12
「異動でもかまわなかったんだが……」
社内の調整の結果、一週間ぶりに出社することになった橋場は、まだ誰もいない、始業一時間半前の第二営業部のデスクについた。あの日も、一時間早く着いて油断してしまったのだが、一時間半前となるとフロアは暗くて、人の気配はなかった。
照明をつけて懐かしささえ感じるフロアを見渡す。そして全身に意識をめぐらす。違和感はない。ごく短い毛が生えてきた頭を撫で、ネクタイの締まり具合を確かめ、パンツの線を指でなぞり、股間のポジションを直した。
「橋場先輩。おはようございます」
「……なんでこんなに早いんだ、おまえ。会社に寝泊まりしてるのか?」
ピヨは左右の手にコーヒーカップをひとつずつ持って現れた。ひとつを橋場のデスクに置く。
「そんなわけないでしょ。第二のコーヒーメーカー、まだ壊れたままなんですよ。だから第一のほうでいれてきました」
「……ありがとう。あとで総務に言ってこようか。新しいのを買ってくれないなら、裸で走り回るぞって」
「それ、撮っていっすか」
ピヨはにやにやと笑ってスマホをかざした。
橋場の緊張をほぐすために早く来てくれたのだろう。橋場は胸中で優秀な後輩に感謝した。冗談を言うことはあっても、悪目立ちせずにいつも控えめな態度のピヨだ。朝倉のストーカーに仕立てあげられそうになったのは閉口したが、あれはピヨらしくなかった。きっと混乱させたのだろう。
「始業までのあいだ、ゲームしません?」
ピヨはスマホをデスクに平置きした。橋場にも同じようにするよう促す。
「ゲーム?」
「スマホの予測変換で最初に出た文字の強い方が勝ちです。『あ』はどっちも『朝倉』ですかね。じゃあ『い』は?」
勝手にゲームが始まった。橋場の『い』は『いいけど』だった。ピヨのは『今』。
「強いとかないな。引き分けか。ちなみに俺の『う』は『海』だぞ」
「僕のは『上』ですねえ。どっちが強いかわかりませんねえ。ハ行にします?」
「ハ行って、どうせおまえのは……」
ピヨのは間違いなく『橋場』か『橋場先輩』だろう。橋場のそれは『バカ』だが。
かといって次の『ひ』を開くと橋場のスマホは『日代鳥』か『ピヨ』である。危険信号が灯った。
「あ、俺、日経チェックしないと」
そそくさとスマホをしまった。いまさら古き良き商社マンに見せかけようとしても何の効果もないのは承知している。ただ代わり映えのない日常に逃げたいのである。
誰も気にしないレベルの存在でいれば誰からも排除されない。それが橋場の処世術でもあったからだ。
「『ひ』で思い出しましたけど、いいですか先輩、人という字は」
ピヨは日経を引き裂くように遠ざけた。パサリと床に落ちる。
「今どきそんなこと言うやついて、びっくりだな」
冷静を装いながら、日常が壊れる予感に胸中でおののく。
「お尻の割れ目を表してるんですよ。人生を凝縮すると尻に行きつくんです。僕は行きつきたい、先輩の――」
橋場は動けなかった。違和感もなりを潜めたままだ。なぜだ。なぜこういうときにおとなしくなるのだ。それを言い訳にしてトイレに駆け込みたいのに。いや、だめだ。トイレに逃げ込むほうが危険だ。
おかしい。朝倉のストーカーが目の前に現われたらギッタギタに叩きのめしてやると鼻息を荒くしていた俺が、後輩に怯えるなんて。全身の感覚がまるで死んだように麻痺している。他の社員がやってくるまであと一時間以上ある。
違和感、せめておまえを感じたい……。
了
はからずもBLっぽく終わってしまった。
予定はしていなかったので、BLのタグにつけていませんでした。
嫌いな方の目に入っていたら申し訳ありません。
(作者はBLアラフォー受は嫌いではありません……)




