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闇へ落ちる前の白

 ヴィルの喉が鳴り、唾を飲む気配がした。


「〈場裏〉、展開……」


 呟いた直後、視界の端で白い球体が形成された。抱え込めるほどの大きさで、内側に淡い脈動を繰り返しながら、音もなく浮かぶ。


「……リラックスして。目を瞑ってて」


 囁き、球体を彼の頭部へそっと近づける。彼が目を閉じた瞬間、薄い圧だけを残して頭蓋を包んだ。濃密な精霊子の膜が脳内へ浸透し、血流と神経の隅々を映す準備を整えていく。瞼の裏に揺らめく光の粒が、神経伝達の営みとなって鮮明に広がっていった。


《《〈場裏〉形成――成功。高濃度精霊子――集積。大脳基底核付近と辺縁系を中心にスキャン開始》》


 茉凜の声が解析の温度へ変わる。滑るような冷ややかさが意識を整えた。


「前よりも活性が広がってる……見て、茉凜」


 立体の脳内マップが浮かび、光のシグナルが明滅した。深奥へ潜っていくような不思議な感覚。微細な閃光の連打が、静かに打ち寄せてきた。


 大脳基底核の周辺――活発な焦点がいくつも灯っていた。火花の根のような青白さが、脳の奥へ侵入していく。息を詰め、瞳を細めて追った。


 言葉にならない寒気が肋骨の内側を撫で、喉の奥がきゅっと縮んだ。


《《うん、やっぱり大脳辺縁系の一部にも波及してる。下手をすると、感情制御にも影響が及びそう。これって、あなたの黒鶴発動時のパターンに近いかもしれない》》


「嘘でしょう……」


《《マウザーグレイルの導き出した推測ではね……》》


 茉凜の声に合わせ、思考が冴えていった。青白い燐光は、単なる炎症や疾患では片づけられない異常を示している。唇を噛み、渦巻く光の筋を凝視した。


「そんなことって……」


 声がふるえた。身体の不調だけでなく、人格や情緒まで揺らぎかねない。


 このままでは、深淵の血族のように、精霊子が集まるほど情動に振り回される危険さえある。受容を制御する術を持たない彼に、その代償は大きすぎる。背筋に冷えが走った。


《《やっぱり、意図的に書き換えられたか、もともと仕込まれていたものが動き出したような構造があるね。これが自然発生だったら逆に奇跡だ》》


「誰かが仕掛けた、ということ……?」


《《そう考えるのが妥当。何の目的でこんな真似をしたのかはわからないけど、気味が悪いね》》


 眉間に力がこもった。知らないところで、彼の身体が人為的に変質させられたかもしれない。あるいは、古い仕組みが彼の内側で勝手に目を覚ましはじめているのかもしれない。どちらにしても、彼が抱えた痛みを思えば、喉が焼けるほど赦し難かった。


《《もう一歩踏み込んで、精細なスキャンをしてみる? リスクはあるけど、このままじゃ根拠の少ない推測しかできないからね》》


 一瞬ためらった。さらに深く干渉すれば、黒鶴の翼を抑えきれないかもしれない。それでも時間はない。侍医が来る前に、確かな手がかりを。


「……やるしかない、ということね」


 自分に言い聞かせ、息を整える。肩甲骨の内側がこわばり、周囲の空気が少し重くなった。視界の隅で、ヴィルが身じろいだ。


「ヴィル、気分が悪くなったらすぐ言って」


「わかった。こうなったら、もうどうにでもなれって感じだ。お前に任せるさ」


 視線が交わり、言葉にならない静寂が落ちた。不安と信頼が、同じ息の近さで伝わってきた。いまこの瞬間、命を預け合っているのだと喉の奥が知った。


「……ごめんね、ヴィル」


 こぼれたのは謝罪だった。どれほど心細いか、想像に難くない。それでも踏み込むしかない。


 マウザーグレイルの刀身がさらに眩い光をまとい、球体の表面に細い筋を刻む。高密度の精霊子が渦を強め、ヴィルの深奥へ圧をかけて押し寄せていった。呼吸が浅くなり、頬を汗が伝った。


《《美鶴、集中して。精霊子の流入量が増加して黒鶴の翼が出てくるかもしれないけど怖がらないで。いまはそれすら利用して、ヴィルの深いところを覗き込むしかない》》


「わかったわ。やりましょう……」


 茉凜の声が意識の奥を叩いた。瞳を閉じ、黒鶴の翼を呼び寄せる。深い闇が口を開き、黒い羽が背を覆った。かつてなら震えたはずの恐怖が、いまは不思議と静かな安心に変わっていた。


 闇から形づくられた翼が一枚ずつ伸び、先端に金と銀の滴。羽ばたくたび、脳内マップがさらに鮮明になり、彼の苦しみが血の温度で伝わってくる気がした。


 幾重にも絡む神経束。その一部が邪悪な意図を帯びたかのように歪み、異様な輝きを発していた。刻まれた配置――これを解かなければ。


 意識の深層へ手を伸ばした刹那、微かな波が立ち、何かがわたしの中へ流れ込んだ。


――これって、もしかして……ヴィルの記憶?


 わたしは彼の視点で過去を追体験した。


 荒涼とした戦場を駆ける若き日。肌にこびりつく血の感触。危うい笑み。若き父との穏やかな語らいの断片。色を帯びる映像がちらつくたび、みぞおちが掴まれた。


「……なんで、こんなものが見えるの」


 驚くほど弱い声が漏れた途端、脳内の光が激しく明滅した。低音が耳の奥を連打し、全身を締め上げる圧が襲った。ヴィルの身体がびくりと震え、寝台がきしんだ。


「大丈夫? ヴィル!」


 肩に触れかけた瞬間、低くかすれた声が落ちる。


「う、うあ……なんだ、これ……頭の中に……」


 指先が冷たく痺れた。脳内で何が起きているのか。想像だけで息が詰まりそうだった。


《《もう少し……もう少しでコアに到達する。頑張って、美鶴……》》


 茉凜の声にも微かなふるえがあった。呼び寄せた精霊子が暴れはじめているのか。背で黒鶴の翼が大きく羽ばたき、部屋の空気がわずかにねじれた気がした。


 奔流が脳図を駆け抜け、ついに核に触れた。遺伝子異常めいた構造――脳を蝕み、精霊子の受け取りを過剰に増幅させる根だ。


「これが……原因……?」


 吐き出すのと同時に、怒りと悲しみが込み上がる。誰が。何のために。歯を食いしばり、詳細をスキャンすべく意識を研ぎ澄ませた。いま手を緩めれば、何も掴めない。


 細い光が脳の隅々を走査し、異常を描き出していった。この情報が救いへの糸口になるかもしれない。そのかすかな希望だけを握った。


 だが視界の端が暗転し、全身に冷や汗がにじむ。黒鶴の力が限界へ近いのか。それでも――あと少し。


「ヴィル……もう少しだけ我慢して」


 どうにか声を絞ると、喘ぐ返事があった。


「わ、わかっている……」


 噛み合う歯の音に苦痛が混じった。意識の片隅で彼の姿を感じるたび、わたしも退けなかった。


 最後の走査波が駆け抜け、凄まじい閃光。頭の芯が裂ける。


 瞼を固く閉じ、吹き飛ばされる意識を両手で抱きしめるみたいに踏ん張る――そのとき。


《《美鶴、今すぐヴィルから〈場裏〉を切り離して!》》


 茉凜の声が鋭く跳ねた。いつもの飄々とした調子は消え、緊急の色だけが張り詰めている。薄刃で肋を裂かれたような痛みが、内側を攫った。


「……どうしたの?」


 嫌な汗が背を伝い、呼吸が合わず肺が軋んだ。


《《異常なフィードバックを検知したの。精霊子からの情報量が多すぎて、オーバーフロー寸前……。マウザーグレイルが全部受け止めきれないくらい暴走してるんだよ!》》


「わかったわ。いますぐ〈場裏〉を――」


 本能で指先へ意識を集め、包んでいた〈場裏〉を切り離そうとした。だが、そのわずかな隙――ヴィルの腕に抱かれた銘無しの聖剣が、突如、鋭い白光を噴き上げた。


 ――まさか、過剰干渉を検知したマウザーグレイルの安全機構が、わたしを危険域と判定したのか。銘無しの聖剣まで呼応して、強制同期の起動層が跳ね上がる。


 ツン、と金属がこすれる嫌な振動が空気を震わせ、肌を焦がすような熱が刺した。同時に、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が脳髄を打ち、意識が乱暴に掻き回された。


 思考が波打ち、膝の芯が抜けた。明滅が容赦なく視界を奪い、締めつける頭痛が短い間隔で脈打った。大きな鐘の内部に閉じこめられたように、脳が揺さぶられ、耳鳴りがきしむ。


「どう……なってるの……?」


 吐く息ごとに声がふるえ、頭を抱えた。ここで黒鶴が暴走すれば、ヴィルを救えないどころか離宮ごと壊しかねない。それでも止まらないほど、力の渦が膨れ上がっていく。


《《わかんない……制御系は全部限界突破してる。あの子たちも悲鳴を上げっぱなし。もう測定不能! 美鶴、すぐに集めた精霊子を解き放って! カウンターが来るかもだけど、ためらってられない!》》


 茉凜の声が鼓膜を撃つ。焼けつく熱が全身を苛んでいた。


「……止まれっ!」


 想念で形作った器を渾身で叩き割った。内側から弾ける圧に喉が詰まり、舌の奥に金属の味が広がった。


「ぐっ……」


 目前の白。あらゆる色と輪郭が剥ぎ取られた。


 奥歯が硬く噛み合う。


 遠ざかる意識の縁で、黒鶴の翼が大きく羽ばたくのをかろうじて感じた。飛び立つ直前の生き物みたいに激しくふるえ――次の瞬間、思考は砕けた光の粒に呑まれ、闇へ落ちた。


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