灰色の塔に届く夜
リディアだった。
灰色の塔の廊下に立つ彼女は、いつもの離宮で見る姿と変わらないように見えた。背筋は伸び、髪は乱れず、袖口も正しく整っている。けれど、その手には厚手の布包みがあり、背後には見覚えのある執事が控えていた。
その後ろに、侍女たちと従僕たちが続いている。
侍女のひとりは保温壺を抱え、ひとりは毛布を重ね、もうひとりは茶器の箱と洗面の籠を持っていた。
さらに後ろでは、従僕たちが折り畳み卓、替えの手袋、肩掛け、外套、簡易寝具を抱えている。
灰色の塔の最上階へ、離宮の夜がそのまま運ばれてきたみたいだった。
リディアは、わたしへ深く一礼した。
「差し出がましいことと思われましょうけれど、参りました。お嬢様」
観測室が、沈黙した。
ヴィルが、眉間に手を当てる。
「……先王陛下の手回しか」
「はい。グレイハワード先王陛下からのご命令でございます。ミツル様が夕刻を過ぎてもお戻りにならない場合には、こちらへ支度を整えるよう、申し付かっております」
「お祖父さまが……」
思わず呟くと、リディアはほんの少し目を伏せた。
「それと、ローベルト家へはすでに使いを出しております。ご家令様宛てにも、大学側からの正式な連絡として伝わるよう手配しておりますので、どうかご安心を」
「え、わたしまで……?」
ソレイユが目を瞬かせた。
リディアは彼女へも丁寧に一礼する。
「夜更けの塔で、これ以上ご無理を重ねていただくわけにはまいりません。ですが、ミツル様のお力になってくださったこと、深く感謝申し上げます。どうか、ここから先は温かいものを召し上がってから、お休みください」
ソレイユの頬が、困ったように赤くなった。
「ええと……はい。ありがとうございます。あの、でも、わたしの家のほうは本当に大丈夫でしょうか。うちの母は、こういう連絡を受け取ると、たぶん少し大げさに心配するので」
「その点も含めて、先王陛下の御名で書状を整えております。ソレイユ様がご無事であること、王立魔術大学の記録補助として正式にお力を貸してくださったこと、今夜はこちらで手配した客室でお休みいただくこと。順を追って、お伝えいたします」
言葉は事務的に整っているのに、リディアの手は保温壺の布包みを受け取り、侍女へ置き場所を示していた。声で説明しながら、もう生活の支度を始めている。その隙のなさに、ソレイユは一度だけ目を丸くした。
「……すごい。もうぜんぶ、考えられているんですね」
「お嬢様が素直にお戻りになるとは、先王陛下もお考えではございませんでしたので」
リディアの声は、穏やかだった。
そのあまりの正確さに、わたしは言葉を失う。
「リディアさん、わたし、まだ何も言っていないのですけど」
「はい。ですがお顔に書いてございます」
リディアの視線が、わたしの左手へ下がった。王都図の端を、まだ押さえている手を。
「そんなことはないでしょう」
「ございます。お嬢様は、お言葉にはなさいませんけれど――不肖このリディア、そこはすべて承知しております」
ヴィルが腕を組んだまま、低く息を吐いた。呆れではなく、たぶん安堵の混じった息だった。
「さすがはリディア。いい判断だ」
「ヴィルまで」
茶器から立つ湯気が、視界の端をゆるく横切っていった。
「お前が言われたことを素直に聞き入れる質か。俺は散々見てきたぞ」
「否定できないけど、その言い方はないわ。ひどいじゃない」
「昨夜も先王陛下が手を打ってくれたから、なんとかなった。なら今夜も、その手に乗ればいい。何よりここを離れずに済む。それは事実だろう?」
あまりにも平然と言われて、返す言葉がなくなった。
リディアは、そのやりとりを聞かなかったことにしたように、侍女たちへ手順を示した。折り畳み卓が観測室の隅に据えられ、茶器が置かれ、保温壺から湯気が立つ。湯気には薬草の青い匂いと、蜜の甘さが少しだけ混じっていた。
湯気の立つ茶が、わたしの前へ置かれた。
器の縁に触れた掌が、じんとした。
じん、としたのは、茶が熱かったからではなかった。器そのものは、手で包める程度の温さでしかない。けれど、それだけの熱が、冷えきった掌には痛いほどはっきり届いてしまう。指の腹が、器の丸みをなぞるように沈んだ。離すべきだと思うのに、離せなかった。
王都図の紙は冷たい。インク壺の縁も、文鎮も、灯信窓の枠も、塔の中にあるものはみな石と鉄の温度をしていた。その中にひとつだけ、人の手で温められたものが置かれている。
「お嬢様?」
「……なんですか」
「お手が、すっかり冷えていらっしゃいます」
リディアの視線が、わたしの手に落ちた。
茶器を包む指が白い。爪の先だけが薄く紫を帯びている。自分では分からなかった。紙の上に手を置いているとき、指先の色は紙の白さに隠れてしまうから。
リディアが侍女から温めた布を受け取り、わたしの手のそばへ差し出した。茶器から手を離し、布を受け取る。厚手の麻布で、湯で絞ったあとの湿り気がまだほんの少し残っていた。布の温度が掌へ入ってくると、指の関節がゆっくり緩んでいく。それまで王都図の端を押さえていた力が、抜ける、というよりも、保てなくなっていく感じだった。
温かいものに触れて初めて、冷えていたことに気づく。
それと同じように、身体のほうが先に思い出していた。
離宮へ戻ってから仮眠は取った。けれど、眠れたのは四時間にも満たない。朝も軽く済ませただけで、ここへ来てからは、ろくに食べてもいない。茶も、まともに飲んでいない。ずっと、王都図の上に手を置いていた。冷たいものだけに触れて、自分が冷えていることを忘れていた。
「リディアさん?」
「はい」
「怒ってます?」
問いは、思ったより小さく出た。
リディアは一度だけ瞬きをした。それから、わたしの手を包んでいる布の端を、少しだけ整えた。
「正直申し上げますと、少しだけ」
「……そう、ですよね。いつも勝手ばかりで、すみません」
「ですが、お小言を申し上げるのは、温かいものをお召し上がりになってからにいたします。空腹の方へ申し上げても、正しく届きませんので」
「結局怒られるんですよね」
「必要とあらば」
逃げ場のない丁寧さだった。
侍女が小さな皿を置く。薄く焼いたパンに、やわらかいチーズと香草が挟まれていた。重すぎない軽食。チーズの端から、ほんのわずかに湯気が立っている。焼き立てではない。けれど、誰かが壺の中で温めて持ってきたのだろう。塔の石段を上る間も冷めないように。
ひと口かじると、パンの表面がかすかに割れて、チーズの塩気と香草の青さが、舌の奥へゆっくり広がった。
そこで、喉が詰まった。
うまい、と思ったのではない。身体がそれを、あまりにも素直に受け取ってしまったことに、不意を突かれたのだった。食べたかった。知らないうちに、ひどく食べたかった。
分かってしまったことが、少し悔しかった。
「軽めのお食事もご用意しております。無理に多く召し上がる必要はございませんが、胃を空にしたままでは眠りも浅くなります」
「まだ眠るとは言っていないですよ」
「お嬢様……」
リディアの声が、ほんのわずか低くなった。強くはない。けれど、逃げられない。
「三十分だけでも、横になっていただきます」
「三十分……」
その短さなら、と身体が勝手に計算しようとする。
その間に第二便が来るかもしれない。未分類地点の追加記録が届くかもしれない。灯信が返るかもしれない。空白の意味が変わるかもしれない。
そう考えた瞬間、ヴィルが言った。
「見張りは俺が引き受ける」
短い声だった。
さっき肩に残った熱が、また遅れて疼く。
「パウエルが灯信を受ける。必要なら俺が起こす。それでいい」
「必要なら、では困るの。わたしにとって必要かどうかは、あなたたちが見た時点では分からないでしょう。小さな符号のズレでも、あとで繋がるかもしれないし、南港と運河筋の時刻差がもう一度返ってきたら、それは――」
「全部起こしていたら、お前は眠れん」
ヴィルの声は、少しだけ低かった。
正しい。けれど、それだけでは飲み込めない。
リディアが、寝台の枕元へ置く灯りの覆いを侍女から受け取った。
「では、基準を決めましょう」
生活の手順を整えるような声だった。
「灰色の塔の管理をお預かりの、パウエル様でいらっしゃいますね?」
「はい」
「パウエル様が急報をお受けになった場合、または総長閣下からの直接のご指示が届いた場合には、わたくしが即時、ミツルお嬢様をお起こしいたします」
「わたしが休んでいる間、記録はどうするんですか? 分析は? 時刻と符号を控えておかないと」
「三十分。それだけでございます」
「三十分も……」
「その間、パウエル様と、こちらの執事キーロンがお手伝いいたします」
一歩後ろに控えていた執事が、静かに進み出た。年嵩の男だった。離宮の朝に、扉の開閉や伝令の手配で何度か見かけた顔。けれど今は、茶器ではなく、革表紙の控え帳と細い筆記具を手にしている。
「離宮にて執事を務めさせていただいております、キーロンでございます」
彼は深く頭を下げた。
「ミツル様がお目覚めになった時、最初にお読みいただけるよう、パウエル様がお受け取りになった記録は、一項目も漏らさず、順番を崩さず、正確に整えておきます」
リディアは、わたしの肩にそっと薄い肩掛けを載せた。触れ方は、いつものように正確だった。布の端を整え、髪を挟まないように手で払う。その手つきに、離宮の朝や、湯浴みのあとや、食後の茶の時間が、ほんの少しだけ戻ってくる。
「わたくしどもが参りました訳を、お察しいただけましたでしょうか」
そこで、彼女の指が一度だけ止まった。
「……今夜くらいは、お嬢様のお力にならせてくださいませ」
言い返せなかった。
塔の冷えた石の中へ、離宮の生活の手が入ってくる。
リディアの手も、キーロンの控え帳も、侍女たちが広げる毛布も、わたしだけを見ているわけではないのだろう。
母を知っていた人たちの手だった。
メイレア王女へ届かなかったものを、その娘であるわたしへ、今度こそ届かせようとしている。そんなふうに受け取ってしまうのは、少し甘えすぎなのかもしれない。
けれど、それは甘やかしだけではなかった。観測を止めないために、わたしの身体を切り離さない手順だった。
ソレイユは、台帳を胸元から少し離した。
すぐに手放すのが惜しい、というより、どこまでを自分の手で終えたのか、最後にもう一度だけ確かめているようだった。赤い印の列へ視線を落とし、青い印の途中で、指が止まる。
「続きは、ここからです。赤い印は、わたしが写した分だけ二重線を引いてあります。青いほうは、まだ確認途中です。あの、わたしの字が怪しいところは、無理に読まずに飛ばしてください。朝、ちゃんと読める手で書き直します」
パウエルが、記録板を抱えたまま静かに頷いた。
「承知しました。助かります、ソレイユ嬢」
その頷きを受けて、キーロンが一歩前へ出る。
ソレイユは、両手で台帳を差し出した。キーロンは深く頭を下げ、表紙の向きを崩さないように受け取る。革表紙の角に、ソレイユの指の跡が薄く残っていた。ずっと同じ場所を押さえていたのだろう。
「お預かりいたします。お目覚めの後、すぐ続きへ戻れるよう、順を崩さず整えておきます」
「ありがとうございます。あの……ミツルさん」
呼ばれて振り向くと、ソレイユは台帳を手放したあとの両手を、少し所在なさげに握っていた。
「わたしは、朝まで休ませていただきます。でも、朝になったらまた手伝えると思います。だから、ええと……ひとりで全部、今夜のうちに終わらせようとしないでください。ミツルさんが全部終わらせてしまったら、わたし、明日の朝に何を手伝えばいいのか分からなくなります」
その言い方が、妙にまっすぐだった。
わたしは苦笑しようとして、うまくできなかった。
「……ありがとう、ソレイユ」
「はい」
ソレイユはほっとしたように頷き、リディアに促されて前室のほうへ向かった。けれど、その背中が前室へ向かう途中で小さく揺れるのを見て、わたしは手放された台帳のほうへ視線を落とした。彼女も、ずいぶん無理をしていたのだと、その重さがあとから教えてくる。
――わたしが、連れてきた。なら、帰すところまで責任を持て。
言葉が、もう一度、舌の奥に残る。
控え室の支度が整ったと、侍女が控えめに告げた。
観測室の隣にある控え室へ、簡易寝台が運び込まれていた。扉の向こうで、布を広げる音がする。毛布を払うやわらかな音。木脚が床に置かれる低い音。灯りの覆いを外す音。灰色の塔には似合わない生活の音が、ひとつずつ部屋の冷えを薄めていく。
それでも、王都図の赤い印はまだそこにある。
わたしはもう一度だけ卓へ戻りかけた。
ヴィルが何も言わず、半歩だけ進路に入った。
触れない。
ただ、そこに立つ。
それだけで、さっきの言葉が守られているのが分かった。
触れる前に声をかける。
触れないで止めることも、彼にはできるのだった。
そのことに、みぞおちの辺りが窄まる。
「言っておくけど、寝るのは三十分だけよ」
わたしは、ようやく言った。
「分かっている」
「なにかあったら、本当に起こしてね。急変だけじゃなくて、未分類地点の追加も。あと、総長室から直接何か来たら、どんな内容でも」
「リディアが基準を決めただろうが」
「だから、確認しているの」
「確認は一度で足りる」
「わたしには足りないの」
ヴィルは、ほんのわずかだけ目を細めた。
以前なら、そこで呆れたように頭を撫でられたかもしれない。あるいは、肘を引かれて、いいから寝ろ、と言われたかもしれない。
でも彼は、手を伸ばさなかった。
「なら、もう一度だけ言う」
低い声が、観測室の灯の下へ落ちる。
「急変、新規発動、未分類地点の追加、総長閣下からの直接指示。この四つは起こす。それ以外は俺とパウエルが受ける。記録は崩さない。お前が起きたら最初に読ませる。これでいいな?」
その言葉は、リディアの手順をヴィルの声で繰り返しただけだった。
けれど、わたしの身体は、そこでやっと力を抜いた。
「……ええ」
「いいから、早く寝ろ」
「その言い方、やめて」
「寝ろ」
「もう……」
文句の形をしているのに、声は弱かった。
控え室の寝台は、急ごしらえとは思えないほど整っていた。
離宮の薄い毛布。温められた布。薬草茶の匂い。枕元には、小さな灯りがひとつ。
毛布の端に、離宮の匂いが残っていた。
わたしは寝台へ腰を下ろした。
靴を脱ぐと、足先が急に心細くなった。石床の冷えから離れたのに、身体の輪郭がほどけていくようで、思わず毛布の端を掴む。布はあたたかく、掌へやわらかく沈んだ。
リディアが寝台の横に茶器を置いた。
「お目覚めになった時のために、薄めの薬草茶を残しておきます。甘さは控えめにしております」
「わたし、甘いのでもよかったのに」
「眠る前にそれをおっしゃる方へは、控えめでちょうどよろしいかと」
「……リディアは、時々とても容赦がないわ」
「少しだけでございます」
そう言って、彼女は灯りを絞った。
ヴィルは扉のそばに立っていた。
近すぎず、遠すぎない位置。
さっき肩に触れた人と同じ人なのに、今はただ見張りの位置にいる。こちらへ踏み込まない。けれど、背中を預けてもいい場所には、ちゃんと立っている。
「ほんとに三十分で起こしてよ?」
「起こす」
「……ほんとうに?」
「しつこい。約束は守る」
約束。
その言葉が、控え室の空気の中へ、ことりと落ちた。
リディアが絞った灯りの下で、茶器の縁だけが淡く残っている。
横になる。
眠るつもりはなかった。ただ、目を閉じるだけ。三十分だけ。何かあればすぐ起こしてもらう。そう自分に言い聞かせる。王都図の赤い印も、青い印も、薄墨の保留欄も、頭の中へ置いたままにしておくつもりだった。
けれど、まぶたを閉じた瞬間、赤い印が暗闇の中でひとつずつ遠ざかっていく。
南港。運河筋。救護区外縁。未分類の三地点。空白。
触れられた肩の熱。
薬草茶の匂い。
扉のそばに立つ人の、動かない気配。
どれも消えないのに、輪郭だけが少しずつぼやけていく。
遠くで、灯信の覆いが閉じる音がした。
短く、ひとつ。
それきり。
月は、まだ王都の上にあった。
眠る前の最後に、そう思った。
きれいだった。
思ってしまった。
あんな夜なのに。
それでも、この街を、きれいなものが残る場所のままにしておきたかった。
その確かさだけを抱いて、わたしは少しだけ、眠りに落ちた。




