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薄い場所

「……ミツル?」


 お祖父さまの声に、顔を上げる。


 紙の上に置いた指が、知らないうちに少し震えていた。慌てて引こうとして、けれど、引けばその線まで消えてしまいそうな気がして、わたしはそのまま指先を置き直した。


「わたしは、薄い場所はきっと安全なのだと、そう思い込んでいたようです」


「ん、違うのかね?」


「……まだ、はっきりとしたことはわかりません」


 言葉は、すぐには出てこなかった。


 濃い場所は分かりやすい。何かが起きた場所。漏れた場所。焼けた場所。人の身体が変わり、空気が濁り、記録として残った場所。


 けれど、薄い場所は違う。


 何もないように見える。だから、目が滑る。けれど、滑ってしまうからこそ、そこに何かを通せるのかもしれない。


「一見すると、薄い場所は安全に見えます。ですが、もしそれが意図して薄くされているのだとしたらどうでしょうか?」


「薄く、されているだと?」


 お祖父さまは、静かに言葉を繰り返した。


 責める色はなかった。こちらがまだ触れたばかりの違和感を、指先で壊してしまわないように、そっと受け取る声だった。


「はい。魔素がないのではなく、吸われている。あるいは、魔素の通り道になるよう、あらかじめ整えられている。そう考えたほうが、線が繋がるような気がしたのです」


 言ってから、自分の声が少し掠れていることに気づいた。


 喉の奥が、細く塞がる。


 発動した場所が怖いのではない。


 発動しなかった場所まで、何かの形へ寄せられているかもしれないことが怖かった。


 助かった人たちの道まで、誰かの術式の上にあったのだとしたら。


 守るために移した先が、敵の見たかった線の一部だったのだとしたら。


 それでも、移さなければ、きっともっと多くの人が傷ついていた。だから、間違ってはいない。


 けれど、その正しさの下で、別のものが静かに息をしている。


「つまり、それが一定の規則をもって繋がるならば、魔法陣として機能しうる。君は、そう見ているのかね?」


 部屋の空気が、一拍だけ止まった。


 魔法陣。


 お祖父さまの口から落ちたその言葉は、既存の魔術の棚に収まる名だった。術式を描き、魔素を通し、定めた現象を現すための輪郭。大規模な陣であれば、王都を焼き、裂き、押し潰すだけの現象を呼ぶこともある。


 その可能性に思い至った瞬間、指先の下の紙が、急に薄く感じられた。


 わたしはすぐに首を振った。


「いいえ、まだ断定できません。今の段階では、ただの想像に過ぎません」


 否定したはずなのに、紙の上の線は消えなかった。


 西門から練兵場へ向かう道。市場の裏手。運河筋の橋。診療所の脇。灯信の届く高台。誰も倒れなかった場所。濁りが薄かった場所。人が、まだ人のまま通り過ぎた場所。


 それらは、救いの痕跡であるはずだった。


 けれど、同じ紙の上で見ると、その救いの痕跡は、何かの輪郭にも見えた。


「けれど……偶然の散らばり方ではないと思います。もしこれが、術式の輪郭なのだとしたら。もしそれが繋がることで巨大な魔法陣として機能し、発動することになったなら、我々の予想もつかない何かが起こり得る。そう愚考いたしました」


 声が、思ったより小さく落ちた。


 パウエルが、羽根ペンの先を止める。


 ヴィルは何も言わなかった。ただ、半歩後ろの気配が、わずかに近くなる。振り返らなくてもわかった。彼はわたしの言葉ではなく、呼吸のほうを聞いている。


 お祖父さまは、しばらく紙を見ていた。


 窓の外で、昼の光が揺れた。遠くの王都は、まだ騒がしいはずなのに、この部屋までは音が届かない。届かないぶんだけ、紙の上の沈黙が濃くなる。


「……よろしい」


 やがて、お祖父さまが言った。


「クロセスバーナの技術が既知の魔術理論の枠外にあるのだとすれば、君の懸念はもっともだ。念のため、薄い場所も観測項目に入れよう」


 その一言で、止まっていた息が、ようやく喉を通った。


「濃い反応だけを追えば、すでに起きたことしか見えぬ。だが、起きなかった場所、薄く整えられた場所、避けられた道筋を除けば、こちらは次に何を守るべきか見誤る」


 お祖父さまの指が、王都図の端をそっと押さえた。


「未発動地点を除外してはならん。安定者の経路も、避難民だけでなく市民側の移動も、同じ図へ置く。薄い場所ほど、空白として扱うな。線として繋がるようなら、そのまま図へ落としてもらいたい」


「はい」


 返事をしてから、ようやく指先を紙から離した。


 爪の先に、乾いた墨の匂いが残っている。


 発動した場所だけを結べば、敵の線が見える。


 発動しなかった場所を置けば、人がまだ人でいられた線が見える。


 けれど、その二つを重ねたとき、王都は、ただの地図ではなくなっていく。


 まだ、名はつけられない。


 けれど、これは偶然とは言い難かった。


「ただし」


 お祖父さまは、声の底を硬くした。


「この体制は、監視ではない。あくまで観測である。そのことを、ゆめゆめ取り違えてはならん」


 その声に、背筋が静かに伸びた。


 監視。


 その語には、王宮の匂いがした。守るという名目で扉を閉じ、安心という名で自由を狭めていく場所。わたし自身が、そこへ結ばれかけたからこそ、その違いを間違えてはいけない。


「人を見張るのではない。人の中へ仕込まれたものを読むのだ。人を囲い込むのではない。起動導線から外すこと。これを最優先とする」


 背筋に残っていた冷えが、ほんのわずか、ほどけた。


 人を囲い込まない。


 危険の印をつけるためではなく、危険から外すために読む。その違いを、紙の上で取り落とせば、現場ではもっと大きく歪む。


 わたしは顔を上げた。


「お祖父さま、そのお言葉、肝に銘じます」


「そうだ。観測し、照合し、検証する。それこそが魔術大学の本分だ。剣だけでは届かぬ場所がある」


 お祖父さまは頷いた。


「保護するには、正確な情報が不可欠だ。恐怖を理由に、人を括ってはならない。そこを誤れば、クロセスバーナが仕掛けたものよりも、我々自身の手が、王都を傷つけることになる。軍を正しく動かすためにもな」


 紙の上に置かれた王都図が、昼の光を受けて白く沈んでいる。そこに記された点も線も、人の暮らしの上に置かれているのだと、あらためて思った。


「ゆえに、これは軽い仕事ではない」


 その言葉は、紙の上に落ちるより先に、胸の内側へ落ちた。


 わたしは昨夜、人を点にした。


 けれど、点にしたまま、忘れてはいけない。点の向こうには、足の裏の痛みがあり、喉の渇きがあり、名前があり、逃げた先で誰かを探す目がある。王都図の上では小さな印でも、その印は、人の息を持っている。


「ならば、避難民の区画だけではなく、市民側の移動も、同時に見なければなりません」


 言葉が、自分でも驚くほど、自然に出た。


 図に置いた線は、ただの線では済まない。現場へ渡れば、それは誰かを動かす理由になる。


「避難民だけを線で囲えば、そこが危険だと示すことになります。市民側の恐怖も、接触も、噂も、同じ図へ置かないと……原因を、読み違えます」


「その通りだ」


 お祖父さまは、静かに笑った。


 今度の笑みは、祖父というより、研究者のものに近かった。けれど、その奥に、孫を誇るような柔らかさがわずかに滲んでいる。本人は、たぶん気づいていない。


「君はもう、読む場所へ戻っているようだね。それでよい」


 言われた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。


 戻っている。


 それは、前線から下げられた、ということではない。わたしが折れずに立てる場所へ、足を戻された、ということだった。


 ヴィルが、背後でわずかに息を吐いたのが分かった。褒めるでもなく、止めるでもない。ただ、そこにいる人の呼吸だった。


「ラウールの分析表は、いつ届きますか?」


「うむ。まもなく、第二便が入るはずだ」


 お祖父さまが答えた。


 パウエルが、記録板の端へ目を落とす。


「魔導兵団側の残留魔素記録と、侍医司の初期診断票を照合しているとのことです。ラウール殿からは、核片に関する仮説は、未確定として扱うようにと、注記がございました」


「未確定を、未確定のまま置くこと」


 わたしは、ほとんど自分に言うように呟いた。


「昨夜と、同じですね」


「同じだよ。だが――」


 お祖父さまが言う。


「急いで結んではならない。結ぶ準備を、怠ってもならない。これ以上、被害を拡大させぬためにもな」


 紙の匂いが、深くなる。


 部屋の中にあるものは、どれも静かだった。書架。地図。記録板。羽根ペン。窓際の光。それなのに、その静けさの下では、王都中の足音が、遠く響いているように思えた。


 人々は、まだ知らない。昨夜の恐怖が、これからどう呼ばれるのかを。


 避難民が、敵と呼ばれるのか。被害者と呼ばれるのか。急変した人が、魔獣として片づけられるのか。それとも、仕掛けられた者として、なお救う道を探されるのか。


 その分かれ目の一部が、いま、この机の上にある。


 昨夜の黒衣の男の声が、紙の端から滲むように戻ってきた。


 あの人は、ただ壊すためだけに動いていたのではない気がする。力を見るだけなら、もっと簡単な道はいくらでもあったはずだ。


 けれど、彼は遠回りをした。囮のように術式を置き、こちらの反応を待ち、名を押しつけるために、わたしの中の何かを測ろうとした。


 壊すためだけなら、あまりに回りくどい。


 その回りくどさが、王都図の上の線と、どこか同じ手つきを持っている気がした。


 けれど、まだ言えない。


 言えば、わたしはまた、早く結びすぎてしまう。


「ミツルよ」


 お祖父さまが、わたしの名を呼んだ。


「はい」


「君には、灰色の塔へ戻ってもらう。だが、無理をさせるつもりはない。第一便と第二便の照合。灯信符号の確認。そして、君が昨夜見た順番の整理。そこまでにしなさい」


「……はい」


「そのあとは、休むことだ」


 お祖父さまの言葉の縁が硬くなった。


「休む、ですか?」


「そうだ」


 お祖父さまは、まるで学則を読み上げるように言った。


「観測者が、疲労で判断を誤れば、観測そのものが歪む。これは情ではなく、実務上の必要だよ」


 わたしは、反論の言葉を探しかけて、見つけられなかった。


 実務上の必要。


 そう言われると、わたしはなぜか、従いやすくなる。優しさとして差し出されると受け取り損ねるものを、この人は、制度や理屈の形に整えてから、わたしへ渡してくる。


 不器用な人だと思う。


 そして、たぶん、わたしも同じくらい、不器用なのだと思う。


「飯を食わせ、眠らせる者も、要るだろうしね」


 お祖父さまの目が、ほんの一瞬だけ、ヴィルへ動いた。


 ヴィルは、顔色を変えなかった。


「必要とあれば」


 短い返事だった。けれど、その「必要とあれば」は、たぶん、必要でなくてもやる人の声だった。


 頬の内側が、ふっと熱くなる。


「ブルフォード卿……わたしは、子どもではありませんよ」


「よく、存じております」


 護衛騎士としての声だった。


「ですが、飯を食わなくていい大人も、眠らなくていい大人もおりません。たとえお嬢様といえど、その点だけは容赦いたしません。どうか、お覚悟を」


 パウエルが、羽根ペンを持ったまま、かすかに目を伏せた。笑ったのかもしれない。


 総長室の空気が、ほんの一瞬だけ軽くなる。昨夜から喉に残っていた煙が、少しだけ上へ抜けていくようだった。


「それから、精霊魔術の講義についてだが……」


 お祖父さまが、別の紙束へ視線を移した。


 みぞおちのあたりが、思いがけず、小さく跳ねた。


 その言葉は、昨夜の焦げた匂いとは違う空気を連れてくる。大講義室の石床。学生たちの筆記の音。黒板に残る、白い粉。緊張して乾いた喉。それでも、精霊魔術を恐怖だけで語らせたくないと願った、あの時間。


「こんなことになってしまいましたし、講義は中止、ということになりますよね?」


「いや、まだだ。まだ閉じてはおらんよ」


 お祖父さまは、淡々と言った。


「講義室は、君が戻るその時まで、閉じてはおかん」


 喉の奥が、ふいに熱くなった。


 戦場だけではない。灰色の塔だけでもない。わたしが戻っていい場所が、まだある。


 講義室。離宮。食卓。白い剣の中の声。叱られながら、それでも眠っていい夜。


 そして、まだ名前をつけないまま、隣に立つ人。


 それらが、遠い灯みたいに、胸の奥へ並んだ。


「君が戻るべき場所は、戦場ではあるまい?」


 お祖父さまは、わたしを見た。


「それだけは、忘れてはならないよ。事態が終息次第、代替日を設け、再開しようではないか」


「……はい」


 返事は、小さかった。けれど、昨日よりは、折れていなかったと思う。


「総長としてだけではなく、祖父として、孫の晴れ舞台をなかったことにはしたくないのでね。約束する」


 お祖父さまは、満足したように頷き、パウエルへ向き直った。


「パウエル。灰色の塔の準備を、よろしく頼む」


「直ちに」


「ブルフォード、君はミツルを連れて塔へ。だが、無理はさせるな。照合の第一段階を終えたら、一度離宮へ戻すように。疲労の蓄積は観測精度を落とす」


「承知いたしました」


 ヴィルの返事は、短かった。


 その短さが、いつもの合図だった。


 半歩前ではない。離れすぎてもいない。必要なら止められる位置。呼べば届く近さ。わたしが知らないうちに崩れかけたとき、黙って地面へ戻してくれる場所だった。


 わたしは、机の上の一枚目の報告書へ、視線を落とした。


 ローベルト将軍の筆跡は硬く、余白を惜しむように文字が詰まっている。けれど、さっきまでより、紙の向こうから人の声がかすかに滲むようだった。


 報告書に載らなかったもの。


 載せてはいけないほど、生々しいもの。


 それでも、知らずに済ませてはいけないもの。


 わたしはそれを、もう一度、読む。


 調べるのではなく、読む。点を増やすのではなく、点の並び方を疑うために。急いで結ばないために。けれど、必要な線を、失わないために。


 白い剣の柄へ触れると、金属の冷えの奥から、細いあたたかさが返ってきた。


 大丈夫、と言われたわけではない。それでも、そこにいると分かる温度だった。


 わたしは報告書を抱え、立ち上がる。


 椅子の脚が床を擦る音が、総長室の静けさに、小さく響いた。


 ヴィルが、いつものように、扉のそばへ移る。


 先に行くでもなく、後ろへ隠れるでもなく。


 灰色の塔へ向かうための、いつもの距離だった。

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