朧の光を分かち合う――病の騎士とわたし
薄曇りの空からこぼれたわずかな日差しが、離宮の静かな部屋へ鈍く差し込んでいた。白く整えられた寝台の上で、ヴィルはいつもの張りつめた気配をどこかへ置き忘れたみたいに横たわっている。夜を越しても抜けきらない寝具の冷えが、触れる指腹へひやりと返り、その冷たさが肋の内側を細くきしませた。
枕もとへ腰を下ろし、そっとヴィルの手に触れる。うっすらと揺れた瞳は、すぐに迷いを帯びた色へ沈んだ。長く隣を歩いてきたせいだろうか。その奥に潜む不安だけは、目をそらしても見えてしまう。
ごつごつとした手へ指を重ね、浅い息をひとつ整えた。どれだけ苦しみを飲み込み、どれだけ痛みをやり過ごしてきたのかと思うだけで、喉の奥が落ち着かなかった。
「リディアさんに頼んで、ここには誰も近寄らせないようにしてもらったわ。だから……人目は気にしないで、どうか今はしっかり休んでちょうだい」
タイムとセージを煎じた湯気が、低く部屋に満ちている。みぞおちの硬いところが、それで少しだけほどけた。
穏やかに聞こえるよう心がけたつもりだった。けれど、ヴィルの唇がふっと苦く歪むのを見た途端、喉の奥がきゅっと狭まる。
「滅多に病に伏さないというのが……俺のささやかな自慢だったというのに、こうもあっさり寝込むことになるとは情けない限りだ」
安堵と可笑しさが同時にこみ上げ、笑いそうになる口もとを慌てて指で押さえた。ほんの一拍、寝具がかさりと鳴る。
「そうは言うけど、ヴィル、あなただってもう四十を過ぎてるのよ? 若い頃と同じつもりで無理をしていたら、身体のほうが先に怒るわ。もう少し自分を労わってあげないとね」
わざとからかうように言うと、彼は悔しそうに目を伏せた。
「ふん、俺はそんなに軟じゃない。こんなものは一時的なものにすぎん。少し休めば良くなるに決まってる」
力のない口調なのに、今にも起き上がろうとする気配だけが消えない。その頑なさが、いまは彼を支えるよりも、むしろ追い詰めているように見えた。指先へわずかに力が入る。
「あなた……身体の調子がおかしいのを、ずっと隠してたわよね?」
落ち着かせたつもりの声に、かすかな震えが混じる。
茉凛の見立てでは、大脳基底核周辺の活動が異常に亢進している。もし器質的な変化にまで及んでいたなら、剣士としての反応も、判断の拍も、無傷では済まないかもしれない。剣一本で生きてきた彼に、その予感はあまりに残酷で、背筋がすっと冷えた。
「な、何を言っている。そんなの知らんぞ」
一言で片づけようとするけれど、ほんの一瞬視線を伏せたその仕草が、ごまかしにしか見えなかった。
「ごまかさないで。最近ずっと、息が浅かったり、眉間に皺を寄せて頭痛を我慢してるような、そんな顔をしてた。わたしはいつだってあなたの近くにいるんだから、見逃すわけないじゃない」
唇の裏をかすかに噛み、ひと呼吸だけ間を置いた。
「……なのに、わたしはそれを王宮側からの圧力のせいだとか、ただ働き過ぎているだけだとか、勝手に思い込んでいた。馬鹿もいいところだわ……」
言葉にするほど、肋の内側がかすかに軋んだ。もっと早く気づいて、もっと強く止められていたなら。そんな後悔が、今さらみたいに遅れて刺さってくる。
「……お前が辛い思いをしてるのに、不安を煽ってどうする。それに、これくらいたいしたことないと思ってたんだ」
ぽつりと落ちたその言葉に、舌の奥がひどく乾いた。剣を手にどんな脅威にも立ち向かう背中に、わたしは何度救われてきただろう。その強さが、ここまで彼を追い詰めていたのだと思うと、いたたまれなかった。
「たいしたことかどうかは、きちんと診察を受けてからでないとわからないでしょう? 我慢した挙げ句こんなことになって、わたしはそんなの少しも望んでない。あなたに何かあったらと思うだけで、苦しくなるの」
最後のほうは声がかすれていた。
ヴィルは目を伏せたまま、苦いものを噛み砕くみたいに息をついた。肩がわずかに沈む。その小さな重みが見えるだけで、みぞおちのあたりが痛んだ。
「それに、あなたが急に騎士らしい態度を完璧に守り出したのは、わたしの状況を慮ってのことでしょう?」
彼のまつげがかすかに伏せられ、その沈黙だけで胸の奥が冷えた。
「わたしに余計な心配をさせないようにって、自分を律していたのよね。……どれだけ自分に鞭打っていたの?」
問いかけながら、彼の顎を少しだけ持ち上げて視線を合わせる。そこにあるのは、弱さを見せたくない意地と、今にも折れそうな苦しさだった。どちらも痛いほど伝わってくる。
「そんなふうに、何もかも器用にできるわけじゃないでしょう? あなたが無理をしてまで頑張らなくてもいい。わたしは……あなたまで失いたくない。大切だから、守りたいのよ……」
最後はほとんど囁きだった。部屋の静けさの中で、その声だけが薄く残る。
ヴィルは目を伏せ、静かな息を吐いた。寝具がわずかに擦れて鳴る。
「……お前にそこまで言われるとは、思いもしなかった」
「ヴィル……」
「いや、悪かった。ありがとうな、ミツル……」
掠れた声が耳に触れた瞬間、肋骨の裏で張り詰めていたものが少しほどけた。彼がほんのわずかでも弱音を預けてくれたことが、こんなにも安堵を連れてくるとは思わなかった。
彼の大きな手は、まだ熱を持ったままわたしの指を包んでいる。いまはそのぬくもりの中に、以前なら見えなかったかすかなふるえがあった。
「俺は、お前を護ると誓った。だが、良かれと思って先走ったせいで、お前の気持ちに気づく余裕などなかった。隠し事はしないって約束したのにな」
わたしは瞳を伏せたまま、穏やかに首を振った。彼の想いが足りなかったわけじゃない。ただ、強すぎたのだ。
「ううん、そんなことはもういいの。わたしだって、逃げ場のない状況に置かれて八方塞がりだったから、どうしていいかわからなかった。ヴィルが心配するのは当然よ」
あのとき、わたしはIVGシステムの解放に踏み込む可能性がもたらす、記憶層の揺らぎへの恐怖に震えていた。逃げたくない。でも前に進むのも怖い。そこへ王宮からの圧力や、クロセスバーナの不気味な影、周辺諸国の思惑まで重なって、もう何も捌ききれなくなっていた。
そんなわたしを見て、彼は彼で、自分にできることを探していたのだろう。
「すまん。もっとちゃんと話し合うべきだった。目の前のことに必死になると、どうにも余裕をなくす。悪い癖だ」
「そうね。そこが雷光さまのいけないところかも。一言いってくれればいいのに」
「うぐ……面目ない」
なんとも言えない空気が、ふたりのあいだを包み込む。けれど不思議と、苦しさよりも安堵のほうが勝っていた。
「でも、わたしも悪いの。つい何でも抱え込んでしまう癖があって……いけないってわかってるのにね」
「そうだな。お前は考え方が成熟しているわりに、そういうところはまだ未熟だ。だから心配になる」
「それは……悪かったわ」
「お互い様ということだな」
「ほんと……」
そこで、なぜだか互いに笑みがこぼれた。張り詰めていた空気が、ようやくひと筋ゆるむ。
その静かな瞬間、マウザーグレイルのほうからかすかな振動が返った。意識の水面に小石が落ちたみたいに、脳裏へ波紋がひろがる。剣に宿る茉凛の声だった。
声は、どこか遠慮がちに響いてくる。
《《……美鶴、いいところを邪魔して悪いけど、ちょっといいかな?》》
わたしはそっと目を伏せ、彼女に答える。
「どうしたの、茉凜? 何か新しいデータでも得られた?」
問いかけると、思考の奥深くに、彼女の緊張を含んだ返事が波紋のように揺らめいた。
《《……うん。ヴィルがここまで弱った原因について、追加の解析を進める必要がありそうなの。医療棟では調べきれなかった精霊子との共振パターンを、なるべく詳細に確認したい。彼の様子が落ち着いている今なら、まだ間に合うかもしれない。それから……》》
握った鞘の冷たさがじわりと掌へ移り、次の言葉を待つあいだだけ、部屋の静けさがひどく深くなった。
《《美鶴も、もう考えてると思うけど……彼の銘無しの聖剣が、この現象にどう関わっているか。そこを調べることが、きっと手がかりになるはず》》
「わかったわ。わたしも協力する。……でも、いまは彼を少しだけ休ませてあげたいの。ちょっと頑張りすぎていたから、ね」
わたしの躊躇を感じ取ったのか、茉凜はやわらかく声を落として返してきた。
《《うん、無理に起こしてまでやるつもりはないよ。それに、今のところ脳の変質が命に触れる種類には見えないし、急いで手を出さなきゃいけない段階でもなさそう。いまは彼のことを最優先にして。落ち着いたら検査したい、って伝えてくれる?》》
その言葉にほっと息を吐いた。枕もとの小さな帳面を引き寄せ、片隅に「検査」とだけ細く記す。
ヴィルはわたしの顔を見上げている。
すでに彼には、剣の中に存在する茉凜のことは明かしていた。けれど彼女の声は彼には届かない。それでも、わたしが何を考え込んでいるのかは気づいたのだろう。
「ごめんね、ヴィル。ほんの少しだけ茉凜と話していたの。……彼女が、あなたの身体をもっと詳しく調べたいって」
率直にそう伝えると、ヴィルは眉を寄せた。一度息を吐き、絞り出すように答える。
「そうか……お前の魂の盟友の言葉だ。信じよう。いつでも、構わない。どうせなら、先王陛下を治療した秘術、この目で見届けたいものだな」
虚勢ではなく、腹をくくった声だった。前を向いてくれたことに、わたしはかすかに口もとをゆるめた。
「ありがとう。いまは無理しなくていいから、ゆっくり休んで。様子を見て、明日にでも検査を始めましょう。……わたしもできる限りのことをするから」
言葉を交わしながらヴィルの手を握りしめると、傷だらけのごつごつした指先がかすかに力を返してきた。先ほどまでとは違う温度が、掌の芯にゆっくり伝わってくる。
「わかった。俺はお前を信じている」
胸が早鐘を打った。あの朝渡された、走り書きの文字が脳裏に蘇る。
――【俺を信じてくれ】――
インクの匂いが、ふっと鼻先を掠めた気がした。
ばらばらだったものが、ようやくひとつに寄りはじめた気がした。
――ええ、わたしもあなたを信じているわ。
ヴィルがまどろみの中でかすかに息をついた。浅い呼吸は本調子とは言えないけれど、倒れた直後よりは明らかに楽になっている。肩の起伏がゆるやかになっていくのを確かめながら、わたしは指先の力をそっと抜いた。
遠くの廊下を歩く足音がかすかに聞こえた。おそらくリディアだろう。誰も近づけないよう頼んであるけれど、心配で見回りをしているのかもしれない。
窓の外にはまだ厚い雲が垂れ込めている。けれど、その下に差す薄い光だけが、レースの裾をかすかに染めていた。
彼の寝息が一定のリズムに落ち着いていくのを耳の奥で拾いながら、わたしのまぶたもゆっくり重くなっていく。
――絶望の淵にいたわたしに、彼は何も言わずにそばにいてくれた。あの温もりを、今度はわたしが返す。
握ったままの手の中で、彼の脈がかすかに打っていた。その一拍ごとを数えるように、わたしは静かに目を閉じた。




