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模倣体との激闘

 バルグが膝をひとつ沈めた瞬間、市場の空気が変わった。


「ミツル、そちらは任せたぞ。ここからは儂らの仕事よ」


 バルグの足裏が、濡れた石畳を掴む。


 水を含んだ目地が低く軋み、斧がゆっくりと高く掲げられた。肩の筋肉が盛り上がり、刺青の線が皮膚の下でうねる。魚の血と潮の匂いを含んだ空気は、彼の周囲だけ、ひと呼吸遅れて吸い込まれていくようだった。


「では各々方、行くぞい」


 静かな一言だった。


 その静けさが、かえって怖かった。


 次の瞬間、バルグが突進した。重さに反して速い。魚市場の水溜まりが踏み散らされ、汚れた水が白く跳ねた。


「キーンの風よ。我が身に集いて、清き加護を垂れ給え」


 斧の刃先から、白い閃光が漏れた。


 その口上は、術を呼び出すための詠唱ではなかった。古い呼吸で、氏族の名と、身体の奥に宿った風を同じ拍へ合わせるためのものだった。


 光は刃そのものから生まれているのではない。濡れた空気の中で、風が斧へ絡みつき、革巻きの柄からバルグの肩、背中、足裏へと伝わっていく。巨体は走っているというより、まだ形を持たない暴風の芯へ変わろうとしていた。


「キーン氏族に伝わる奥義、とくと味わうがいい。烈風乱舞斬テンペスチュアス・ゲイル・ロンド――!!」


 怒号が、市場の屋根を震わせた。


 斧が旋風をまとって空を切る。回転する巨体は、人というより暴風そのものに近かった。濡れた床を踏むたびに石畳が鳴り、刃先に絡んだ風が、空気の中へ薄い弧を残していく。


 その弧は幾重にも重なり、見えない球殻めいた軌跡を描いた。風は斧の周りで輪を結び、バルグの身体ごと包み込む。


 ――やっぱり、〈場裏〉に似ている。


 一瞬、そう思った。けれど、わたしの知る〈場裏〉とは違う。精霊器を通して精霊子を編む、あの澄んだ震えではない。もっと土臭く、もっと古い。山の尾根を渡る風が、人の血と武器の癖に長い時間をかけて宿ったような、荒く清い光だった。


 白い閃光が輪になり、軒先に吊るされた魚籠の紐を千切った。木桶が砕け、壊れた露店の布が空へ巻き上がる。濡れた布の匂いと魚の血の臭気が、風に裂かれて一瞬だけ薄くなった。


 首魁は、真正面から受けなかった。


 黒紫の腕を横へ振る。肘の外郭から、白く濁った風の壁が斜めに生まれた。


 それは、バルグの風とはまるで違っていた。


 白いのに、澄んでいない。濡れた灰を空気へ練り込んだような、ざらつく白だった。精霊子の震えではない。魔素が硬く編まれる、ひどく乾いた大気操作だった。


 バルグの竜巻が、その壁へぶつかった。


 止まらない。


 止まったのではない。逸れた。


 回転軸が、ほんのわずかに斜めへ折れる。バルグの巨体は勢いを殺されないまま、首魁の肩先を掠め、市場の奥の石壁へ暴風を叩きつけた。


 石壁が砕ける。


 魚籠が裂け、桶が飛び、銀色の鱗と水滴が一緒に舞った。冷たい飛沫が頬を打つ。薄く立てた〈場裏・白〉の膜へ木片が当たり、乾いた音を立てて弾かれた。


 柱の陰で、子どもが息を呑む。


「動かないで。大丈夫、お姉ちゃんが守るから」


 声は震えなかった。


 たぶん、震えなかったと思う。


 わたしはマウザーグレイルの柄を握り直す。掌に返る冷たさが、まだここにいると教えてくれる。目の前では、仲間たちが首魁へ向かっていた。わたしの役目は、そこへ飛び込むことではない。


 ――いまは、この子を守り抜く。


 濡れた石畳の上で、その一つだけを手放さない。前へ出たい焦りも、仲間の背へ向かう不安も、白い柄の冷たさの中へ押し込めて、わたしは薄い風の膜を保ち続けた。


 バルグは壁際で足を踏み直し、斧を石畳へ打ちつけるようにして回転を止めた。


 濡れた石の上で、刃が重く鳴る。肩で息をしている。けれど、その口元は笑っていた。砕けた壁から落ちる砂粒が、市場のざわめきの上へ細く降っている。


「ほう、逸らすか。真正面から受けぬとは、利口。いや、姑息だのう」


「まともに受ければ、面白いほど裂けたであろう。バルバロードの秘技を侮るほど愚かではない」


 首魁は、掠められた肩先の外郭へ視線を落とした。


 黒紫の表面に、白い筋が一本、走っている。深くはない。けれど、確かに刻まれていた。濡れた外郭の上で、その線だけがひどく冷たく光って見えた。


「だが、力任せの暴風で、吾を捕らえられると思うたか」


「思わんな」


 バルグが笑う。


 濁った水を踏み散らす足音が、低く石畳へ沈んだ。


「儂は、道を作ったまでのことよ!」


 その言葉が落ちるより早く、首魁の足元に赤い光が走った。


 ラウールは、唱えていない。


 緋朧天石(ひろうてんせき)へ指を触れたまま、ただわずかに肩を引いただけだった。次の瞬間、濡れた石畳の上を炎が低く走る。石の目地をなぞるように広がった赤は、すぐに首魁とラウールのあいだで薄く立ち上がった。


 壁というより、赤い幕だった。


 市場の生臭さが熱に押し返され、脂の焦げる匂いが一気に広がる。


 赤い光の向こうで、ラウールの輪郭が揺れる。熱の膜が空気を歪ませ、彼の白い横顔だけが、水底に沈んだ月みたいに静かだった。


 首魁が笑った。


「炎か。吾の外郭を、焼くつもりか」


 黒紫の外郭が赤を映す。


 焦げない。溶けない。むしろ炎の中を進むほど、その輪郭が濃く見えた。火が外郭を舐めても、表面には煤ひとつ残らない。首魁は躊躇いもなく、赤い幕を突き破る。


 高く細い笑い声が、火の音に混じった。


 ――速い。


 わたしの目が追いつくより先に、男はラウールの前へ迫っていた。


 硬化した右腕が、短刀めいた角度へ変わる。肘、指、肩。全部が武器だった。人の身体が、人を殺すための道具へ組み直されている。湿った床を蹴る音すら、遅れて耳へ届いた。


 ラウールは、下がらなかった。


 燃える赤の向こうで、赤紫の瞳だけが冷えている。緋朧天石(ひろうてんせき)の赤が、今度は青を含んで濁った。石の内側で、炎の色と水の色が、互いを拒みながら薄く重なっていく。


「甘いな」


 それだけだった。


 詠唱ではない。術名でもない。相手の誤りを指摘する、静かな声。


 首魁の足元の石畳が、割れた。


 石そのものを操ったのではない。


 石畳の継ぎ目を走っていた水だ。市場の下を通る排水路。目地に溜まった薄い水膜。桶からこぼれ、血と鱗を含んで石の隙間へ吸われていた流れ。


 ラウールは、それを読んでいた。


 さっきの炎は、外郭を焼くためではなかった。石の冷えと、その下に眠る排水路へ熱を通すためのものだった。炎の熱で内側の流れを一度膨らませ、逃げ場を細く絞る。次の拍で、緋朧天石(ひろうてんせき)の青が圧を噛み合わせた。


 飛沫が噴き上がる。


 一本ではなかった。石の継ぎ目から、排水路の流れが幾筋も裂けるように立ち上がる。冷たく鋭い柱が首魁の膝裏を打ち、脛を払い、遅れて腰の下へ食い込んだ。


 黒紫の外郭が濡れる。


 ただ濡れたのではない。外郭の継ぎ目へ飛沫が走り、足裏と石のあいだへ薄い膜を作った。踏み込むための支点が、次の瞬間には滑る面へ変わっている。


 首魁の足が、石を噛み損ねた。


 速さを乗せた身体ほど、軸を奪われた瞬間の崩れは大きい。肩から胸郭までが、わずかに斜めへ傾ぎ、硬化した右腕の切っ先が、ラウールの喉元から半寸だけ外れる。


 ほんのわずか。


 けれど、その一拍は戦場では十分だった。


 そう、彼――雷光の騎士にとって。


 首魁の背後に、もうヴィルがいた。いつ動いたのかさえ、分からなかった。


 バルグが回り始めたときには、たぶんもう動いていたのだ。暴風が道を作り、ラウールの炎と水が首魁の足場を崩す。その終点に、ヴィルがいる。何の打ち合わせもないまま。


 キィン。


 銘無しの聖剣が抜かれていた。


 離宮の奥で、黒い壁へ深々と走った一閃が脳裏をよぎる。あのときヴィルは、誇るより先に刃こぼれを確かめていた。


 ――斬れぬものなどこの世に存在しないと、そう思わせる剣。


 白い刃は、市場の灯と火の赤を細く拾っている。鋭いのに、少しも熱を帯びていない。濡れた石の上へ落ちたその光だけが、息を潜めるように冷たかった。


 彼の身体が、低く沈む。


 切っ先が、濡れた石畳の上で細い光を拾う。


 片方の拳が、剣先の近くへ置かれる。


 掌ではない。握り込まれた拳。


 初めて手合いをしたときに見た、あの構えだった。


 ——雷光突き。ヴィルの対魔獣戦闘の基本。


 そう見える。


 けれど、拳の置き方だけが、記憶の中の構えとほんの少し違っていた。


 拳を置いた指の隙間で、何か小さなものが濡れた光を返した。


 首魁の目が、ほんのわずかに細くなった。


 先ほど水路際で交わした鞘付きの一合。あのとき銘無しを抜かず、殺さず、留めるために置かれた線を、首魁は測ったつもりでいたのだろう。


 抜けば速くなる。


 その前提の角度へ、黒紫の腕が開く。


 真正面から撃ち込まれる、不可避の一点。受けるなら腕。流すなら肩。止めるなら外郭。


 首魁の硬化融合腕が、真正面の突きを迎える角度へわずかに据えられた。


 喉の奥が、ひゅっと鳴った。


 ――違う。あの手は、添えているんじゃない。置いている。


 剣先と拳。


 二つの点が、首魁の視線を奪っていた。足元の水膜の上で、拳の影がほんのわずかにほどける。その内側から、小さな黒い粒がひとつ、音もなく落ちた。


 煙幕玉。


 水気を含んでいるせいか、まだ発動しきらない。煙は立たない。ただ、落ちたという事実だけが、首魁の目を一拍だけ縛る。


 首魁の視線が、剣先から拳へ、そして濡れた石へ落ちた。


 美しい騎士の剣ではない。正々堂々と名乗り、構え、相手の技量へ敬意を払う剣でもない。


 足元の湿り。火の臭い。跳ねた飛沫。拳の位置。落ちる黒い粒。


 知っているはずの雷光を、記憶ごと罠に変える。


『いいか。何よりも大事なのは、臨機応変にどんな手を使ってでも生き延びることだ』


 かつての彼の言葉が過った。


 幾度も死線を越えてきた者の重みが、いまさら喉の奥へ沈んでくる。綺麗ではない。誇らしげでもない。けれど、そこには生きて帰るために削られ、磨かれ、残ったものだけがあった。


 それは、生き残るための剣だった。


 殺さずに止めるために、相手の目と判断を汚す手だった。


 その一瞬で、十分だった。


 ヴィルが突いた。


 雷光。


 音より先に、白い刃が走った。


 首魁は反応した。崩れた足場の上で、それでも硬化融合腕を上げる。黒紫の腕が盾のように開き、鉤爪が刃を迎えにいく。速度には追いついている。反射も、判断も、人間離れしている。


 けれど、その腕が迎えた場所に、もう白い刃はなかった。


 突きは、深くはなかった。


 貫くための踏み込みではない。相手に「受ける」と思わせるための、浅い一線だった。


 ヴィルの重心はまだ水を吸った石の上に残っている。踏み切りきっていない。預けきっていない。まっすぐ貫くはずの一線が、首魁の腕へ触れる直前で、ふっと軽くなる。


 次の瞬間、手首が返った。


 白い直線が、消える。


 剣先の光が横へほどけ、硬化融合腕の内側へ滑り込む。


 首魁が受けたのは、もうそこにない直線の残像だった。


 刃は、外郭の継ぎ目を撫でるように裂いていた。


 逆手へ捻られた刃が、濡れた火花を散らして下から切り上がる。


 乾いた音がした。


 金属でも肉でもない。硬い殻の内側を断つような音だった。


 首魁の右腕が、肘の下から落ちた。


 黒紫の外郭をまとった前腕は、石畳へ落ちてからも、一度だけ指を曲げようとした。けれど、断面から黒い魔素が漏れ、すぐに硬く痙攣する。人の血ではない。赤ではなく、濁った紫が水へ混じった。


 胃の奥が冷えた。


 終わった、とは思えなかった。


 右腕を失っても、首魁の身体はまだ立っている。黒紫の外郭の奥で、何かが低く軋んでいる。痛みではない。怒りでもない。もっと乾いた、仕組みの音だった。


 ヴィルは退かなかった。


 濡れた石畳の上で、白い刃がわずかに向きを変える。切っ先は首ではなく、胸でもなく、まだ息をしている外郭の継ぎ目へ向いていた。


 殺すためではない。


 止めるために。


 その一歩が、もう次の間合いへ入っていた。


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