決まった。
仙にとっては産まれて初めての外出だったが、しかし彼は特にいつもと変わりはない。朝起きて、そのままの調子で学校に行くのを見送ったばかりだ。
仙が外に出たからと言って何かが変わるわけではない。また今日も変わらない一日が終わるのだろうと思っていたというのに、この尋常ではない騒ぎはなんだろう。
「………仙?」
数人の使用人達が、バタバタと慌てて何かを運んでいる。
ぬるま湯の入った桶に清潔な洋手。それと軟膏やガーゼ、それに消毒液といった簡単な怪我の治療ができるもの……
「待って!」
胡二郎は自分に一礼して通りすぎようとした使用人の一人を呼び止めた。止まって振り向いた彼女は、後妻の子である自分にも分け隔てなく接してくれる数少ない使用人だ。他の使用人と同様にかなり焦燥している。
「いったいどうしたと言うのです?」
「ああ、胡二郎お坊ちゃま。今、大変なことになっておるのです」
おろおろとしながら、使用人はしどろもどろになりながらも胡二郎の疑問に丁寧に答えてくれる。
しかし次の瞬間、女中が放った信じられない一言で、胡二郎は唖然とすることとなる。
「仙さまが、仙さまが───同じ中学校の新入生と大喧嘩をされてお帰りになられたのです!」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔とは、こんな表情なのだろうか。と、頭の片隅でもう一人の冷静な自分が分析しているのを尻目に、胡二郎はポカンと口を開けて固まった。
「おまっ……入学初日で喧嘩とか、何考えてんだ!?」
使用人達が大方引き上げた頃合いを見計らって離れに現れた胡二郎は、窓際の洋琴の前にある椅子の上で体育座りをしていた仙に向かって大声を張り上げた。
その綺麗に整った美しい容の左頬には大きなガーゼが貼られ、両手の拳には包帯が巻かれている。しかも、まだ白く清潔な包帯には既に赤い鮮血が滲み初めていて、嫌でもこの弟が喧嘩をしてきたのだという事実を突き付けられた。しかも、両手の拳の皮が擦りむけて血が滲むということは、相当激しい喧嘩だったのだろう。
にわかには信じられなかったのだ。あの仙が、同級生と喧嘩をして帰ってくるなんて。
だって、今日も入学式のために初めて家の門を潜るときも、いつもとまったく変化が無かったから。それに普段の仙は、何が起きても大人顔負けの冷静さで対処ができる一人前の紳士だ。素手で拳を振り上げて、同級生と喧嘩したなどと言われても信じられるわけがない。
しかしながら、仙が喧嘩をしたという逃れようのない証拠は現実として目の前で堂々と転がっている。
これはもう信じるしか無いだろう。
「………」
「おい……仙? お前、何を笑っているんだよ……?」
怒りに震える胡二郎とは正反対に、仙は何が楽しいのか薄ら笑いを浮かべて黙りこくったままである。
初めて見る表情だ。笑い転げたくなるのを必死で我慢しているかのように肩を震わせながら、仙はニヤニヤと口の端吊り上げて笑っていた。
そう、ついさっき血みどろの喧嘩をしてきたというのに、いったい何がおかしいのか仙は心底嬉しそうに笑っていた。
「お前、自分が何をやったか判っているのか……? 父上が欧州の方まで長期出張に行っていたから良かったようなものを、これが父上の耳に入ったら何人の首が飛ぶと思っているんだ」
仙を溺愛してやまない侯爵が現在、遠く離れた欧州に出張中だったのが唯一の救いだっただろう。もし、侯爵が愛する仙が入学初日で同級生と喧嘩をしたなどという問題行動が侯爵の耳に入ったのならば、これ幸いとばかりに仙を退学させて、家で家庭教師から勉学を習う日々に戻す。それだけでなく、使用人の何人かの首が飛ぶ。だからこそ、使用人たちは顔面蒼白で慌てていたのだ。
にも関わらず、仙はそんなの知ったことではないとばかりに笑っている。状況とまったく噛み合わない薄ら笑いに、胡二郎はゾッと背筋が凍るのを感じた。
「兄上、学校って楽しい所なんですね。私、まったく知りませんでした」
「………は?」
今度こそ、弟が判らなくなった胡二郎はポカンと口を開けて間抜け面を晒す。
楽しい? 学校が?
ついさっき、同級生と流血必須の大喧嘩をしたというのに?
「知っていますか? 人を殴ったら拳がヒリヒリするんです。ほら、血も出ている」
「仙……?」
「兄上以外の同年代の子供を見るのは初めてでしたが、私に対してあんなことを言える気骨のある者も中にはいるのですね」
あんなこと。口の中でその一言を反芻する。いったい弟は喧嘩相手に何を言われたのだろう。いやそもそもの話、どこの誰と何が原因で入学初日で喧嘩するに至ったのだ。どう考えても初対面の人間だろうに、仙に対して失礼なことを言える奴が府立一中にいたこと自体にも驚きなのだが。
「私、あの男のことをもう一度殴ってみたいです」
「は?」
「殴り返してくるのか気になるので、殴ってみます。私はただ、あの男が私のことでムキになって怒鳴って顔を歪ませるのをもっと見てみたいだけなのです、兄上。私に府立一中を勧めてくださって、ありがとうございます。おかげで、明日からの学校生活がとても楽しみになりました」
「────」
今度こそ、胡二郎は絶句する他無かった。この弟、今さっきもしかせずとも、喧嘩をしたいがために明日も学校に行くと言わなかったか。
───ほんの少し目を離した隙に、弟がおかしくなった。
仙の表情には嫌味も無ければ、喧嘩の原因となったことに対する怒りもない。
まるで……子供のように、無邪気に笑っていたのだ。それはそれは楽しくてたまらないと言わんばかりの、屈託の無いもので………背中を氷の塊が滑り落ちていくかのごとき感覚に襲われた胡二郎は、ひゅっと息を呑んで口許を抑える。
すると仙はそんな胡二郎の様子を見て、不思議そうに小首を傾げて問い質した。
「どうかなされたのですか、兄上?」
「せん、」
見慣れたはずの弟が、まるで別の生き物のように見えた。
ほんのつい昨日までの彼は、全てにおいて完璧な……完成されたひとつの芸術作品だったのだ。しかし今はどうだ。これではまるで───怪物か何かが人間の心を獲得しはじめたようにしか見えない。
まだ善悪の判断が付かない、物心ついたばかりの幼子のような……
「……とにかく、殴るのはやめろ。問題行動は極力起こすな」
「なぜ?」
「なぜも何もない……! お前が怪我をしたら、使用人の何人かが職を失うことにもなるんだぞ!それに、お前の言うその男だって……ただでは済まされないぞ。父上が知ったら……絶対に、報復をしてくるだろうから……」
そうだ、侯爵は溺愛している仙のためならば労力を惜しまない。何でもしてくるだろう。仙のその軽率な行動のせいで、いったい何人の人生が狂うのだろう。
正しく傾城と言わざるをえない。この弟は、時代が時代だったら国ひとつ滅ぼしていてもおかしくないような魔性を抱えて生まれてきたのだろう。
印度の華陽夫人、古代中国の妲己……平安日本の玉藻御前。時の為政者達をその美貌と魔性で狂わせた女狐達の名前が次々と浮かんでくる。
───初めて自分の弟の本性を垣間見た胡二郎は、そのあまりの恐ろしさに目眩を覚えた。
「……そうですか。では、殴るのはやめます」
一番の恐怖は、当の仙本人がそれを自覚していないという所だろうか。一応は胡二郎の忠告に対して納得したかのような態度を取ったが……殴るのを止めると言っただけで、喧嘩自体を止めると言ったわけではないのは、その答え方で明白だった。
そして胡二郎の危惧した通りに、仙は「あの男」とやらの喧嘩を止めることはなかった。
確かに、殴り合いの喧嘩は月に数回だけとなったが、それでも顔を合わせる度に嫌味と皮肉の応酬は続いている。あらゆる教科で競いあっては常に一位をかっさらっていく仙に対して、永遠の二番手に収まっているらしいその男のことをからかっていたりしているそうだ。
とにかく、学校に行っている仙は生き生きとしていて楽しそうだった。今までの人間味の薄いお人形のような姿はなんだったんだと言いたくなるほど、年頃の少年らしい姿を見せてはしゃぐこともあった。
つい表情が緩みそうになってしまうので、それを耐えるためにいつもあの男が視界に入るとしかめっ面をしてしまう。とも言っていた。
そんな仙のことを、胡二郎だけではなく使用人たちも本当は止めたかったのだろう。今からでも遅くないから、欧州出張中の侯爵に報告して仙を府立一中から退学させた方が良いのでは、と。
だが、使用人たちも胡二郎も、どうしてもそんなことはできなかった。
なぜなら、今まで子供らしい姿など見せなかった仙が、あれほど楽しそうに……十三歳という年齢に相応した無邪気な表情を見せているのだ。まるで機械のようだった彼がようやく得られた、人間らしい心を育てられる機会を奪ってしまうなど。そんな残酷なこと、できるはずもなかったのだ。
そうやって、仙がどこの誰だかわからない喧嘩相手と運命的な出会いを果たして早数ヶ月。
桜が散って新緑が目に眩しい時期になり、すぐに蝉が鳴き始めたかと思えば、紅葉した葉が一枚残らず地面に落ちて枝だけが寂しく残るだけになるまであっという間だった。
まるでぬるま湯に浸かっているような日々が続いて、胡二郎の感覚も完全に麻痺したらしい。十二月になった頃には、もうどうにでもなれ、と呆れ果てて愛想を尽かしていた。
もうすぐ年の瀬がやってくる、師走のある日が来るまで。




