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守る場所は、まだここに

 黒紫の外郭は、まだ動かなかった。


 濡れた石畳の上で、人の輪郭だけを残したまま、密度が別のものへ入れ替わっていく。男の身体は大きくなりもしないし、獣のように膨れもしない。ただ、肩、胸郭、喉元、肘、膝、指先へ、硬い影のようなものが噛み合っていく。そのたび、魚市場の湿った空気が一枚ずつ重くなった。


 魚の血と潮。割れた桶から流れた水の匂い。生臭さの底に、焼けた金属みたいな魔素の気配が混じっている。舌の裏にざらつきが残り、喉がひどく狭くなった。


 わたしは、反射的に一歩前へ出ようとした。


 白い柄に指がかかる。マウザーグレイルの冷たさが、汗ばんだ掌へ食い込む。指の節が白くなるほど握っているのに、腕の内側だけが頼りなく震えた。怖い。怖いのに、ここで見ているだけではいけないと思った。


 ――目の前にいるのは敵だ。この事態を引き起こした首謀者だ。難民を使い捨ての道具にしようとする、許しがたい外道だ。


 そう言い切ろうとしたのに、舌の裏が乾いた。怒りの形はある。憎しみと呼べるものも、きっとある。けれど、黒紫の外郭の下にまだ人の喉があり、人の言葉が残っていることを、わたしの目はどうしても拾ってしまう。


 ――でも……元を辿ればこの事態を招いた元凶は、このわたしなんだ。


 玉座の間で、ロイドフェリク王から浴びせかけられた言葉が過った。


『黒髪に加え翡翠の瞳を持つ者は、稀に王家へ誕生する異端――黒髪の巫女と呼ばれる者だ。国に不幸を呼び寄せる忌むべき存在。よって、王家にとっては恥部そのものである』


 ――ちがう……!


 否定したい衝動か、息苦しさか、奥歯を噛んだ。


 ――だったら、わたしがなんとかしなきゃ。わたしが「始末」をつけなきゃ……。


 その言葉が浮かんだ瞬間、背筋の奥へ、氷の薄片が差し込まれたみたいに冷えた。


 息が、喉の途中で止まる。


 ――わたし……いまなんてことを。始末ですって? そんな、人をものみたいに。邪魔だからって、片づけるみたいに。


 その響きだけで、喉の奥が乾いた。白い柄を握る指が強張り、爪の下に小さな痛みが滲む。責任感だと思っていたものの奥で、もっと冷たい何かが身じろぎした。自分の罪を早く終わらせたくて、誰かの輪郭を消そうとしている。


 そんな逃げ道が、わたしの中にもあった。


 そのことが、何より怖かった。


 精霊魔術は破壊のための道具ではない。人を殺めるための凶器でもない。命の灯火へ干渉する魔石魔術とは、根から違うものだと、ずっと言葉にしてきた。わたしは兵器の末裔ではない。そう証明したくて、ここまで歩いてきたはずだった。


 なのに、いま、わたしの手は白い柄を握っている。


「ああ……」


 濡れた革の匂い。床へ落ちる水音。男の外郭の隙間から滲む黒紫の光。ひとつひとつが、わたしの呼吸を浅くしていく。


 けれど足は、まだ前へ出ようとしていた。


 ――けど、そうするしかないんだ。なにもかも、わたしのせいなんだから。


 足首が痛いほど強張った。止めなければ、と思う。止めるためには傷つけるのか。傷つけた先で、わたしは何を償った顔をするのか。


 床へ落ちた水が、細く跳ねた。


 喉の奥がまた乾く。白い柄から指を離せない。理屈はもう、きれいな形をしていなかった。濡れた足元でほどけた縄みたいに絡まり、前へ出ようとする爪先を引き留める。


 怖さと責任感が同じ場所で擦れ合って、どちらがわたしを前へ押しているのか、もう分からなかった。


「ミツル、お前には無理だ」


 ヴィルの声が、背中越しに落ちた。


 濡れた革と金属の匂いが、すぐ近くで鋭く立つ。振り向かなくても、彼がこちらを見ずにわたしの動きを読んでいたのだと分かった。柄へかけた指も、踏み出しかけた爪先も、喉の奥で飲み込んだ言葉まで、たぶん彼には見えていた。


「どうして? わたしだって。いいえ、わたしがやらなきゃならないの。だって……」


 言い返した声は、思ったより細かった。


 強く言ったつもりなのに、濡れた市場の空気へ触れた途端、頼りなく崩れていく。マウザーグレイルの冷たさだけが、掌の中でやけに確かだった。


「相手がどうあれ、お前に人は傷つけられん。前にも言ったはずだ」


 喉の奥が詰まった。


 目の前の男は、もう人の形を保ったまま、人ではないものへ近づいている。外郭に覆われた指は鉤爪めいて、肘の角度は刃物のようだった。けれど、わたしの目はまだ、フードの奥の薄い唇を探している。声を出す喉を、かつて名前を呼ばれたはずの顔を、どうしても拾ってしまう。


 殺さなければいけない相手、ではない。


 止めなければいけない人。


 そう見えてしまう。


「でも……」


「ここは戦場だ。一瞬でも躊躇えば命取りになる。邪魔になるだけだ。下がっていろ」


 厳しい声だった。


「邪魔って、あなた……」


 けれど、ヴィルは一度もこちらを見なかった。見れば、わたしが言い返すことも、泣きそうになることも、たぶん分かっていたのだと思う。だから彼は、前だけを見ていた。


 その背中の硬さは、拒絶ではなかった。越えれば戻れなくなる場所を、彼が先に知っている。そのための線だった。


「ヴィルの言う通りだよ、ミツル。君は下がっていてもらいたい」


 ラウールの声が、横から続いた。


 緋朧天石(ひろうてんせき)の赤が、彼の指の隙間で細く灯っている。熱というより、深い井戸の底に沈んだ火のような冷ややかな赤だった。濡れた空気に触れても、その光だけは揺らがない。


「ラウール? あなたまで」


 ラウールの声は、ヴィルほど硬くはなかった。


 けれど、甘くもない。濡れた市場の空気の中で、赤紫の瞳だけが静かにこちらを捉えている。逃げ道を塞ぐのではなく、別の道を差し出す声だった。


「何もするな、と言っているわけじゃない。君には魚市場の人たちを、ここにいる難民たちを守ってもらいたいんだ」


「守る……?」


「そうだ。君の力は戦うためだけにあるんじゃないはずだ。だから、頼む」


 奥の通路から漏れる呻き声が、急に近く聞こえた。


 逃げ遅れた者がいる。担架を支えきれない若い衆がいる。倒れた木箱の向こうで、子どもの泣き声を母親の手が押さえている。濡れた柱の陰で、誰かの指が石畳を掻く音がした。


 守る場所は、まだここに残っていた。


 前へ出ることだけが、償いではない。


 その言葉にならない気づきが、胸の奥でかすかに震えた。


「ミツルよ、ここは儂らに任せておけぃ」


 バルグの声が、奥からまっすぐ届いた。


 両刃の斧を肩に乗せたままの大柄が、市場の灯を背負って近づいてくる。革巻きの柄が、大きな掌の中で低く軋んだ。濡れた床を踏む一歩ごとに、石畳の水が小さく跳ねる。


「バルグまで」


「そなたと縁を結びし儂ら三人。各々一騎当千の強者よ。このような卑劣な匹夫など敵ではないわ」


「待って。相手の強さも、手の内も、なにもわからないのよ? 危険すぎるわ」


「百も承知」


「けど……」


「なに、儂らを信じろ。ガッハッハッ!」


 笑い声は、湿った魚市場の空気を一度だけ広く押し広げた。


 重いものを軽く扱うのではない。重さごと抱えて笑う。バルグの声には、そういう太さがあった。胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけほどける。


 ラウールが、黒いローブの男へ視線を戻す。


「もちろん、殺しはしないさ。……こいつはこの争乱を画策した首謀者だ。なんとしても、生かして捕らえたい」


「だが、相手が相手だ。無傷というわけにはいかんだろう。ミツル……すまんが、わかってくれ」


 ヴィルの声は、わたしへだけ届く低さだった。


 人だったものを傷つける。殺さないために斬る。その境目を、わたしはまだうまく受け止められない。濡れた石畳に映る黒紫の光が、水の揺れに合わせて歪み、男の輪郭を何度も崩しては戻した。


 ――ここで曖昧な綺麗事を言えば、誰かが死ぬ。


 喉の奥に残った苦さを、わたしはゆっくり飲み込んだ。


「うん……わかった。みんな……お願い。無茶だけはしないで」


《《うん。それでいいんだよ》》


 茉凜の言葉は、それだけだった。


 責めもしない。慰めすぎもしない。ただ、わたしが前へ出るためではなく、ここへ残るための場所を、そっと押さえてくれる声だった。


「ふふん、大船に乗ったつもりで見ておればよい。儂としては、久しぶりの戦に武者震いしておるわ」


 バルグは歯を見せて笑い、濡れた石畳を一歩踏みしめた。


 その向こうで、黒いローブの男が低く笑った。


 黒紫の外郭の隙間から、呼気のように魔素が漏れる。外から吸い込んでいるのではない。体内にある何かが、耐えきれず滲み出している。濃すぎる魔素が水路の水面へ触れ、細かな波紋を生んだ。


 波紋はすぐに消えた。


 けれど、その消え方までが不自然だった。水が水として戻るのではなく、何かに押し潰されて沈黙するように、ぴたりと静まる。


「はぐれ者の騎士に、亡国の王子に、辺境のバルバロードか。『此度の巫女』は、ずいぶんと贅沢な味方に恵まれている。だが、よい。それでよい」


 男の声は、まだ人間の響きを保っていた。


 それが、いちばん嫌だった。


 完全な咆哮なら、たぶん少しだけ楽だった。言葉を持たない獣なら、恐怖はもっと単純な形をしていたかもしれない。けれど、そこにはまだ言葉が残っている。皮肉も、判断も、こちらを測る冷たさも。


 人の形を残した兵器が、わたしたちを見ている。


 濡れた石畳の上で、首魁の黒紫の外郭が、鈍い光を含んで沈黙していた。魚市場の柱に吊るされた灯が、その輪郭を何度も舐める。硬い影の隙間から滲む魔素は、熱を持たない煙のように水路へ落ち、潮と魚の血の匂いの中へ、焼けた金属の気配を重ねていく。


 ラウールの睫毛が、わずかに伏せられた。


「君は、急変者じゃない」


 声は静かだった。


 緋朧天石(ひろうてんせき)の赤が、ラウールの指のあいだで深く息づいている。湿った魚市場の空気は、その光に触れるたび薄く震え、すぐまた重く沈んだ。首魁は首を傾けることもなく、黒紫の外郭の奥から、ただラウールを見返していた。


「ほう。そなたはどこまで本質を掴んでいるというのか。申してみよ」


「君は発動される側ではない。運用する側だ。体内に定着した術式化魔石核片を、自力で制御している。だから、その人としての意識と形を保っていられる」


 ラウールの声が、静かに沈む。


 市場の奥で、水が桶の縁から落ちた。石へ当たる小さな音だけが、火の匂いと血の匂いのあいだを、細く通り抜けていく。


「君たちはそれを、魔族へ近づいた証だと思っているのだろう」


 首魁は、声を立てずに笑った。


 黒紫の外郭の下で、喉のあたりがわずかに動く。笑みというより、古い傷の内側が裂ける前触れのようだった。ラウールの指に宿る緋朧天石(ひろうてんせき)の赤が、ひと息だけ深く濁る。


「さすがだ、ラウール。滅んだ王家の血は、古の記録の匂いを嗅ぎ分けるか」


「けれど違う。それは神代への回帰じゃない」


 ラウールの声が、さらに低く落ちた。


 その一言で、空気の重さがほんの少し変わった。首魁の目の奥に宿っていた黒紫の光が、濡れた刃のように細く濃くなる。市場の灯が外郭の継ぎ目を舐め、すぐに暗い色へ呑まれた。


「ましてや君は魔族ではない。人の器を基盤に、魔の形をなぞっただけの、劣化復元にすぎない」


 黒紫の光が、首魁の目の奥で一段濃くなった。


 怒りか。屈辱か。それとも、もっと深いところにある祈りを踏まれた痛みなのか。判別できないまま、わたしの喉の奥だけがきゅっと締まった。濡れた石の匂いが、急に近くなる。


「勝者の側にいる者は、いつも他者の献身を劣化と呼ぶ」


「献身?」


「我らは失われたものを取り戻す。人の輪郭に閉じ込められた弱さを焼き払い、神代の形へ戻す。これを模倣と呼ぶなら、模倣とは祈りの別名だ」


 祈り。


 その言葉が、魚市場の冷えた空気に落ちた瞬間、舌の裏がざらりと荒れた。祈りという響きは、本来もっとやわらかいもののはずだった。誰かを抱く手や、灯のそばで交わす小さな願いに似ているはずなのに。


 首魁の口から出たそれは、刃物の柄に巻かれた布のようだった。握るためのもの。傷つけるためのもの。祈りと呼ばれた言葉の内側で、人の輪郭だけが静かに削られていく。


「詭弁だな。それを教義と呼ぶのは君たちの勝手だ。だが、祈りの名で人を壊すものを、僕は信仰とは認めない」


 ラウールの指が、襟元の緋朧天石(ひろうてんせき)へ沈んだ。


 詠唱は、ない。ただ、触れた。


 それだけで、わたしの背筋に冷たいものが走る。濡れた市場の匂いが、一瞬だけ遠ざかった気がした。水音も、呻き声も、木箱の軋みも薄くなり、彼の指先と赤い石のあいだにだけ、世界の重心が集まっていく。


 ――まさか、魔石の命の灯火へ直接触れて、術式を起こすつもりなの? つまり、無詠唱? それじゃ、わたしと同じ……。


 違う。


 彼は魔術師だ。触れているのは精霊子ではない。魔石の命の灯火だ。行使しているのは、あくまで魔石魔術の系統だった。けれど、魔導兵装も、圧縮術式も、魔法陣も通していない。緋朧天石(ひろうてんせき)の奥にある灯火へ、指先から直接、意思を届かせようとしている。


 魚市場の奥で、桶の縁から水滴が落ちた。


 石へ当たる小さな音が、火の向こうでやけに澄んで聞こえる。緋朧天石(ひろうてんせき)へ沈んだラウールの指先は、血の気を失ったみたいに白い。首魁の喉が、黒紫の外郭の下でかすかに動いた。


 灰色の塔で、お祖父さま――グレイ総長が語った声が蘇る。


 魔石の命の灯火へ近づきすぎること。直接の接触が強い力を引き出すこと。けれど、それは同時に、術者の精神を削り、侵し、戻れないところまで連れていく危うさを持つこと。


 ラウールが、その危うさを知らないはずがない。


 ――あなたってひとは、そこまでして……。


 彼の横顔は、少しも揺れない。濡れた前髪の影が頬に落ち、赤紫の瞳は首魁だけを見据えている。疲労の色はまばたきの奥に沈んでいたが、緋朧天石(ひろうてんせき)へ触れた指だけは離れなかった。


 祖国を失った王子が、亡国の記憶を宿す石へ指を沈め、この市場の湿った空気を制しようとしている。


 その覚悟の重さに、胸の奥が痛んだ。


 魚市場の奥で、壊れた柱が斜めに沈んでいた。濡れた石畳に倒れ込んだ影のあいだから、布の端がわずかに覗く。わたしの視線は首魁とラウールへ向いたままだったのに、視界の端で、白い剣の奥の気配がぴんと張った。


《《美鶴、右の柱の陰。人影が見えた。ひとり、動けないひとがいるかも》》


 茉凜の声が、剣の奥から細く届く。


 いつもより硬い。けれど、届いている。


 わたしが見落としかけた視界の端を、彼女は共有された感覚の中から丹念に拾い上げてくれていた。遠くを見るのではない。わたしの目に映っているのに、わたし自身がまだ意味へ変えられていないものを、先に掬ってくれる。


「わかったわ。すぐ行く」


 わたしは唇を噛み、小さく頷いた。


 倒れた柱の陰へ走る。足元で水が跳ね、魚の生臭さが裾に絡む。濡れた布と血の匂いが混じり、喉の奥へ冷たく貼りついた。マウザーグレイルの白い柄を握り、呼吸をひとつだけ短く切る。


 柱の陰にいたのは、小さな子どもだった。


 膝を抱えたまま、声も出せずに固まっている。濡れた髪が頬へ張りつき、瞳だけが大きく開いていた。泣き声すら喉の奥で凍ってしまったみたいに、肩だけが細かく震えている。


 〈場裏・白〉を、小さく展開する。


 大きくは張らない。人を守るためだけに、狭く。余計なものまで巻き込まないよう、息の幅と同じくらい慎重に。


 大気の流れを集め、柱の陰へ見えない膜を置く。必要な幅だけ、風の圧を縫い合わせるように。震える身体を包む手前で、薄い弧を立てる。


 ――これでいい。このまま領域を維持する。


 膝が少しだけ冷える。


 でも、立てる。


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