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スパイスの香りと揺れる想い

 意気揚々と厨房を出たとき、離宮の奥が妙に騒がしくなっていた。遠くから響くざわめきと、衛兵たちの慌ただしい足音が、廊下へあふれている。


「随分騒々しいわね。……何かあったのかしら?」


 揚げたてのチキンを包んだ油紙の包みを胸に抱えながら、わたしはその場に足を止めた。


 指先に残った油のぬめりとスパイスの温もりが、ひやりと流れ込む廊下の冷気にさらわれていく。胸の奥へ、細い金針がすっと差し込まれる。


 視線をめぐらせると、衛兵たちが廊下の奥、中庭へ抜ける右手の回廊へ走り去っていく。靴底が石を擦る乾いた連打。歩幅が勝手に伸びる。脈が速くなり、頬の熱がすうっと足先へ逃げた。


「……どうしよう。ヴィルはどこ……?」


 頭の内側で茉凜の声が響くかと思ったが、今は静かだ。確かめるしかない。そう決め、わたしは厨房の裏口を抜け、広間へ向かった。


◇◇◇


「あっ……」


 広間にたどり着いた瞬間、見慣れない文官風の男を厳しく叱責するヴィルの姿が目に飛び込み、わたしは息を呑む。


 石床の冷えが低く立ちのぼり、彼の声に合わせて空気がびりびり震えた。


「ここは先王陛下のおわす離宮である。いかに王命であろうと、このような狼藉は断じて許さん。いいか、二度と顔を見せるな。でなければ、貴様一人の首では済まされんと知れ!」


 いつもの落ち着きに、刃の背で撫でるような張り詰めが重なる。普段は寡黙な彼が、容赦なく突き放す口調だった。


 文官風の男は反論もなく、居心地悪そうに肩をすぼめて踵を返す。


 去り際、その男がわたしをじろりと見下ろした。舐めるような視線に皮膚がざわつく。胸の油紙の包みを抱き寄せ、紙に滲んだ薄い油染みへ一度だけ視線を落として呼吸を整え、それから顎を上げた。


 足音が遠ざかり、右手の回廊の向こうで扉がひとつ軋んで閉じる。わたしはすぐにヴィルへ駆け寄った。


「ヴィル……今の、見かけない人だったけれど、誰?」


 声をかけると、彼は深く息をついてから振り返る。


 剣帯の金具がかすかに鳴り、肩に残った緊張の硬さが低い眼差しの奥に揺れた。


「大したことじゃない。ただの後始末だ」


「後始末……って、いったい何があったの? どう見ても、あれは王宮からの……」


 わたしが問うと、ヴィルはちらりと視線を横へ。知らせまいとする硬さが、瞳にうっすら乗る。


「お前が気にする必要はない――」


 そこまで言いかけて、彼の視線がわたしの腕に留まる。茶色い油紙の角から、油の染みが薄く透けていた。


「……それは何だ?」


「あ、これは……!」


 思わず答えそうになったが、ヴィルは手を上げて制す。冷たさではない、傷つけまいとするためらいの指先。


「いや、いい。後で聞こう。それより、お前はすぐに部屋に戻れ」


「えっ……なぜ?」


「いいから、戻って休んでいろ。最近のお前は、ずっと働き詰めじゃないか。少しは自分の身体のことも考えろ」


 ――何を言ってるの……あなたの方こそ、もっと自分の身体を大事にしてほしいのに。


 喉まで出かかった言葉は、表情の陰りだけに留めた。無理をしているのが、わたしより彼のほうだなんて、わたしにだってわかっている。


「でも……」


「それから、余計なことに首を突っ込むんじゃない。こいつは俺の領分だ」


 少しきついその調子に肩がすくむ。いま何を重ねても届かないかもしれない。そんな冷えが胸へ沈む。


「じゃあな。あのキツネ野郎がちゃんと門を出ていったか確認してくる」


 踵が返り、靴音が石へ弾む。頼もしさの影で、置いていかれる不満が泡立った。


――だめだ。こんなことで、引き下がるわけにはいかない。


 胸の底から、衝動めいた熱が立ちのぼる。


「待って!」


 思ったより明るく上ずった声が広間に跳ね、わたしの鼓動が一拍遅れて追いかける。


「ブルフォード卿! 主として命じます、お待ちなさい!」


 言い終えると同時に、靴音がぴたりと止まった。広間を撫でていた微かな風が、すっと引く。


 形式上の“主”であれ、彼は剣の師であり、いちばんの味方。それでも今は、言葉に錠前が要る。


 ヴィルはあからさまにため息をつき、ゆっくり振り返る。


 隅にいた衛兵が一礼して消える。広間の冷えが一段緩み、かわりに沈黙だけが間に置かれた。


「……まったく、そう来るとはな」


 抑えた声に苦笑の温度。面倒くさそうでいて、どこか可笑しさが滲む。それだけで、胸の底に小さな安堵が灯った。


 ――ずるいってことくらい、わかってる。でも、これだけは譲らないんだから。


 息を整え、わたしは包みをすこし持ち上げる。油紙にこもった熱が指腹へ移る。


 広間は静まり、吐息の温度だけが往復した。


「……これ、あなたに食べてもらいたくて」


「俺にか?」


「うん。いつも頑張ってくれてるから、どうしてもお礼がしたかったの。それに……忙しそうで、ちゃんと食事も摂っていないんじゃないかと思って。せめてこれなら、と……」


 拙くても、まっすぐに。包みの熱が言葉の先へ届くことを願う。


 ヴィルはわずかに目を開き、包みを受け取った。紙が柔らかく鳴り、スパイスの香りがふわり広がる。薄い湯気が衣に触れて消え、揚げ肌が微かに光る。


 彼の喉が、ごくりと鳴る。


 その音に肩の力がほどけ、胸の内側に温度が灯った。


「これ、お前が作ったのか?」


「茉凜がアドバイスしてくれたけど……ぜんぶわたしがやったよ。ちゃんとレシピを見ながら、数値も手順もきっちり守って作ったんだから」


 黄金の衣、香ばしさ、ハーブとにんにく、東方の醤の深み。香りが鼻腔を撫でる。


「うむ、そうか……じゃあ、あとでしっかり味わわせてもらう」


 ――いまじゃないんだ……。


 喉の奥がからんと鳴り、肩をひとつ下ろす。


 その気配を見透かしたみたいに、ヴィルの大きな手が油紙の包みの中へ伸びる。


「あの……ヴィル?」


 わたしの問い掛けも間に合わず、躊躇なく一番大きな塊をつまみ上げた。


「……うまそうな匂いだ。こりゃあ、休み時間まで我慢できそうもないな」


 そのまま、口へ。


 普段の静けさが嘘のような豪快さに、驚きと嬉しさが一度に溢れる。


「あ……ヴィル、そんなに無理してがっつかなくても……まだ熱いし」


 思わず一歩近づく。


 眉がきゅっと寄り、熱に耐えるわずかな表情の合間から、衣がかさりと砕ける音。噛むたび肉汁の温度が想像で舌先へ迫り、わたしはただ見入った。


「むぐっ、むぅ……いや、せっかくの揚げたてだ、冷めちまったらもったいない」


 くぐもった声とともに視線が落ち、騎士の厳めしさが少年の素直さへ裏返る。


「うむ……」


 満足げに噛みしめ終えると、短く頷いた。


「……うまい」


 その一言が、胸の奥まで火を点ける。費やした手間が、確かな温度で返ってきた。


「……よかった」


 ヴィルは包みを握り直し、ひとつ咳払いして声を落とす。


「すまないな。お前も大変なのに……わざわざこんな気を使わせて」


「いいの。わたしがやりたくてやったことだから。……でも、ほんと、ヴィルも少しは休まないとだめだよ?」


 性分が休みを許さないと知りつつ、告げずにいられない。


 眉を下げるわたしに、彼は逆にわずかに眉を寄せる。


「……わかった。いや、気持ちはわかったが、目の前の仕事をしないわけにはいかん。お前だって同じだろう?」


「うん、それはそうだけど。でも、あなたも無理だけはしないでほしいの」


「ふん、俺を誰だと思っている」


 軽口の奥に微かな笑みが滲み、冷えていた広間の空気が、ふっと緩んだ。


「……ああ、そういえば」


 ヴィルが思い出したように顔を上げる。


 さっきの文官の件だろうと胸がきゅっとなる。けれど彼は、言葉をひとつ喉の奥でとどめるようにして、首を横に振った。


「……いや、まだ。今は大丈夫だろう」


 包みを軽く持ち上げ、鼻をすこし鳴らす。立ちのぼる香りが張り詰めをほどき、肩の線がわずかにやわらいだ。


「緊張していたが、この匂いで気が抜けた。助かったよ、ありがとうな……ミツル」


 小さな感謝が、静かに胸へ沈む。


「……どういたしまして。揚げたてがいちばんおいしいもんね。別に無理しなくていいけど、できれば温かいうちに食べてね。あ……でも、だからって仕事中にお酒はだめよ」


「わかっている。残りは仕事が終わってから、酒と一緒に味わわせてもらうさ」


 その「わかった」は、もう次の動きの前触れみたいに響いていた。


 広間の入口から衛兵の影がそっと覗き、報告の姿勢のまま立ち止まっている。ヴィルもそれに気づいたのだろう、背筋がすっと仕事の線へ戻った。


「さて、そろそろ俺も行かないとな。お前も、夕方には首席侍医殿が来る予定なんだろ?」


「う、うん、そうする。……ヴィルも、がんばってね」


 彼は横を向いて目を閉じ、短く息をついた。吐き出されたそれに、照れを隠すみたいなぬくさが混じる。


「ありがとう。……じゃあな、ミツル」


「……うん、またね」


 包みを軽く掲げたまま、マントをひらりと揺らして去っていく。背中が小さくなるまで、わたしはただ目で追った。


 遠くの呼び声に応じた途端、表情はもう任務の静けさへ切り替わっている。その鮮やかさが、余計に憎めなかった。


「はあ……」


 吐いた息が、胸に残っていた甘い余韻をゆっくりとかき混ぜる。乾いていた喉も、ようやく自分のものへ戻っていく。


――チキンを渡すだけで、こんなに緊張するなんて。


 それでも伝えたかった。日頃の感謝と、ほんの少しの「大丈夫?」を。


 広間を出ると、頬に触れた冷気が火照りをさらっていく。なのに足取りは、さっきよりずっと軽かった。


 『主として命じます』。似合わない台詞の余熱が耳の奥でまだ燻っていて、思い出すたび頬がまた熱を帯びる。


 文官風の男の嫌な視線がよぎり、背筋がぞわりと粟立つ。知らないままでいるのは落ち着かない。


 それでも、彼がいるなら、どんな面倒もきっと対処できる。深く息を吸い、守られているだけではなく、わたしにもできることを探そうと思う。


 包みを渡した瞬間の小さな達成感。美味しそうに頬張る横顔。わずかにほどけた表情。


「ふふ……本当に、食べてくれた」


 油紙を抱えていた指先に、まだ熱が残っている。離宮の厳しさのなかで、こんな甘さですら貴重だと知っていても。


 ――いいんだ。どうせこれは、ただの“ごっこ”なんだから。


 自室へ向かって歩き出す。足が軽いのは、“主命”の効き目だなんて思うと、また頬が熱くなる。


「……でも、これでよかったんだよね。わたしは、ヴィルにちゃんとお礼がしたかっただけなんだもの。きっと……それだけ」


 独り言にすることで、胸の波立ちが少し静まる。


 通りかかった衛兵の敬礼に、自然と笑みが返った。渡したものがちゃんと届いた。その事実だけが、体温をひとつ上げたまま、やわらかく残っている。


《《美鶴、お疲れさま。何だか、いい感じだったよ》》


「……そう、かな。ちょっと強引すぎたかもしれない。でも、彼がちゃんと食べてくれて嬉しかったかな」


《《うん、きっと喜んでるよ。あのスパイスチキン、わたしだって食べたかったくらいだもん》》


「ああ……そういえばわたしたちが食べる分、残してなかったね。ごめん」


 くすくす笑う気配が返り、口元が緩む。


 離宮の広間で立ち食い。あの勢いを見るのは、少し誇らしくて、ただ嬉しい。


「茉凜、ありがとうね。あなたが手伝ってくれたおかげだよ。温度も味も、きっとちょうど良かったんだと思う」


《《うふへへ。料理ってもんはね、レシピ通り正確に手順を踏めばまず間違いないんだ。環境要素とかもあるけど、基本的に数字は裏切らない。そこにマウザーグレイルのサポートがあれば、まさに最強。でもね……いちばんの隠し味は、相手を思う気持ちなんだから》》


 前世からの“得意”を思い出しながら、剣の中の彼女と“今”を共有できる不思議な温かさを、わたしはゆっくり息に混ぜた。


 窓辺で足を止め、庭を眺める。陽射しに枝葉が細かく揺れ、遠い石畳で埃が一粒、きらりと跳ねた。


 その明るさとは裏腹に、離宮の内側はいまだ落ち着かない。さっきの足音と視線は、たしかに何かを告げていた。それでも、ヴィルがいる限り、大丈夫だと信じてしまう。


 できることは小さい。手の届く範囲も、ほんのわずかだ。それでも今日、わたしはその小ささの中で、ちゃんとひとつ手渡せた気がした。


 窓辺に置いた指先へ、油紙の熱がまだ薄く残っていた。声に出して名をつけるほどのものではなくても、そのぬくもりだけは、たしかにわたしの手の中にある。


《《美鶴、そろそろ準備に取りかかったほうがいいかも。夕方に向けて、プレゼン資料(発表用の資料)もまとめとかないとね。わたしも手伝うから、さっさと仕上げちゃおう》》


「うん、そうだね。行こうか」


 歩き出すと、床に響く自分の足音が、ほんの少し弾んで聞こえた。


 もし夜にまたすれ違えたら、彼が何か言ってくれるかもしれない。そのときは笑顔で返そう。そんな小さな期待が、今のわたしをやわらかく満たしていた。


◇◇◇


 衛兵たちが任務を終え、離宮が夜の帳へ沈む。


 首席侍医アルベルトとの打ち合わせを終え、部屋へ戻る。ランプの灯りが静かに揺れ、窓の外は黒い庭園。


 扉を叩く控えめな音。胸が少し跳ね、「どうぞ」と声を上げた。


 立っていたのは、案の定、ヴィル。宵闇でも輪郭のはっきりした背丈、鋭い眼差し。その先に、わたしを真っ直ぐに捉える穏やかな温度。


「ヴィル……こんな夜更けにどうしたの? 何か変わったことでもあった?」


「いや、今は巡回中だが、特に問題はない。ちょっと、顔を覗きに来た」


 さらりと言われ、胸の真ん中が小さく跳ねた。


 彼の手には、昼間の油紙があった。きちんと畳まれ、中は空だった。


「ああっ……?」


 上ずったわたしの声。彼は少し照れて視線を逸らし、口角だけを上げた。


「……残りも全部食った」


「そ、そう……! よかった……。で、どうだった?」


「そうだな……冷めてもうまかったが、お前の言うとおり、揚げたてがいちばんだったな。あの時は、さすがに冷えたエールが欲しくなった。仕事中じゃなきゃ、だが。はっはっはっ」


 ふっと軽く笑う。昼間は取りこぼした明るさを、今はきちんと見られる。


「ありがとう……わたしも、作った甲斐があったみたい」


「……いや、こちらこそ助かった。あのあともしばらくバタバタしていたが、腹が満たされると違うもんだな。力が湧いたぞ」


 口数の少ない彼が、少しだけ饒舌に感じられる。それだけで胸の内がやわらぐ。


「これ、返しておく。……あと、ありがとうな、ミツル」


 空になった油紙が、不思議と愛おしい。受け取った指先にまで、微かな温度が移る。


「ううん、気にしないで。むしろわたしのほうこそ、食べてくれてありがとう……」


 沈黙が落ちる。


 けれど怖くない沈黙。呼吸がそろう心地よさ。


「……じゃあ、これで。また明日からも同じように敷地内と周辺の巡回だ。俺がいる限り、キツネだろうとネズミだろうと、一匹たりとも通さんから安心しろ」


 立ち去ろうとする背に、声がこぼれる。


「ヴィル」


 足が止まり、ゆっくり振り返る。月明かりに照らされた横顔の鋭さの奥で、薄く安堵が差したように見えた。


「……また、機会を見て作るから、次は何がいいかな。ご要望があったら教えて?」


 かすかな笑みで、彼は首を横に振る。


「ふん、贅沢は言わん。……お前が作ってくれたものなら、何だって食うさ。じゃあな」


 その言葉を最後に、夜の廊下へと消えていく。


 扉を閉め、深く息を吐く。畳んだ油紙を膝の上で押さえると、部屋へ残るスパイスの香りがかすかに揺れた。もう中身はないのに、指先にはまだ揚げたての熱が残っているようだった。


 文官風の男とヴィルの一悶着。明かされないもどかしさ。それでも、小さな贈り物は、確かに彼の口へ届いた。


 問題はまだ山積みだった。お祖父さまの病状、IVGの解放に踏み込む条件とリスク。ヴィルもまた、見えないところで戦い続けている。


 次に彼が疲れた顔を見せたら、遠慮なく新しい料理を差し入れよう。どんなに小さくても、わたしには大きな一歩だから。


 窓からそよぐ夜風がカーテンを揺らす。まばらな星の光を仰ぎ、ベッドの端に腰を下ろす。スパイスの名残が、ふわりと鼻先を掠める。


 ――明日、ヴィルはどんな顔をしてくれるだろう。


 畳んだ油紙の端を、指先でそっと撫でた。


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