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罪の子と勅命の壁

 リーディス王立魔術大学。


 わたしは護衛として帯同を許されたヴィルと並び、大学の石造りの長い廊下を歩いていた。高窓から落ちる薄い光が石床へ冷たく伸び、壁際に指を添えると、石灰の粉が指腹へかすかに移った。紙とインクの匂いは廊下の冷気に滲み、遠くで講堂の小鐘がひとつ鳴ると、二人ぶんの靴音がほどけるように消えていった。


 王立を冠してはいるものの、制度の上では門戸は広い。国籍も身分も問わず、魔石から発せられる魔素を規定以上の適性で引き出せる者が、筆記と面接を通れば入学を許される。


 ただ、才能だけで続けられる場所ではない。理論と実地の歯車が噛み合わなければ、冷えた石壁はすぐに限界を告げる。ここはまさしく、魔術の世界における実力主義を地で行く場所だった。


 お祖父さまは、そんな気風に強く惹かれていた人らしい。魔術適性そのものは高くなかったが、研究者として、また指導教官として功績を積み重ねるうちに評価を高め、現王へ王位を譲ったのち、この大学の総長に迎えられた。恵まれた才がなくとも、理論と研鑽で補える。逆に、才に頼るだけではいずれ行き詰まる。お祖父さまがこの場所の精神を理想とした理由を、わたしは少しずつ理解できるようになっていた。


 もっとも、わたし自身は正式な学生ではない。先王陛下であるお祖父さま――すなわち総長から、特別聴講生という立場を与えられているだけだ。


 ただ、居心地の悪さの理由は、その肩書よりも別のところにあった。先王陛下の治療実績が侍医司から漏れ、わたしが精霊魔術を扱うらしい、という噂が学内へ広がってしまったのだ。最近では、わたしの素性にまつわる話まで尾を引き、廊下を歩けば、「王家の恥」だの「罪の子」だのという囁きが背をかすめる。そう多くはないにせよ、利用価値を見積もるような貴族子弟の視線が、冷たく留まることもあった。


◇◇◇


 高窓の外は灰色の雲に覆われ、朝の光はすでに名残のように淡い。湿りを帯びた空気の中で、磨き油の匂いが古い石灰の粉っぽさと混じって沈んでいく。天井近くには大学の紋章をかたどった紋様が浮かび、その浅い凹凸だけを薄い光が静かに撫でていた。


 隣を歩くヴィルは、周囲の気配を拾う癖を崩していない。視線の揺れは最小限で、肩の布地が擦れる音だけが一定の拍で耳へ返ってくる。その律し方が、今日はいつもより少しだけ固く見えた。


「ヴィル、そんなに急がなくても大丈夫よ。……それより、ちゃんとご飯は食べてる?」


 問いかけのあと、ほんの短い間。彼は眉を寄せかけて押し戻し、頬の筋肉だけをわずかに固くした。


「ご心配には及びません。食事はきちんと摂っております」


 ぶっきらぼうだった剣士が、いまは騎士の所作を隙なく纏っている。石壁に落ちる影まで背筋が通って見えるのが、少し可笑しくて、少し寂しい。


 ――でも、この実直さは昔から少しも変わっていないのよね。……それに、今の顔も、意外と悪くない気がするし。


 横顔を盗み見る。刈り揃えた金髪が淡い光を弾き、耳の線が冷えた空気に清く浮く。眠れているのかしら、と胸の内が細く波立った。


「気のせいだといいんだけど、最近ちょっと顔色がすぐれないように見えるの。どこか無理してない? 昨夜も遅くまで巡回してくれていたんでしょう」


 彼は一瞬だけ息を浅く吸い、視線を窓の外へ逃がしかけてから、きちんとこちらへ戻した。その整え方が、かえって胸に刺さる。


「特に無理は。通常通り、問題ありません。……お嬢様こそ、最近きちんとお休みになれていますか?」


 苦笑が唇に触れ、すぐ薄まった。講義の準備、魔導兵装の資料、積み上げた紙束のざらつき。体はまだ動くのに、心だけが時々、風に冷やされるみたいに軋む。


「わたしなら平気よ。そんなことより、あなたが心配なの。護衛の騎士さまに倒れられたら、本当に困っちゃうんだから」


 冗談めかしてみせると、彼のまなざしがほんの少しだけ揺れた。唇が結ばれ、頬の影がきゅっと締まる。


「承知しております。専任護衛として、お嬢様の安全が最優先の任務です。倒れるなど言語道断」


 教本の一節みたいな返答だった。けれど、その硬さの下に、心配をかけたくないという熱があることくらい、いまのわたしにはわかる。


 ――力みすぎなのよ。


 そう思うのに、きちんと守ろうとする意地が、どうしようもなく胸に残る。あんなに張り詰めた背中でも、そっと触れたらたぶん温度でほどけてしまうのだろう。


 靴音が二つ、石の床で重なって、また離れる。わたしは彼の横顔をもう一度だけ確かめ、肺の底に溜まった冷たさを静かに吐いた。


「まあ、そう言われちゃうと返す言葉がないわね。でも、わたしの心配ばかりしていないで、あなたもちゃんと休むのよ。これは命令ですからね」


 軽く、けれど主らしく。彼はわずかに目を見開き、すぐ真面目な顔に戻って、歩調だけ半歩ぶんゆるめた。


 ――いつも、そうやってわたしの歩幅に合わせてくれるんだね。何でもないみたいな顔をして。……知ってるよ。


 胸の内側に、小さな灯が点る音がした気がする。


 けれどそのとき、ヴィルの気配がすっと変わった。警戒の線が肩へ入り、彼はわたしの横へ半歩寄る。


 廊下の向こうから、ひとかたまりの人影が近づいてくる。派手な刺繍入りのマントを翻し、制服の胸には装飾品がいくつも光っていた。名家か貴族の子弟なのだろう。遠目にも、鼻につく種類の余裕があった。


 案の定、その中のひとり、深紅のマントをまとった青年が、わざわざ進路を塞ぐように前へ出る。裾が石に擦れ、乾いた音が小さく跳ねた。


「おや、これは珍しい。どこかでお見かけしたことがあると思ったが……もしや、ミツル・グロンダイル殿かな」


 面識など、あるはずがない。


 ――知っていて近づいてきたくせに、偶然を装うのね。


 そういう滑り方の声だった。


「そうですが。何か御用でしょうか」


「いや、失敬。まだ名乗っていなかったね。僕はファビアン・グランブイル。グランブイル公爵家の嫡男だ。……ああ、もしかして、ご存じなかったかな?」


 最後の一言に、試すような含みがあった。知らないだろうと決めたうえで、わざわざ口にしてみせる手つきがいやらしい。


「申し訳ありませんが、存じ上げません。特に交流のない方の家門までは、承知しておりませんので」


 取り巻きのひとりが、声をひそめながらも聞こえるように囁いた。


「グランブイル公爵家を知らないとは。やはり田舎育ちは困るな」


 別のひとりが、わざとらしく肩をすくめる。


「仕方あるまい。なにしろ、何かと難しいお立場のお方だ。社交のいろはを教わる機会もなかったのだろうさ」


 聞こえよがしの嘲りが、石壁に低く跳ねる。指先が冷えた。けれど顔には出さない。こういうとき、前世の記憶は黙って盾になる。


 ファビアンは取り巻きを制するでもなく、むしろその空気を愉しむみたいに、ゆるやかな調子で言葉を継いだ。


「まあまあ、そう言ってやるな。……グロンダイル殿、失礼があったなら詫びよう。ただ、離宮にお住まいとなれば、やはり周囲の関心は集まるものでね。いろいろと噂は耳にしているよ。玉座の間では、たいそうご活躍だったようだね」


 香油の甘さが、ことさらにやわらいだ声に薄く張りついた。


「しかも、先王陛下からは特別な後見を受けているとか。画期的な治療法を編み出し、陛下のお身体の回復に貢献したとか」


 声音はやわらかいのに、問いの先だけが少しも笑っていなかった。


 ――情報の出所が気になるわね。やはり侍医司のどこかから漏れたのか、それとも公爵家の独自筋か。


 奥歯がかすかに噛み合う。けれど表情は動かさない。


「噂というものは尾鰭がつくものですわ。あまり鵜呑みになさらないほうがよろしいかと」


「ははは、これは手厳しい。でも僕は、噂ではなく君自身に興味があるんだ。どうだろう、一度お茶でもご一緒しないかい。こうして立ち話で終えるには、少々惜しいと思ってね」


 ようやく、声の底が覗いた。孤立を突き、庇護を恩に見せる。いかにも安い筋書きで、笑いさえ出そうになる。


 ――柚羽の家督を継ぎ、深淵の巫女として生きていた頃、そうして擦り寄ってくる男は嫌というほど見てきた。


 二十一年分の経験が、十二歳の皮膚の下で、かろうじて呼吸を整えていた。


「ご厚意はありがたいのですが、いま演習室へ向かう途中ですの。お心遣いだけ、ありがたく頂戴いたします」


 やんわり断っても、ファビアンは引かない。むしろ、笑みが一段だけ深くなる。


「そう急がなくてもよいだろう。演習室なら逃げやしないさ」


 取り巻きのひとりが、待っていたみたいに口を挟んだ。


「せっかくグランブイル家のご子息がお誘いくださっているのだ。もう少し謙虚な態度をとってもよいのではないかね」


 もうひとりが、さも親切そうに続ける。


「グロンダイル殿も、この王都では何かと肩身が狭いのではないかな。貴族院中枢に連なる公爵家のご厚誼を得ておけば、居心地もずいぶん変わると思うが、いかがかな。……それとも、離宮の庇護だけで十分とお考えかい」


 ――来たわね。


 柔らかい誘いの皮を剥がせば、下から出てくるのはいつだって同じだ。弱みを嗅ぎつけ、助けるふりで首輪を差し出す。


 わたしは足を止め、静かに振り返った。深く息を吸い込み、相手の目を正面から受ける。


「ご親切はありがたいのですけれど、わたくしにとって、あなた方との茶会や社交は何の意味も持ちません。関わる気がないと申し上げているのです。もし言い方がお気に障ったのでしたらお詫びしますが、いらぬ干渉はお控え願えませんか」


 空気がぴんと張る。取り巻きの笑いが、そこで途切れた。


 その瞬間、ファビアンの目に別の色が差した。値踏みではない。個人の興味を装っていた薄皮の下から、政治の思惑がようやく覗いたのだとわかる。声はひとつ低くなり、廊下の冷たさへまっすぐ沈んだ。


「……ミツル・グロンダイル。ひとつだけ言わせてもらえないか」


「どうぞ」


「君が世間から『罪の子』などと呼ばれていることは、僕だって不愉快に思っている。本来尊ばれるべき存在が嘲りの的にされるなど、到底看過できないんだ」


 確かにわたしは、公的には「誘拐犯ユベル・グロンダイルがメイレア王女を手籠めにして産ませた子」とされている。カテリーナの根回しで、市井では別の噂も少しずつ広まりはじめているけれど、王侯貴族のあいだでそれが覆る気配はまだない。


 陰口にはもう慣れている。けれど、こうして面と向かって「守ってやる」という顔をされると、侮辱を丁寧な布で包まれたような気分になる。


 ――わたしを都合の良い道具としか見ていないのが、よくわかるわ。


 ファビアンはその視線を受け止めたまま、さらに言葉を重ねた。


「僕はね、君のような稀有な才が、不当な噂の中で軽んじられている現状を、好ましいとは思わない。だからこそ、こちらから手を差し伸べる価値があると思っているんだ。いずれ僕たちの力が、君の助けになる日も来るだろう。父上も、君の精霊魔術がこの国を動かす鍵になると言っていた」


 ――父上、と出たか。


 公爵家の判断として接触してきていることを、もう隠す気もないらしい。


 精霊の巫女メービスの再来と噂されるわたしと懇意になれれば、公爵家にとって利はある。王宮上層部とは情報の質が違うにせよ、腹の底まで変わるわけではない。


 毅然と断りの言葉を選ぼうとした、その刹那。ヴィルが一歩前へ出た。わたしの前へ、すっと壁みたいに立ちはだかる。


「お嬢様に近づくことは許されません」


 静かな厳しさを湛えた声だった。取り巻きのひとりが、せせら笑うように鼻を鳴らす。


「護衛の騎士風情が、分をわきまえろ。口を挟むな」


 ヴィルは視線ひとつ揺らさない。冷えた空気が、彼の声だけを細く研いだ。


「いいえ。これは先王陛下の勅命であります。いかなる者であろうと、お嬢様のご意思を妨げることは許されません」


 言葉が落ちると、回廊の空気が浅くざわめいた。誰かが息を呑む。


 王立を冠するこの場で、先王の勅命を真っ向から踏みにじるのは、さすがに貴族でも容易ではない。取り巻きたちは目配せを交わし、ファビアン自身も一瞬だけ唇を引き結んだ。悔しさと苛立ちを押し殺すように息を吐いて、それでも体裁だけは崩さない。


「……そうか。離宮に住まうばかりか、先王陛下の勅命まで受けているとはね。これは恐れ入った」


 それでも、簡単には退かない。ファビアンはわずかに身を傾け、ヴィルの肩越しへ声を滑らせた。取り巻きには届かない低さだった。


「だが、覚えておいてくれ。勅命がいつまでも盾になるとは限らない。先王陛下のご体調が万全でないことは、宮廷では今さら隠しようもない」


 ヴィルの肩越しに届く声は低く、言葉だけが妙に近かった。


「……僕は敵ではないよ、グロンダイル殿。今日のところは引き下がるが、君が本当に困ったとき、頼れる相手がどれだけいるか、よく考えておくといい」


 背筋を冷たいものがひとすじ走った。お祖父さまの体調にまで触れてくるということは、公爵家の情報網がかなり深いところまで入り込んでいる、ということだ。


 けれど顔には出さない。わたしは彼の目をまっすぐ見返し、静かに告げる。


「ご忠告、ありがたく承っておきますわ。けれど、進むべき道はわたくし自身が選ぶものです」


 袖口の内で指先をそっと結び、喉へ残る冷えをひとつ呑み下してから、声だけを崩さず続けた。


「わたくしは先王陛下に深い敬意と感謝を抱いておりますし、この国の人々を大切に思っています。あなた方の指図を受けずとも、この国のために尽くせるよう日々研鑽を積んでおりますので、どうぞご心配なく」


「……なるほど。ずいぶん、はっきり仰る」


 ファビアンの顔がわずかに歪み、肩の筋が固くなる。舌打ちを呑み込んだ気配だけが、唇の端に一瞬ひっかかった。けれど周囲の視線に気づくと、彼はそれ以上を押し殺し、取り巻きを引き連れて踵を返した。深紅の裾が石へかすかに擦れ、革靴の音が、わざとらしいほど一定の拍で遠ざかっていく。


 角を曲がる直前、その肩が一度だけ強張って揺れ、すぐ見えなくなった。


 残された空気には香油のほの甘さが薄く漂い、静けさの底で、わたしの脈だけがようやく本来の拍へ戻りはじめる。


「……助かったわ、ヴィル。あなたがいなかったら、しつこく絡まれて時間を無駄にするところだった」


 胸に渦巻いていたものを静かに吐き出すと、ヴィルは短く頷いた。ほんのわずか、肩の線が緩んだように見える。


「お嬢様をお守りするのが任務ですから。お気になさらず」


 素っ気ないほど淡々とした声。けれど、こういう瞬間にはその硬さがしみじみと響く。


 あの男の最後の言葉だけは、やはり気にかかった。お祖父さまのご体調に触れ、勅命がいつまでも盾にはならないと匂わせたこと。捨て台詞では済まない。公爵家が、わたしの後ろ盾の揺らぎを見越して、もう動きはじめているということだ。


 宰相代理のフロイス。グランブイル公爵家。王宮と貴族院の思惑は、もはやひとつの筋ではない。複数の力が、それぞれの理屈で動いている。


 ――カテリーナに伝えておかなくては。


 喉の奥に残ったざらつきを、息で押し鎮めるように背筋を立てる。冷たさをひとつ吐き切り、意識を切り替えた。


 足を踏み出す。隣のヴィルの靴音が、半拍遅れて寄り添うように重なった。


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