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白壁の奥の揺らぎ

《《美鶴、躊躇ってる場合じゃない!》》


 ためらいに足を取られた背中へ、茉凜の声が鋭く落ちた。呼吸の置き場を失ったみたいに、胸の奥がひとつ詰まる。


《《あなたにとって、ヴィルは大切な人なんでしょ。その彼をこんなところで死なせたら、あなた、一生後悔することになるよ?》》


 大切――その一語が、みぞおちの深いところへまっすぐ沈んだ。


 薄いシーツの上で不規則に上下する胸。汗に濡れた金の髪。閉じきれない唇。どれもが、わたしの知っている彼から遠い。見慣れたはずの大きな背中は、いまは身を守ることすらままならないほど脆く見えて、喉の奥が焼けるように熱くなった。


 彼に手を引かれて、わたしはここまで来た。閉ざしていた世界の外へ踏み出せたのも、こんなふうに誰かの隣で息をしていられるのも、全部この人がいたからだ。


 ――失いたくない。こんなところで、絶対に。


 隣では、魔術大学付属医療棟の医療実習生が冷却布を替えながら、こちらを気遣わしげに窺っている。


 気づかれないように。けれど、間に合わなくなる前に。


 その二つが胸の内で擦れ合い、指先ばかりがひどく冷たくなった。


「……わかった。茉凜、お願い、力を貸して」


 小さく頷き、わたしはヴィルの枕元へマウザーグレイルをそっと置いた。鼓動が早鐘みたいに跳ねている。外から見れば、額へ触れる手を入れ替えたくらいにしか見えないよう、呼吸を整えて身を寄せる。


《《よし、場裏の展開と同時に、精霊子共振解析を起動する。美鶴、精霊子を集めて。出力は診断域まで絞る。場裏を頭蓋内へ浸透させて、脳全体を薄く包み込むんだ。組織には干渉しない。精霊子の反響だけを拾う。いいね?》》


 その指示を聞きながら、わたしは彼の枕元へ意識を寄せ、息をゆっくり整えた。薬草の青い匂いの向こうで、医師が記録帳へ筆を走らせる気配がかすかにする。実習生は薬液の支度に追われ、まだこちらへは視線を戻していない。


「集え、精霊子(ちから)よ……」


 意識を沈めると、散っていた精霊子が、呼吸の拍に沿って静かに寄ってくるのがわかった。見た目には何も変わらない。けれど、掌の奥では細かな震えが立ち上がり、空気の密度だけがひそやかに変わっていく。


「場裏を展開……」


 剣先のごく近くで、薄い膜の気配が生まれる。壊すためではなく、ただ反応を拾うために絞りきった、ごく微かな干渉だけを保つ。わたしは息を詰め、その薄さのままヴィルの頭部へ寄せていった。


「……場裏、頭蓋内へ浸透。脳全体を包み込みます。精霊子共振解析、開始」


 言葉と同時に、球体の領域がするりと沈んだ。頭蓋の内側へ、薄い膜が水のように入り込み、脳の輪郭を外から包み込む。触れているのに、動かさない。押さえるのではなく、ただ響きを待つ。その危うい均衡を、わたしは息を詰めて保った。


 額に触れた手がじっとりと汗ばむ。薬草と金属器具の匂いが混ざり、鼓動ばかりが耳の内側でうるさかった。遠くで雨粒が窓桟を叩く乾いた音が、白壁の天井へ当たってほどけていく。


《《……高濃度精霊子のふるまいを把握。共振データを認識、収集……マウザーグレイル側へ送る。現在、解析モードへ移行……》》


 茉凜の声が、少しずつ平坦な調子へ変わっていく。マウザーグレイルの奥深くへ潜るとき、彼女が演算へ寄っていくことは知っている。それでも、その響きに触れるたび、背筋が細く震えた。


《《解析開始……目標部位、脳髄……脳血管……組織状態を精査……》》


 瞼の裏に、金の細線がふっと立ち上がる。夜の川面へ灯が散るみたいに、複雑な流れが一点へ収束していく。前世の知識が遅れてそれを結び直した。脳の像だ。


 祈るみたいに、その像へ意識を縫い止める。


 ――出血は? 腫瘍は?


《《……現在、脳内出血の痕跡なし。腫瘍らしきものは見受けられず。微細な梗塞痕がわずかに散見されるものの、今回の症状に直結する急性所見ではない。血管壁の明らかな破綻も確認できず……》》


 ほっとした。急な出血や、目に見える大きな病巣はないらしい。けれど、次の瞬間、茉凜の思念が小さく波打った。


《《……気になる部位を発見……大脳基底核付近、明らかに不自然な活動増加……なにこれ? ふつうの炎症や浮腫とは違う》》


「大脳基底核……?」


 脳の深いところ。運動や感情の拍に関わるあたり――美鶴として覚えた知識が、遅れて胸の内へ浮かぶ。


 金の線で編まれた像の中で、その一角だけが青白く揺れていた。血の流れそのものではない。けれど、何かがそこへ偏って集まっているように見える。


《《どうやら、単なる疲労や感染症の問題ではなさそうね。まだ特定はできないけど、何かしら脳内の神経活動を著しく乱している原因があるはず》》


 息が浅くなる。出血や腫瘍がないから終わりではない。むしろ、正体の見えない揺らぎだけが残るのが、かえって不気味だった。


 ゆっくりまぶたを開くと、現実の光景が戻ってくる。汗ばんだ額をかすかに光らせたヴィルが横たわり、色の薄い唇が短い呼吸に合わせて開いては閉じている。


 目に見える大きな破綻がないのに、彼はこんなにも苦しそうだ。立ち止まっているわけにはいかない。


「……茉凜、解析を続けてちょうだい」


《《もちろん、任せて。拾ったデータをもう少し細かく見て、活動増加の要因を探ってみる。ミツルはヴィルの身体を安定させてあげて》》


 わたしは頷き、外からはただ看病しているように見える仕草のまま、額へ布を当て直した。医師と実習生の足音が、向こうで交差している。まだ悟られてはいない。


 いずれにしても、切迫した出血や腫瘍ではないと知れただけでも、不幸中の幸いだった。処置の方向が変わるだけで、救える余地は増える。


 問題は、大脳基底核周辺の青白い偏りだ。正体を見誤れば、かえって彼を危険へ近づけるかもしれない。


 ――一体、何が原因なんだろう……。


 医療棟のざわめきの中で、思考だけが空回りする。ヴィルが苦しみ始めるような心当たりは、まだどこにも見えない。


「ヴィル……頑張って」


 思わず、彼の手を握り締める。傷だらけの大きな手は、さっきよりほんの少しだけ熱が下がった気がした。かすかな変化でしかない。けれど、彼もまだ踏みとどまっているのだと思えた。


 だから、ここで止まるわけにはいかない。


 そんな焦燥に追われていたとき、不意に茉凜の声が脳裏へ刺さった。


《《……美鶴。信じられないかもしれないけど、聞いてくれる?》》


 その響きが、少しだけふるえている。身体の芯がこわばった。


「原因が分かったの? それとも別に悪いところでも見つかった?」


 病巣なのか。脳そのものの深刻な異常か。それとも、この世界の理屈では届かない何かか。悪い想像だけが、頭の中で渦を巻く。


《《あのね……場裏の中で踊ってる精霊子なんだけど……》》


「精霊子が? どうしたの?」


 意味がすぐにはつながらない。わたしが呼び集めた精霊子は、ただ反応を拾うために流しているはずだった。検査のための媒介でしかないはずなのに、心臓だけが嫌な速さで跳ねはじめる。


《《どうやら、それがヴィルの大脳基底核に引き寄せられて、流れ込んでいってるみたいなの……》》


 一瞬、息が止まった。茉凜の声は淡々としているのに、その下に潜む緊張だけが鮮明に伝わってくる。


「な、なんですって……?」


 自分の声だけが、浮いて聞こえた。遠くで誰かが器具を動かす音がしているのに、それも今はひどく遠い。耳の奥では心臓の音ばかりが大きく鳴り続けていた。


 ヴィルの脳へ、精霊子が流れ込む。どうして。そもそも精霊子を受け止める器も持たないはずの彼が、なぜ引き寄せることができるのだろう。


 焦燥と疑問が入り混じり、手のひらにはいつの間にか汗がにじんでいた。一方で、白いシーツの上のヴィルは、うっすらと睫毛を震わせながら、か細い呼吸を続けているだけだ。ここでわたしが取り乱せば、救えるものまで見失うかもしれない。


 唇を噛み、心を鎮めようと深く息を吸った。


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