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悪い取引ではない

 魔術大学は、昨日までの静けさとは、呼吸の浅さが違っていた。


 大図書館へ向かう回廊の窓から、正門近くに停まる見慣れない馬車が見える。冷たい光を跳ね返す車体の扉には、細い金線で紋章が描かれていた。見覚えのない線だ、と目が先に告げる。


 ――お祖父さまの書斎で拝見した紋章譜にあったどの印とも違う。つまり……。


 大学の庶務官たちはいつもより早足で行き交い、廊下の端では、異国風の襟を立てた男が、案内役の学生へ低い声で何かを尋ねている。


 声は遠く、意味までは届かない。けれど、そこに混じる子音の硬さだけが、耳の裏にちりりと残った。


「……昨日の話、本当だったんだね」


 隣でソレイユが小さく呟いた。手に抱えた紙束の角を、無意識に指で押さえている。


「ええ。思ったより早いわね」


 そう答えながら、わたしは自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。落ち着いているのではない。たぶん、硬くなっているだけだ。


 背後に控えるヴィルの足音は、いつもと変わらない。けれど、半歩後ろという距離の中に、昨日よりも細かい警戒が張られている。人が近づくたび、彼の纏う気配がわずかに角度を変えた。


《《美鶴。ああいうの、無理に見なくていいからね》》


 茉凜の声が、腰の白い剣からそっと触れてくる。


《《だからって、俯いちゃだめだよ。そういうの、向こうだって見逃さないと思うし。あなたは行きたいと思う場所を見ていればいい》》


 ヴィルに貰った言葉が過る。


 『どんなに絶望の淵に追い込まれようとも、顔を上げろ、立ち上がれ、そして前だけ見て進め。ユベルが、かつて戦場で俺にくれた言葉だ』


 上を向いて、道筋を見定める。そうして、自分を見失わない。


「わかっているわ」


 小さく返すと、ソレイユがこちらを見た。茉凜の声は聞こえていないはずなのに、わたしの返事だけで何かを察したように、彼女はほんの少しだけ目元の力をほどいた。


「ミツルさん、今日はここまでにしよう。昨日の書き足し、ちゃんと効いていたし。無理に先へ進む必要はないよ」


 ソレイユが手元の紙束を揃えると、乾いた摩擦音が回廊の静けさへ小さく弾けた。彼女の指先に残った淡いインクの匂いが、西日のぬくみと一緒に鼻先をかすめる。


「そうさせてもらうわ。順調なのは、あなたのおかげよ」


「ううん。わたしは受け取ったものを返すだけだよ」


「それが大事なの。ちゃんと受け取ってくれる人がいるって、すごく助かるわ」


 言ってから、また昨日と同じ会話をなぞりそうになって、わたしは口を閉じた。ソレイユもそれ以上は続けなかった。ただ、胸元に抱いたレジュメをそっと整え、いつもの丸い字のメモがのぞくように、こちらへ少し傾けた。紙の端が、微かな風に震えていた。


「じゃあ、わたしは帰るね。何かあったら、また呼んで」


「あ、ソレイユ?」


「どうしたの?」


 呼び止めた声が、高い天井へ吸い込まれていく。石造りの壁が、夕刻の冷気をじわりと放ち始めていた。


「お父様のこと……心配ではなくて?」


 ソレイユは首を横に振る。窓の外を横切る鳥の影が、彼女の瞳を一瞬だけ暗く縁取った。


「うん、まぁ……。実は、父さんここ一ヶ月くらいほとんど家に帰ってこないんだよね」


「そう……ごめんなさいね」


 その一言が落ちた途端、胸の奥へ罪悪感が沈んだ。王都へ火種を呼び込んでいるのも、たぶんこのわたしなのだと思うと、息が少しだけ浅くなる。


「ん、どうして謝るの?」


「いえ、その……あなたのお父様には、いろいろとご迷惑を掛けてしまっていると思って……」


「そんなことないよ。ミツルさんは悪くない。父さんは何も教えてくれないけど、わたしなりにわかることもあるの」


 回廊を渡る風が、ソレイユの髪を揺らした。彼女の瞳には、濁りのない、けれどどこか遠い場所を見つめるような澄んだ静けさがある。その眼差しは、わたしの内側に沈んだ泥まで、何も責めずに透かしてくる。


「……けどね、それはミツルさんが背負うべきものじゃないと思う。そういう性質の問題なんだよ」


「ソレイユ……でも」


「それに、あなたもわたしも、ただの学生なんだよ。それを忘れちゃいけないと思う」


 まっすぐ過ぎて、どう答えたらいいのかわからなかった。


 学生、という言葉が本来持つはずの軽やかさは、いまのわたしにはあまりにも遠い。それでも、その遠さごと抱え直せと言われた気がして、喉の奥が細く締まる。


「じゃあね、また明日」


 ソレイユは少しだけ名残惜しそうにこちらを見てから、別の回廊へ曲がっていった。靴音が石床を規則正しく叩き、彼女のあたたかな気配がゆっくりと薄れていく。


 あとに残されたのは、夕闇が混じり始めた廊下の青い影と、さらに冷えを増した壁の感触だけだった。


 その冷えが落ちきるより先に、階段下の広い踊り場に、数人の青年が立っているのが見えた。


 中央にいた男を、わたしはすぐに思い出した。ファビアン・グランブイル。整った顔立ちに、隙のない深紅の上衣。以前よりも、笑みの線が少しだけ薄くなっている。取り巻きは二人。どちらも貴族の子弟らしい身なりで、わたしより先に、後ろのヴィルへ不躾な視線を投げていた。


 逃げ場を塞ぐような立ち方ではない。けれど、偶然を装うには、その並びが整いすぎていた。


「グロンダイル殿。少しよろしいかな」


 声は穏やかだった。けれど、その温度は、花瓶の水みたいに冷たい。


 ヴィルが一歩、わずかに前へ出た。革の小さな音が石床に落ちる。


「失礼ながら、ミツルお嬢様は講義準備の途中です。ご用件があるなら、正式な手続きをお取りください」


 ファビアンはその言葉を受け、面白がるように目を細めた。


「護衛騎士殿。貴殿の職分は理解している。ここが魔術大学である以上、無粋な真似をするつもりもない。だが、主人の将来に関わる選択肢まで狭める権利が、貴殿にあるとは思えないが?」


 その言い方に、袖口の内で指がわずかに強張った。守る、という行為を、選択肢を奪うことへ言い換える。その滑らかな手つきが、胸の奥へざらりと引っかかった。


「ヴィル。大丈夫よ」


 わたしがそう言うと、彼はすぐには退かなかった。ほんの一拍、こちらを見る。その青い目が、わたしの呼吸の深さを測るように留まり、それから半歩だけ横へずれた。


 完全には道を開けない。わたしとファビアンのあいだに、まだ自分の影だけを落としている。


 ファビアンは、そのわずかな抵抗まで愉しむように微笑んだ。


「時間を取らせるつもりはない。率直に言おう、グロンダイル殿。君はいま、非常に危うい場所に立たされている」


 その言葉は、予想よりも露骨だった。


 わたしは返事をしない。促しもしない。ただ彼の目を見た。


「先王陛下のご庇護は重い。王立魔術大学の後ろ盾も、無論、軽いものではない。だが、それも永遠ではない。王宮はいずれ君へ手を伸ばすだろう。貴族院はその時を見越して、いまは距離を測っている。そこへ他国の使節まで王都入りを早めた。さて、君はこの状況をどう受け止めているのかな?」


 遠くの回廊で、異国の随員らしき男が足を止めた。会話が聞こえる距離ではない。けれど、こちらで何かが起きていることには気づいている。


 ファビアンは、それを承知しているようだった。


「君の精霊魔術は、もはや君ひとりの研究として済まされる段階にはない。黒髪の巫女。聖剣。先王陛下を快癒へ導いた新しい医術の可能性。どれも、リーディスの外へ出れば別の意味を持つ」


 喉の奥が、ほんの少し乾いた。


 昨日、わたしがレジュメの余白へ書き足した言葉など知るはずもないのに、彼はそこへ迷いなく、冷たい指を差し入れてくる。


「そこで、僕からの提案だ」


 ファビアンは一歩も近づかず、声だけを滑らせた。石壁の冷えを塗り替えるように、重苦しい香油の甘さがゆるく漂ってくる。


「我がグランブイル家が、君の後ろ盾になろう。貴族院の要路へも、内々に繋ぎをつけられる。研究予算。講義への後援。王宮が君を一方的に囲い込もうとした場合の牽制。必要とあらば、他国使節との折衝にも力を貸せる」


 取り巻きの一人が、満足げに顎を上げる。


「もちろん、我が家にも利があるからこその提案だ」


 ファビアンは、そこだけは隠さなかった。


「僕自身の思惑も否定はしない。だが、悪い取引ではないはずだ。よく考えてみたまえ。先王陛下にもしものことがあった場合、君は誰を頼るつもりなのかな?」


 その最後の言葉に、ヴィルの空気が変わった。剣には触れない。ただ、肩の線が静かに沈む。踏み込ませないために、場そのものを凝固させるような圧だった。


「それ以上は――」


 ヴィルの低い声が落ちるより先に、わたしはそれを手で遮るようにした。


「先王陛下のご体調を、廊下で話題になさるべきではありません。不敬にあたります」


「事実を事実として述べただけだ。隠せば消えるものでもあるまい」


 ファビアンの唇に、薄い笑みが戻る。


 取り巻きの一人が、そこで鼻を鳴らした。


「公爵家からのご提案を、そのように退けられるとは。まことに嘆かわしい」


 声が廊下に落ちた瞬間、近くを通りかかった学生が足を止めかけ、すぐ視線を伏せて通り過ぎた。異国の随員も、もうこちらを見ていないふりをしている。見ていないふりをする者ほど、よく見ている。


 ファビアンは取り巻きへ軽く手を上げた。叱るためではない。騒ぐな、とだけ言うような手つきだった。


「失礼。彼は、少し言葉が過ぎたようだ」


「荒いのではありません。正直なだけでしょう。貴族らしく結構なことですわ」


 わたしがそう言うと、ファビアンの目が少しだけ細くなった。


 自分でも驚くほど、声は静かだった。怒りはある。けれど、それをそのまま差し出せば負ける。そのくらいは、もうわかっている。


「ご提案には感謝いたします」


 膝の奥へそっと力を通し、背筋をまっすぐに立てる。


「けれど、わたくしは後ろ盾を求めてここで学んでいるのではございません」


 ファビアンの笑みが、ほんの少し止まった。


「先王陛下に賜った御厚意への感謝も、この国のために尽くす意志もございます。ですが、それは、どなたかの家の利となるためではありません」


 言葉を一つずつ置くたび、昨日の小講堂の光が胸の底で揺れた。水珠。虹。インクの匂い。余白に書き足した一文。


 奇跡でも、兵器でもない。どこかの家の資産でもない。


 ――わたしは、わたしだ。


「正式なお話であれば、しかるべき手続きを経てからお聞きいたします。少なくとも、このような場で取引に応じるつもりはございません。それともグランブイル公爵家とは、こうした非礼を恥じることもない家名なのですか?」


 ファビアンは、しばらく何も言わなかった。


 沈黙の底で、遠くの鐘がかすかに鳴る。いつもなら落ち着くはずの大学の音が、今日は妙に冷たい。


 やがて、彼はふっと息を吐いた。


「なるほど。噂以上に手強い方だ」


 褒め言葉ではなかった。値段をつけ直す商人のような声だった。


「よろしい。今日のところは、それで構わない。ただ、選ばずにいられる時間は長くない。そこだけは覚えておくといい」


「ご忠告、痛み入ります」


 わたしは礼の形だけを返した。


 ファビアンはそれ以上何も言わず、取り巻きを連れて踵を返した。深紅の裾が石床をかすめ、革靴の音が妙に均一な拍で遠ざかっていく。


 角を曲がる前、彼は一度だけ立ち止まり、回廊の向こうにいる異国の随員へ、ごく軽く会釈をした。随員は何も返さず、ただ視線を外した。


 その一瞬だけで、喉の裏が冷えた。


 この接触は、わたしへ向けられただけではない。グランブイル家が、黒髪の巫女へ先に手を伸ばした。その事実ごと、見せられたのだ。


 足音が消えたあと、廊下には香油の甘さだけが薄く残った。甘いのに、舌の裏が苦くなる匂いだった。


「……大丈夫か」


 ヴィルが低く訊いた。


「ええ」


 返事はすぐに出た。けれど、袖口の内で結んだ指先は、思ったより冷えている。


 彼はその冷えまで見たように、少しだけ眉を寄せた。


「あれは、学生貴族の軽口ではない。グランブイル公爵家の背後にある、貴族院の思惑か……」


「ええ。わかっているわ。王宮としては、先王と交わした約定がある以上、表立っては手を出せないはず。だから、あちらはその隙を突いて先に動いてきた。わたしを自分たちの側へ引き込むつもりなのでしょう」


 言いながら、わたしは回廊の先を見た。ファビアンが消えた角。異国の随員が立っていた窓際。何も見なかったような顔で大学職員が横切っていく、冷えた石床。


 他国の視線は、もう始まっている。講義も、学びの場であるだけでは済まない。


《《……感じ悪いねえ》》


 茉凜の声が、やけに低かった。


《《でも、美鶴。今の返し、悪くなかったよ》》


「……そう。なら、よかった」


 小さく返すと、詰まっていた息がほんの少しほどけた。けれど、そのぶん現実の重さがまた戻ってくる。


 わたしは胸の奥に残った震えを、ゆっくり押し鎮めた。


「ヴィル。この件、カテリーナにも伝えておいてほしい」


「わかった。すぐに将軍府へ回そう」


 迷いのない答えだった。


 わたしは抱えていた紙束を、胸元へそっと引き寄せる。昨日書き足した一文が、紙の中でまだ乾ききらないまま息をしているような気がした。


 『これは、奇跡という名で遠ざけるためのものでも、兵器という名で囲い込むためのものでもありません』


 回廊の冷えの中で、その一文はもう、ただの冒頭文ではなかった。薄く、けれど確かな盾の重さを帯びていた。


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