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幻魔はひたすら無言で襲いかかってくる。剣を振り上げる時も無言、槍で刺そうとする時も無言……そもそも目と口がなかった。
「うっひゃあああああああっ! いやあああああああああっ!」
声を上げるのは汐ばかりである。
普段インドアな彼女であったが、現在火事場の馬鹿力発動中。神がかり的に数万の幻魔の攻撃を回避している。
本人は気づいていないが、この世界で神力を扱うためか、多少体力に補正がかかっていたのだ。
(夢、これは夢……! なんて悪夢なのよぉー!)
しかしながら汐も頭から夢だと割り切っているわけではなかった。いつだって「もしかして……?」という疑いに駆られているのだが、そのたびに「信じたくない」気持ちが上回る。現実主義の汐からしたらキャパオーバーの事態だったのだ。
「ふおっ!」
汐はお約束のように小石につまずいて転んだ。何のお約束とは言わない。物事は常に変化を求めているものなのだ。立ち上がろうとしたところに幻魔たちが飛びかかってくる。
次の瞬間、汐は肩からけさがけに剣で切られ、槍で腹を貫かれ、眉間に矢が刺さることだろう。その後は飛びかかられて圧死する。
汐もその時を覚悟して、ぎゅっと両目を閉じたが。
「汐ちゃ~ん!」
母が彼女を呼ぶ声がした。ふいに殺意が湧く。
(娘が死にそうになってるってのに、なんてのんきそうな!)
実際には「汐ちゃんっ!」と母本人としては必死さのある声だったのだが、普段の母がのんびりと構えているだけに母補正が働いたのである。母の心は娘に通じず。
「助けてくれそうな人を探してきたわ! 汐ちゃん、どうにかして神力を扱うの! 頑張れ!」
何度も「頑張る」ことを強要されても困る、と汐は思った。一生懸命でどうにかなるなら、とうにどうにかしているのである。
(せめて、神力とやらの扱い方をちゃんと教えてくれればよかったものを……。母さんはいっつも勢い任せで行動するんだからさ、娘の私がどんだけ大変だったか)
幼稚園の思い出にさかのぼっても思いだせる母の所業が、まるで走馬燈のように脳裏によぎる。
(リンゴジャムを作りたいならさ、まずはリンゴを買うことから始めるべきでしょ……あ、その前にレシピで材料をチェックが先か……)
あまり役に立ちそうにない母の代わりに、スモックを着た汐が自分で近所のスーパーと本屋に買いにいったことを思いだした。そう、汐の母は常に計画性に欠けているのである。
しかし、「助けてくれそうな人」という言葉は気になった。一体、誰が……?
汐が今度こそしっかり立ち上がると、目の前で鬼神のごとく幻魔をなぎ倒す背中が見えた。マントを羽織った甲冑姿。頭髪は銀髪。
……悪魔の観客たちは彼に向かってこう叫ぶのだ……。
「勇者の息子だーっ!」
「フジサキの息子が殴り込みにやってきたぞー!」
「ラルフだ! ルンジイの近衛騎士団長、ラルフ・フジサキだああああっ!」
ヒロインよろしく助けてもらっている汐だが、有難みはちっとも感じなかった。
これはきっと裏があるに違いない。
だから汐は、隙を見てこちらにやってきたラルフ・フジサキが彼女の腰回りをじっくり撫でながら囁きかけても一向に驚かなかった。
「あんた、本当に聖女の娘か? フローレンス様ならこんな姿は見せないだろうなぁ?」
あまりの言い草に、汐は兆発を返すように相手をあざ笑った。
「当たり前じゃないの。私は『フローレンス様』なんかじゃないんだから。そっちこそ、うちの母の言うことはよく聞くんだ? 表では忠犬として振る舞って、裏ではこんなザマってわけ? ……いつまで触ってるのよ、この変態っ!」
不埒な手を剥がそうとするが、上手くいかなかった。相手は大の男である。
ラルフは悪役のように、くっくっく、と笑う。まともに話ができた魔王のほうがまだ紳士である。
「あんたが頼りないから俺が駆り出されるんだ。フローレンス様に迷惑かけているって自覚はあるんだろうなぁ? ああ、わからないか。あんた、フローレンス様がどんだけ帰りたがっていたか知らないものな? でも、帰る先にいる家族ってもんがあんたのような女なら……フローレンス様を帰したくなくなるってもんだろ? フローレンス様のコピーにさえなれない、ただのガキが」
「あんたねっ、言わせておけばっ。ひっ」
ラルフが後ろから襲い掛かった幻魔をまた一体切った。
幻魔たちはこの時も虎視眈々と汐たちを狙っており、しばらくこう着状態が続く。
腰に回っていたラルフの手は今度、汐の胸元を掴んだ。
「ほら、体つきだって全然違う。あんたが聖女の代わりになる? あんたが同じ服装を真似たところで、あんたとサイズが合わないだろ? 貧相な身体だ。……だから俺は、あんたを聖女の娘と認めてない。認めるつもりもない!」
ぷちっ。汐の堪忍袋の緒が切れた。
「そんなの知らないわよ! 何でこんなところに来たわけ? 罵倒しに来たわけっ? 何が『フローレンス様~』なんだよ! ばっかじゃないの! ここにいる私が母親の劣化コピーなわけがあるか! 私は私だ!私は汐! フローレンスに改名した覚えはない!」
「……へえ? あくまで逆らうのか。フローレンス様に似ずに、ずいぶんと跳ねっかえりだな」
「あんたはもう黙ってろ!」
ラルフは黙る代わりに、剣を向けた。……汐の胸元を目指して。
「ここであんたを殺しておけば、フローレンス様もあちらに行こうとは思わなくなるだろ」
「発想がゲスだね、あんたって!」
ここまで来たら汐はちっとも剣を怖いとは思わなかった。アドレナリンが分泌されすぎた興奮状態ではあらゆる感覚が麻痺してくるのである。恐怖感でさえも。
汐は再び両手で輪をつくり、それをラルフに向ける。
彼は呆れた顔を作った。
「あんた、さっき神力発動に失敗したって聞いたぞ」
「うるさい。今から塵に還してやるから、原子単位でやり直して来い」
「いやだね。まだフローレンス様に指一本触れてないからな」
「うちの母は人妻だっつーの! このセクハラ魔! 原子じゃない、もう二度と生まれてくるな!」
その勢いのまま、叫ぶ。
「全部、塵に還れえええええええええっ」
今度こそ、神力は発動した。手の中で神力がふくらみ、目指すところに放つ。戦隊もののビームよりもえげつない破壊力だ。本当に、全部が全部炎に包まれて、塵に変わっていく……。
「……へぇ?」
ラルフ・フジサキ以外のすべてが。大量の幻魔たちが音もなく消えていく。
汐は四方すべてに神力を向け、そこにいた全部の幻魔を消し去ると、さすがに疲れて、膝をつく。身体がだるくて、重くて、眠い。ただ、汐の力に感嘆した観客たちがスタンディングオベーションしているのはぼんやりと感じ取れた。
汐にはもう、ラルフ・フジサキの甲冑の爪先しか見えなかった。
「聖女の娘は、やはり聖女、か……。俺を殺すかと思ったがな」
「……誰がそんなヘマするか。こっちは戦争放棄した国の住民なんだからね」
平和主義で何が悪い。
「俺を殺したほうが後々楽になるがな。何せあんたら家族からフローレンス様を奪おうとしている男だ」
「ほんと、喋るとろくなことを言わない男だよね……。できるもんなら勝手にやってなさいよ。セクハラなしで。娘の私にまで、セクハラ、とか、ほんと、骨の髄まで、セクハラ根性がしみ、つ、いてい、るわ、ね……」
急に身体が軽くなったなと思ったら、ぷつん、と意識が途切れる。
汐の身体がかしぐ。それをすかさず、ラルフが抱き上げた。
彼は主役の代わりに、観客の歓声に応えた。こうすることも、ルールの一つとして定められているのである。
「ああ……。よかった……」
フローレンスは胸に手を当てて、安堵している。彼女には当事者たちのやり取りなど聞こえていない。ただ、頼みにした騎士が娘を助けてくれた。それだけが事実なのであった。
その横にいた魔王は微妙な顔だ。彼は非常にいい目と耳を持っていたので二人のやり取りがすべて筒抜けだったのである。
「これで人間界も魔界もしばらく平和になるわ! 本当によかった!」
「うむ。ううむ……」
魔王としては非常に首肯しずらい。別に彼は人間界を支配しておきたいわけでなかったので、今回の催しの成功は喜ばしいことに違いない。ただ、勇者の息子が聖女の娘に色々やらかしているのが見えてしまっているので、「どうしたものか……」と母親に事実を告げるべきかどうか迷っているのである。
ちなみに今、魔王が見ているのは、ルンジイ王国の麗しき近衛騎士団長が、いとけない聖女の娘を抱き上げている場面だが、彼は彼女の胸とドレスの隙間を凝視しているし、手はばっちり太ももを撫でさすっている。
さらに言えば、告げるかどうか迷っていることがもう一つ。それは以前怒りのあまりに勇者にかけてしまった呪いのことだ。その内容は、「好みの女に出会った時、女自身の拒絶が頑なであればあるほど、無理やり身体的接触を持とうとすること」。つまり、嫌がるそぶりを見せた女に対して、セクハラをかましてしまうという呪いである。……これにより、勇者はでき婚した。そこまで行くとはよほど強情な女だったらしい。さすがに被害者の女性には申し訳ない気持ちを抱いた魔王だが、勇者がそのために彼女にもっと嫌われればいいと思っている。勇者への恨みはそれだけ深かったのだ。
そのせいだろうか、どうやら呪いをかけた時の念が強すぎて、息子にまで遺伝してしまったようだ。
ばっちり聖女の娘にセクハラをかましている。
「聖女フローレンス。シオはもう元の世界に戻るのだな?」
「えぇ。一緒に帰るつもりよ。ああ、早くタカオに会いたいわ!」
「そ、そうか。よかったな……」
もう二度とこちらに来ることがないのなら、大丈夫だろう——。
希望的観測であったが、魔王はそれを信じることにした。一度呪いをかけたものを解除するのは途方もない労力と手間がいるのである。被害者が逃れることができるのなら、それに越したことはない。
「シオ、達者で暮らせ……」
願わくば、勇者の息子の目が届かないところで。
※
起きた汐はふわあっと大あくびをした。起き上がって、目覚まし時計を見たら六時半。
着替えて自室から出ると、台所からお味噌汁の匂いがする。
(あれ? お父さん早いなぁ……)
台所を覗くと、心臓が飛び出るぐらい驚くことになった。
「か、か、か、母さん……!」
「おはよう、汐ちゃん! 今日は帰りに雨が降るかもしれないんだって。折り畳み傘を持って行ってね!」
「わ、わかった……。でも、どうして急に帰ってきたの。っていうか、いつの間に!」
「汐ちゃんが眠っている間によぉ。久々におうちに帰りたくなってねぇ。あ、母さんね、世界中を放浪してきたの、すごくない? 自分でもこんなにたくましくなれるなんてびっくりだわぁ」
そこにスーツ姿の父がやってきた。
「あぁ、二人ともおはよう」
まったく普通であった。どうやら汐の眠っている間にすでに会っていたらしい。
ここでふと思う。
(昨日、寝たのっていつだったっけ……?)
するとぼんやり頭に浮かぶものがあるが、あえてそれを振り払う。この「今」にはまったく関係のないことなのだから……。
ご飯を食べ終わった汐はトイレに向かった。例の、いつまでたってもウォシュレットに換わらない和式トイレである。
開くと。
「おはよう」
「おはよう」
美男美女が挨拶していた。ただの美男美女じゃない、「巨大な」美男美女が雲の上でそれぞれ胡坐と横座りをしながら、汐を見下ろしていた。ギリシャ神話から抜け出してきたような風貌である。
「朝も早いだろうから、手短に言うわね、汐。私はあの世界の女神。こちらは私の夫で全知全能の神よ」
「うむ」
どうでもいい話だが、この美男の脛は剛毛である。
「あなた、この間、神界の方にもドアを繋いだのよね? 夫から目撃したって聞いたわ。それを見込んで、あなたにお知らせしたいことがあって来たのよ」
はあ、としか汐は返事できない。
女神はこほん、と居住まいを少し正すと、ものすごい慈愛の笑みで、
「江口汐。あなたを、デイモイード世界の聖女に認定いたしました!」
バタン、と問答無用でドアを閉じた。汐は無言のまま、つかつかと台所に戻り、
「母さーん」
そして母親に今日のお弁当を要求したのであった。
色々ツッコミどころはありますが、そのうち活動報告などで呟くかもしれません。
ありがとうございました!