灰被りの騎士と戦わぬ巫女
昼下がりの陽光が、アーチを描く大窓から深く差し込み、磨かれた石床の上に淡い金の帯を敷いていた。光は冷えを追い払わない。靴裏からじわりと上がる冷たさが、脛に薄く残っている。
壁掛け時計の針が刻む音が、高い天井で静かに反響する。遠い鐘の気配だけが胸の奥で微かに震えていた。
わたしは唇をきゅっと引き結び、揺れる思考を沈めるみたいに、指先へ力を込める。
ここは王立魔術大学の総長執務室。古書の乾いた香りに、獣毛のタペストリーの温い匂いがほんのり混ざっている。石壁の影には細かな埃が浮かび、室内の静けさをいっそう濃くしていた。
窓と対面する大机のそばに、お祖父さま――先の国王であり、今は王立魔術大学の総長であるグレイハワードが立っている。その背の線は穏やかなのに、今日は肩まわりだけが少し硬く見えた。
わたしの隣では、護衛騎士のヴィルが控え、赤い外套の裾が室内を巡る微かな気流に揺れている。三人だけで、ひとつの決断に臨む。掌の乾きに気づき、そっと指先を重ねた。
「精霊魔術講義の国家イベント化か……。予想はしていたが、いささか拙速が過ぎるな。ソミンの王子の来訪が、どれほど国王を焦らせたのか――察しはつく」
お祖父さまの指が、机の角で一度だけ止まり、離れた。
「実のところ、昨日も宰相の使いが魔導兵団の工廠にまで押しかけてきてね。開発中の新型大型魔導兵装を公開せよ、とまで言い出したのだよ」
低い声に、いつもの柔らかさが薄く欠けている。言葉の端に混じる硬い響きが、室内の温度をひとつ下げた。
背中越しにその苛立ちを受け取りながら、わたしは小さく息を吐く。乱れかけた呼吸を、机上に落ちる光の縁へそっと預けた。
お祖父さまは元来、学究の人だ。退位してなお民の信頼に支えられ、大学にも兵団にも助言する重しであり続けている。「一介の老人さ」と自嘲する口ぶりの奥に、磨かれた静かな剛さがあるのをわたしは知っていた。
「わが国にとって秘中の秘たるあれを、わざわざ衆目に晒す。愚の骨頂だろうに……」
わたしは机の縁に触れ、石のひんやりとした感触で意識を安定させる。窓辺の蔦の刺繍に陽が引っかかり、金糸が小さく瞬いた。
「ロイドフェリクが欲しがっているのは、所詮、権威の上塗りと虚勢にすぎんよ。情勢が読めぬからこそ、一層の慎重を期すべきところだろうに。――まったく、我が息子ながら困ったものでな」
お祖父さまの横顔に、ふと昔のやさしい面影が差す。けれどそこに沈む影――現国王ロイドフェリクとの確執――は、言葉にせずとも室内に漂っていた。
わたしは視線を落とし、紙の角を揃えた。爪に触れる繊維のざらつきが、心の置き所をひとつ作ってくれる。
「兵器の開発そのものを否むつもりはない。西部戦線の教訓もある。クロセスバーナの脅威を思えば、軍備の強化は理にかなう」
椅子の肘掛けを握る指が、少しだけ白くなっていた。
「――だが、まだ不完全な試作品を、ああまで見世に出すやり口にはな。とても首は縦に振れんよ」
お祖父さまは椅子の背に体を預け、深い溜め息をついた。木が小さく鳴り、窓辺のレースがそっと揺れる。
「……ミツル、実は君に伏せていたことがある」
胸の奥で、針がとまった。わたしは自然に背筋を正す。呼吸の底に小さな空洞が生まれ、そこへ言葉が落ちてくるのを待つ。
「なんでしょうか」
自分の声は思ったより落ち着いていた。喉を過ぎる空気は冷たいのに、胸の内側だけがぬるく疼いている。
「玉座での一件は、君も覚えているだろう」
「はい。私は王から謁見を――いえ、あれは実質、尋問でした。問答を重ねるうちに、先方の意図は隠しきれなくなった。“黒髪のグロンダイル”を有用な戦力としてリーディスに組み込みたい、ただその一点です」
口にした瞬間、舌の奥に金属の味がほんの少し滲んだ。ヴィルの横顔が視界の端で動き、呼気が少しだけ深くなる。
「ああ。だからこそ、先王の名のもとに君を保護すると決めたのだ」
短い間。わたしは視線を上げ、光の粉塵の向こうにあるお祖父さまの瞳をまっすぐ受け止めた。窓外の光がかげり、床の色が一段薄くなる。
「おかげさまで今のわたしは、こうして自由でいられます。……お祖父さまのご決断に、心から感謝しております」
言うほどに、指先のこわばりが解けていく。けれど同時に、知らなかった空白が体温を奪っていた。
「当然のことをしたにすぎん。孫を国の都合に差し出すわけにはいかんからな。――ただ、それを通すには代償が要った。私とロイドフェリクとの間に交わされた密約だ」
室内の匂いが、紙から蝋へと移る。砂時計の細い流れが、急に耳へ触れた。
「……お祖父さまが連日ご無理をされていたのは、すべてわたしの身分の保証と、離宮での滞在を認めさせるための取引だった。……そういうことだったのですね」
言い切る声は静かで、重い。わたしは息を吸い、肺の冷えをゆっくり吐き出す。膝の上の指が、知らず握りと開きを一度繰り返していた。
「どうして黙っていらしたのですか……。お体が優れないなか、そんなご無理をされて……」
問いは叱責に近かったのに、声は震えずに出た。膝の上で握った手の甲に、うっすらと血が通う。
ヴィルの視線が一瞬だけ寄り、すぐ外套の影へ戻った。
「無茶は承知のうえだ。退いた身が道理を押し通すには、それくらいのことはせんとな」
冗談めかした口調の奥に、固い石がある。わたしは視線を落とし、唇を噛んだ。噛んだ痛みが小さく走り、言葉を鞘に戻してくれる。
「わたしがいただいていた自由が……お祖父さまのご負担のうえにあったなんて。そんな大事なことも知らずに……」
言葉がほどけ、最後は声にならず喉で消えた。窓外を渡る冬の気配が、手首の薄い皮膚を撫でていく。レースがふくらみ、すぐにしぼむ。
「ミツルよ、自分を責めるでない。黙っていた私のほうが悪いのだ」
やわらかな叱り方。幼い頃に戻ったみたいで、胸のかたまりが少し崩れた。
「ですが……」
「君が自由でいられること。それを守り通すことが、老い先短い私にできる、メイレアへの――そして君への、せめてもの償いだ。せっかく会えたというのに、不在ばかりで、ろくに顔も合わせられず……心配ばかりかけてしまったね。すまなかった」
わたしは瞬きを一度深くして、視界の滲みを押し戻した。胸の中央に、あたたかいものと痛みが同時に沈んでいく。
「いいえ。お祖父さまのお気持ちに感謝しかございません。……同時に、自分の至らなさを思い知るばかりです」
膝の上で握った手を解き、指先を揃えて深く頭を垂れる。髪が頬に触れ、ひやりとした線を残した。
「これこれ、頭を上げなさい。私はこの通りまだぴんぴんしているし、君も得るものがあった。それでよいではないかね」
お祖父さまの声に、椅子の背が軽く鳴った。
わたしは顔を上げる。呼吸がひとつ分、楽になっていた。
「は、はい、お祖父さま」
応える声は、先ほどより少し温かい。その瞬間、ヴィルが視線だけでこちらを確認する。言葉にしない安堵が、青い瞳の底で短く灯って、すぐ騎士の無表情へ沈んだ。
時計の刻む音が、再び均された拍に戻る。光の柱に舞う埃が緩やかに降り、紙の薄い乾きと蝋の甘さが、やっと身体に馴染み始めていた。
――ここから先、わたしが選ぶ言葉は、もう誰の犠牲にも甘えないものでなくてはならない。
指先に残る石の冷えを確かめ、わたしはゆっくりと息を整えた。
◇◇◇
神代の技術、バルファ正教、新生クロセスバーナ。遠雷のような名が、机上の紙の角を震わせている。
危機は確かに近いのかもしれない。それでも「軍事ショー」は違う。視線を窓辺の金糸のほつれに落とし、そこで思考を留めた。
隣のヴィルが、姿勢だけで空気の向きを変える。外套の布が、ごく小さく擦れた。
「僭越ながら。先王陛下の仰せの通り、ミツルお嬢様の自由は何より尊重されるべきかと存じます。王家の道化に仕立てるなど、この方の魂を穢すに等しい。断じて許されることではございません」
石壁が、彼の声をすっきり返す。わたしは喉の緊張をひとつ飲み下した。彼がわたしの意志の輪郭を守ろうとしているのを、体温のあたりでわかっている。
短く刈った金髪、青い瞳。かつてのくだけた呼び方がふと舌先に戻りかけ、わたしはやめた。今の彼は、あえて騎士の言葉遣いを選び取っている。わたしを守るために。
『俺は騎士団って看板に唾を吐きかけてやりたくなった』
遠い焚き火の匂いまで蘇るあの台詞。そこからここまでの距離を想うと、胸の底に小さく熱が灯る。
「一度、王家の象徴として祭り上げられれば、容易には降りられなくなりましょう。離宮での保護も本来は一時の措置。いずれ旅立たれるその日のためにも、余計なしがらみは今のうちに断っておくべきかと存じます」
わたしの視線は、彼の手袋の縫い目に止まっている。きっちりと揃った針目が言葉の確かさと同じ拍で並んでいて、肩の力がひと目盛り下がった。
「ヴィルの言う通りです。このまま彼らの求めに従えば、学術的な発表という名目のもと、中身は力の誇示にすり替わってしまう。その危険はわたしも感じています」
口にした途端、喉の奥がひりついた。破壊のための力という札なら、わたしはもう背負いたくない。それでも、拒絶だけでは何も変わらない。
ヴィルの低い声が、わたしの名を呼んだ。
「お嬢様。私から申せるのはひとつだけです。どうか、安易なお答えを急がれませんよう。――ただし、あなたがお決めになったことであれば、私はどこまでもお支えいたします。万が一、その自由が奪われるような時が来るならば……あなたをお連れして、この国を出ることも辞しません」
「ヴィル……」
呼んだだけで、胸郭の内側が少し拡がる。彼は表情を崩さない。けれど、喉仏がかすかに上下し、外套の内側で握られた拳が――ほんの瞬きほど緩んでいた。
お祖父さまが、そのやりとりを受けて口元に笑みを戻す。
「ブルフォード。そなたこそ、まこと忠義の者。どうかこの先も、ミツルの傍にいてやってくれ」
「もったいないお言葉にございます」
「……ところで、さっきからずっと気にかかっていたのだが。その口ぶりはどうしたのかね。以前とは別人のようだが」
息の端で笑いがこぼれた。ヴィルは硬く見える手袋の指をいったんほどき、視線をわずかに逸らす。その仕草だけで、室内の空気が少し柔らかくなる。
「……思うところがございまして。少なくとも、お嬢様がリーディスに留まるあいだは、一騎士として正式にお仕えするのが筋と判断いたしました」
お祖父さまは目を細め、短く頷いた。
「ふむ、なるほど……であれば、これ以上は野暮というものだな。ミツルが納得しているのなら、それでよかろう」
「はい。彼の思うところは、わたしも承知しております。問題ありません」
彼の「リーディスに留まるあいだ」という言い回しが、光の埃みたいに胸に残っている。それが今の彼なりの盾なのだろう。ほんとうに、不器用なやさしさだ。
ヴィルの手が膝の上でそっと握られ、すぐに開く。肩がわずかに落ち、外套の褶が静かに揺れた。守る姿勢のまま、半歩だけ距離を置いている。近いのに、届かない。その塩梅が、いまのわたしたちだった。
石床を渡る淡い風が、場の気配を一度入れ替えた。わたしは姿勢を正し、口を開く。指先が震えたのを、掌の内側で押さえた。
――逃げない。拒絶でなく、定義で戦う。
「お祖父さま。……わたしは、王宮からの提案を受けようと思います」
針の音が一瞬止まった気がした。お祖父さまの視線が、陽光のなかでわたしをまっすぐ捉える。喉がきゅっと狭くなり、意識して呼吸を整えた。
「……受ける、と言うのかね。君は精霊魔術の軍事利用に、これまで断固として反対してきたはずだ。なぜ、ここへきて考えを改めた?」
わたしは掌の内側で指を一本だけ軽く折り曲げた。言葉の前に、身体の均衡をつくる小さな癖。
「わたしの精霊魔術が“破壊の力”へ傾いていくことに、ずっと抵抗がありました。だからこそ、軍事アピールなど断固反対だと、今でも叫びたい気持ちはあります」
掌の内側へ、爪の先がかすかに食い込んだ。
「ですが、現実の政治は狡猾です。理想を掲げるだけでは何も変わらない。王家はわたしを取り込むためなら、どんな手段も厭わないでしょう」
視線の端で、ヴィルの眉がほんのわずか動く。止めず、見守る合図。
「だからこそ、あえて表舞台に立ち、精霊魔術の本質をこの手で示したいのです。彼らにとっては軍事的な見世物でしかなくとも、わたしにとっては、正しい方向へ導くためのデモンストレーションにする。あくまで学術として、精霊魔術を証明してみせます」
拒絶ではなく、定義する。わたし自身の手で。
「お祖父さまが五年前に学問の独立性を宣言してくださったおかげで、王立魔術大学は王家の干渉を受けずに研究を続けられています。それが今のわたしにとって唯一の足場です。ここは学問の場であって、軍事利用の場ではない。その姿勢を、はっきりと示したいのです」
お祖父さまの瞳が柔らかく揺れ、光がその水面で砕けていく。机の縁を軽く叩きかけた指が止まり、やがて、音もなく伏せられた。
「ただ、それだけでは王家の顔が立ちません。実技のデモンストレーションは別途設けることにいたします。王都の城壁外にある練兵場なら、大型魔導兵装の試験運用も可能ですし、王家が望む演出にも応えられるでしょう」
腰の奥に力を入れ直す。背が伸び、声がひとつ低くなった。
「……ですが、わたしはそれをただの見世物にするつもりはありません」
「では、具体的にはどうする。君自身の精霊魔術を、どのように見せるつもりだ。まさか、ただ力を誇示するだけではあるまいね?」
わたしは首を横に振った。言葉の前に、呼吸をひとつ底まで落とす。
「もし破壊の力だけを強調したいのなら、大型魔導兵装とわたしの精霊魔術を並べて、派手な爆炎や破砕を見せれば事は足ります。けれど、それでは空虚です。そんな誇示に加担すれば、精霊魔術は結局ただの武力に見なされるだけですから」
窓の光が、机上の羽根ペンの軸をゆっくり渡っていく。
「……わたしは、そこに希望も未来も見出せません。示したいのは、破壊に頼らない精霊魔術の在り方です」
お祖父さまが低く唸った。ヴィルは何も言わない。ただ、外套の内側で握られた拳が、ほんの少し深く沈む。
わたしは一歩、学術の言葉へ踏み込む。
「具体的には――たとえば、火・水・風・土が複雑に絡み合い、自然災害のような大規模魔術が放たれたとします。わたしは属性ごとに〈場裏〉を複数同時に展開し、要素ごとに現象をまず受け止めます」
指先が宙でかすかに動き、属性を数えるように折れていく。喉の奥で、息が一度だけ止まった。
「そのうえで、属性ごとに現象を分解します。熱は熱として、水は水として、風は風として、地質は地質として捉え直し、それぞれの出力とベクトルを調整する。力を削ぎ、逃がし、ぶつかる前に小さくする。すなわち――相殺です」
羽根ペンの影が、紙の上で細く伸びた。お祖父さまの視線はそこを通り過ぎ、もう一度わたしへ戻ってくる。責めるためではなく、見極めるための沈黙だった。
昼下がりの光の帯が、足元をゆっくり伸ばしていく。
「最終的には霧散へと導く。つまり、破壊を止めるための精霊魔術を――その場で証明したいのです」
机上の羽根ペンが光を受け、小さく震えた。窓外の雲がほどけ、金の帯がもう一度、濃くなる。
時計の刻みは先ほどより規則的に聞こえている。わたしは静かに、もう一度だけ唇を結び直した。




